第32話 雷紋の人々
「人が足りねえ」
イルゼは帳簿を卓に広げ、ペンの先で頁の端から端まで一直線に線を引いた。
「家は、もとの村の者の分しかない。人が倍になって、屋根は増えてない。段々畑を起こすにも、硝子を掘るにも、雷木を運ぶにも手が要る。で、手を増やせば、口も増える」
「口が増えたら、お話しする人も増えますね!」
「食う口の話だよ」イルゼはペンで卓を叩いた。「あんたの口が、いちばん食って、いちばん稼がねえ」
アルノは天気帳を閉じ、卓に頬杖をついた。窓の外は晴れていて、雲は東の山の肩に糸のように一筋かかっているだけだった。晴れた朝のアルノは、どうしても頭の半分が眠っている。
「谷に来たい人って、いるんでしょうか」
「普通はいねえよ。雷の谷だぞ」
「普通じゃない人なら?」
イルゼのペンが止まった。顔を上げて、しばらくアルノを見ていた。
二人でミルデへ出す告知を書いた。行商人に持たせて街道の宿場ごとに読み上げてもらい、エーミルの店の窓にも貼ってもらう。アルノの最初の下書きは、紙いっぱいに字が躍っていた。
「雷に打たれて生き残った方、雷紋のある方、ザーラ谷は歓迎します! 雷のお話をぜひ聞かせてください! どこに落ちたか、何色だったか、音まで何拍だったか——」
「後ろ半分、全部消せ」
「えっ、いちばん大事なところです!」
「雷に打たれた奴はな、雷の話をされたくねえんだよ。そんな文句で来るのは、あんたと同じ雷好きだけだ」イルゼはペンで後ろ半分を太く消した。「家と麦と仕事がある。それだけ書け」
* * *
最初に峠を下りてきたのは、二人だった。
一人は女で、三十を幾つか越えたくらい。背に轆轤の円盤を縄で括りつけ、右の頬から顎の下へ、赤い枝の模様が這っていた。陶工のルドミラと名乗った。村の窯に雷が落ち、次の日から村の者たちは彼女の窯を「雷を呼ぶ窯」と呼んで、ある晩、叩き壊した。
もう一人は、腕の太い、髭の半分が焼けて縮れた男だった。鍛冶のヤネク。金床に雷が落ち、ヤネクは三日目に目を開けた。鍛冶場は燃え、それから彼は鉄に触ると手が震えるようになった。
二人とも、着くなり文句を言った。
「粘土が塩っ辛い」ルドミラは湖の岸の土を指でつまみ、舐めて吐いた。「こんな土で焼いたら窯の中で割れる。それに、午後は窯を焚けないって? 火を半日で止める陶工がどこにいる」
「鉄のない鍛冶場なんぞ聞いたこともない」ヤネクは領主館の革の蝶番を睨んだ。「よりによって、国でいちばん落ちる所に呼びやがって」
「すみません! でも、ここしか——」
「知ってる。ここしか呼んでくれなかったから来たんだ」ヤネクは鼻を鳴らし、尾根の上に育ち始めた雲を見上げた。「来てみりゃ、空が真っ黒だ」
文句を言いながらも、ヤネクの手は領主館の戸口から離れなかった。革の蝶番を指でつまみ、木の楔を爪で叩き、竹の窓の桟を撫でる。半地下の梁を見上げて、麻縄の結び目を一つずつ目で追った。
「……釘が一本もねえ」
「はい! この谷は、鉄を使わないんです。鉄は、雷に好かれるので」
「鍋は」
「土鍋です。鍬は、刃だけ石で。雷木の柄に、麻で縛ってます」
ヤネクは黙った。黙ったまま、戸口の柱に掌を当てた。太い指が柱の木目の上で、ゆっくりと開いた。国じゅうのどこへ行っても、鍛冶場の前を通るたびに手が震えた男が、この谷の戸口では震えていなかった。
ルドミラは湖の岸にしゃがみ込んだまま、まだ土を揉んでいた。
「朝のうちに焚いて、昼前に火を落とす。……そんな焼き方、聞いたこともない」
「朝は毎日晴れます! 一日も休みなく!」
「休みなく晴れて、休みなく落ちるわけだ」ルドミラは土を放り、指についた泥を前掛けで拭いた。「割れても知らないよ」
村の者たちは二人の頬と腕を遠巻きに見ていた。雷の落ちる谷で、雷紋は死にかけた印で、死ななかった印でもある。どちらの顔で見ればいいのか、誰も決めかねていた。
アルノは二人の前にしゃがみ込んで、ルドミラの頬をまじまじと見た。
「あの、見せていただいてもいいですか? 腕も!」
「……は?」
アルノは返事を待たずに自分の袖をまくった。手首から肘へ、肘から肩のほうへ、赤い枝が伸びている。冬の湿地のあとに増えた細い枝だけ、新しい芽のように色が濃かった。
ヤネクが口を半分開けたまま、つられて袖を肘までまくった。手首から肘へ、太い幹が一本。そこから枝が少なく、短く出ている。ルドミラは渋い顔で、それでも襟を開き、首から肩へ続く模様を見せた。細かな枝が窓の霜のように幾重にも分かれている。
二本の腕と一つの首筋が、半地下の戸口の光に並んだ。形は、どれも違った。
「すごい……!」アルノは三つを見比べて声を上げた。「ヤネクさんのは幹が太いです。金床から一気に来たんですね。ルドミラさんのは、枝分かれ、私より多い! 細かく何度も割れてます。窯の煙突から入ったのかな、それとも——」
「おいおい」イルゼが後ろから襟首を掴んだ。「人の古傷で目を輝かすな」
「だって、全部違うんです! 同じ雷なんて一本もないんですよ!」
ルドミラは襟を閉じるのも忘れて、アルノを見下ろしていた。ヤネクはまくった袖を下ろしかけて、途中で止めた。二人とも、この傷を見せたあとの人の顔なら、いくつも知っていた。目を逸らす顔。指さす顔。黙って一歩下がる顔。
「……喜ぶ奴、初めて見た」
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