第31話 春の選択
峠の雪が道の両脇へ寄せられて黒く汚れ、そのあいだを春いちばんの荷車が軋みながら下りてきた。荷台の麦袋の上に、赤い封蝋の手紙が一通載っていた。紋は麦の穂の上に雨粒が三つ並んだ形。レーゲン伯の家のものだった。
アルノは領主館の半地下で、左腕を卓に載せたまま封を切った。湿地に三本落とした日から、七日が過ぎている。包帯は肘の下まで減ったが、指を握り込むと、肩の近くまで皮膚が枝の形に突っ張った。
手紙は整った字で、短かった。傭兵隊の件、お見舞い申し上げます。私はガスパル殿に、谷へ入るなら朝だと勧めました。冬の午後を選んだのは彼の勘定で、私の勘定には入っておりません。契約は冬の終わりをもって解いてあります。捕虜の扱いは、保持者殿のご随意に。
「朝を勧めた、って書いてあります」アルノは手紙を裏返し、また表に戻した。「ちゃんと、正しいほうを」
「正しいほうを勧めて、間違ったほうに金を払ってたんだよ」イルゼは帳簿から顔も上げなかった。「負けたら他人、勝ったら自分の手柄。手を洗ってから握手しに来る奴の書き方だ」
「でも、嘘は書いてないです」
「だから厄介なんだろうが。……で、六十人ぶんの麦代は、伯は一枚も持たねえってことだ」
イルゼのペンが帳簿の右の欄を上から下へなぞった。この七日、捕虜たちは峠道の石を退け、選り場の硝子を洗い、薪を割って、そのかわりに薄い豆のスープを飲んだ。秋にズデンカが断った約束を、アルノは形を変えてこの六十人に使っていた。
「約束は、春です」アルノは手紙を畳んだ。「今日、選んでもらいます」
* * *
雪解けの水で、広場はぬかるんでいた。
傭兵たちが泥の上に並んで座っていた。冬を越して頬がこけ、髭が伸び、それでも槍を持っていた頃の座り方が抜けていない。村の者は家の戸口から顔だけ出して見ている。ボルクが広場の端に立ち、右耳をこちらへ向けていた。
アルノは広場の真ん中に立ち、両腕を広げかけて、左が痛んだので右だけ高く上げた。
「約束の春です! 残るか、出ていくか、選んでください。右へ行けば峠です。得物は返しませんが、峠の上まで、麦を三日分持たせます。左へ行けば村です。家は、これから建てます。麦は、働いた分だけ出します」
誰も動かなかった。前の列の男が、低く言った。
「村に残ったら、雷の下で暮らすんだろ」
「はい! 毎日、午後から落ちます。春はとくに多いです」
「……それを嬉しそうに言うなよ、領主さん」
後ろで誰かが吹き出した。笑いはすぐ消えたが、広場の空気がひとつ緩んだ。
最初に立ったのはガスパルだった。この七日で油の落ちた口ひげを指でしごき、大柄な体を泥から引き抜くように起こす。膝の泥も払わずに右へ歩き出し、三歩行って振り返った。
「あの日、なんで分かった」
「北西の風と、湖が凍りきってなかったからです!」アルノは身を乗り出した。「帳面に四回あって、四回とも——」
「長え」ガスパルは手を振った。「冬の午後は落ちねえ、谷のガキでも知ってる。俺はそう言った。……あれは取り消しとく。谷のガキは知らなかった。知ってたのは、あんたの帳面だけだ」
ガスパルはまた峠へ歩き出した。雇い主に切られ、手下の半分を置いて、それでもあの男は自分の負けを自分の言葉で言って帰っていく。背中が坂の曲がり角に消えるまで、アルノは見送った。
「……かっこいいですね」
「負けた奴を褒めんな」イルゼが帳簿の角でアルノの背中を突いた。「ほら、次が立つぞ」
一人が右へ行くと、二人が続いた。一人が左へ行くと、しばらく誰も続かなかった。ハンネが岩の上で素焼きの壺を二つ抱え、左へ歩く者が通るたびに、小石を一つ、空の壺へ落とした。からり、という小さな音が、ぬかるんだ広場によく響いた。
左へ歩きかけた若い男が足を止め、アルノの前へ来た。
「残ったら、槍を持たされるのか」
「持ちたい人だけです。持つなら、ボルクさんに教わってもらいます」
その名を聞いて、男たちの何人かが広場の端を見た。この七日、彼らに峠道の石を運ばせたのはあの男だった。ボルクは眉ひとつ動かさなかった。
アルノは泥を跳ね上げて広場を横切り、ボルクの前に立った。
「ボルクさん。峠の守りを、お願いできますか。保持者の務めなので、ちゃんと、正式に」
「正式にとは」
「谷の帳面に、守りの長として名前を書きます。お給金も出します。……いつか」
「いつか、は要らん」ボルクは広場を一度だけ見渡した。「番小屋のままでいいなら」
「番小屋のままで! あそこがいちばん峠に近いので!」
「分かった」
それだけ言って、ボルクはまた右耳を広場へ向けた。アルノの胸の奥が、ぽん、と跳ねた。イルゼが帳簿の頁を一枚めくり、何も言わずに一行書き足した。
日が高くなる頃には、広場の泥の上に誰もいなくなっていた。右の坂を、背中の列が峠へ上っていく。左の家々の軒先に、慣れない顔が所在なげに立っている。ハンネは壺の中の小石を、指で一つずつ数えていた。数え終えて、顔を上げた。
「……四十一。村と同じ」
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