第12話 細工師の路地
坂の途中で、南の空に雲が立っていた。
「イルゼさん、見てください! 南の空、あれ、金床の形です!」
「見てねえ。今あたしは銀三の話をしてんだよ」
「銀三って、一本で、ですよね」
「一本でだよ。あのじじい、秤に載せて、笑いながら三って言いやがった」イルゼは帳簿を抱え直した。「断ったから、麦を買う金がねえ。どうすんだよ」
「どうしましょう!」
「それを今考えてんだよ! あんたも考えろ!」
「考えてます! ……あ、光った。いち、に、さん、し、ご——」
「数えんな!」
「ろく、しち……遠いです! 今日はミルデまでは来ません。日暮れまで、たっぷりあります」
イルゼは立ち止まった。雲とアルノの顔を見比べ、それから帳簿を開いて、頁の端を指でめくった。めくる指が、ある頁で止まった。
「だったら、その間に路地を一本回る。細工通りに、昔ちょっと貸しのある爺さんがいる」
「貸しがあるんですね!? すごいです、イルゼさん!」
「声がでけえ。おいおい、取立屋の貸しを往来で叫ぶな」
細工通りは坂の裏側に隠れるように延びる細い路地だった。両側に間口の狭い店が並び、どの戸口にも小さな看板が下がっている。銀の指輪、錫の燭台、色硝子の玉。組合の紋を掲げた店が多いなかに、紋のない戸が一枚だけ混じっていた。イルゼはその戸を叩いた。
戸を開けた男は、イルゼの顔を見るなり半歩下がった。五十がらみで、指先がどれも細かな傷で白く、前掛けに色硝子の粉がついている。
「取立屋か。今月の分は、もう」
「今日は取りに来たんじゃねえよ、エーミル。売りに来た」
エーミルは瞬きをした。イルゼの後ろで籠を担いでいるアルノを見て、もう一度瞬きをした。
店の奥は窓が一つだけの工房だった。窓辺に作業台があり、小さな炉がくすぶっている。棚には割れた色硝子の欠片が、色ごとに小箱へ分けて並べてあった。イルゼが布の包みを解いて硝子の枝を渡すと、エーミルは黙って受け取り、窓の光へかざした。
枝の中に、筋が見えた。
外から見ればざらついた白い殻でも、光を通すと、内側の壁に細い筋が幾重にも走っている。雷が砂を焼きながら通った道が、そのまま硝子の中に閉じ込められていた。エーミルが枝を傾けると、筋が昼の光を青く割って、工房の壁に何本もの青い線を投げた。壁の上を、光の枝が這う。
「わあ……!」アルノは籠を下ろすのも忘れて、壁に駆け寄った。「壁に雷が落ちてます! ほら、ここで分かれて、こっちで——」
「触るな。枝が揺れる」エーミルの声は低く落ち着いていて、戸口で取立屋に怯えた男と同じ人とは思えなかった。「これは、どこで」
「言わねえ。買うか買わねえか、先に言いな」
エーミルはしばらく枝を回していた。窓の光が雲に翳り、壁の青い線がふっと消えた。
「細い枝なら、花嫁の髪飾りにする。これくらいで銀四十。腕ほどの太さがあれば、教会の窓に嵌める。そっちは金二だ。王都の聖堂が、光の入る窓を探してる」
アルノは籠の中の枝を数えた。どれも、指より細い。
路地の表を、誰かが通り過ぎた。紋のついた前掛けの男が、工房の窓をちらりと覗いて、そのまま歩いていく。エーミルは慌てもせず、枝を作業台の布の下に滑り込ませた。
「組合に睨まれるよ」イルゼが言った。「分かってて言ってるんだろうな」
「組合を抜けて十年になる。麦も塩も、組合の外の粉屋から買ってる。今さら睨まれて減る物は、ない」エーミルは布の上に手を置き、初めてイルゼを正面から見た。「それに、あんたには借りがある」
「貸しだよ。利息も取った」
「取ったな。取ったが、ひと月待った。あのとき商会に言いつけられていたら、この工房は差し押さえで、娘の嫁入り道具も質に入ってた。あんたが待ってくれたひと月で、娘が嫁に行けた」
アルノはイルゼを見た。イルゼは窓の外を見ていた。
「イルゼさん、優しいんですね!」
「優しくねえ。待った分の利息は、きっちり取った」
「でも、待ったんですよね!?」
「黙って籠を担いでろ、荷担ぎ」
イルゼの耳の先が、窓の光のせいか、赤く見えた。
エーミルが籠の中の枝を指で分けた。細いものと、それより細いもの。首を振る。
「今あるのは、髪飾り向きばかりだ。髪飾りなら、うちの店で年に売れる数は知れてる。聖堂の窓には、腕ほどの枝が要る。まっすぐで、途中で割れていないやつが」
「腕ほど……」アルノは自分の右腕を見下ろした。深く窪んだ輪を掘れば出る。けれど今日まで掘っても、そんな枝は指で数えるほどしか出ていない。
エーミルは籠から細い枝を一本だけ抜き、作業台の布の下へ戻した。「これは見本に置いていけ。聖堂の連中に見せる」
「値は」イルゼが帳簿を開いた。
「一本、金一と銀二十。聖堂の払いが済んでから」
「さっき金二って言ったろ」
「金二は、聖堂が払う値だ。削って、磨いて、鉛の枠に嵌めるのは俺だ」
「前金で半分」
「前金は無理だ。うちに金があるように見えるか」
「見えねえから言ってんだよ。後払いで逃げられたら、取り立てに来るのはあたしだ」
エーミルは初めて笑った。笑って、作業台の上で指を一本ずつ折っていった。
「十本。ひと月で持ってこられるか」
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