↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雷鳴の辺境伯  作者: 雅龍(がりゅう)
第3章 落とす場所

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
30/50

第30話 冬の雷

 番小屋は空だった。ガスパルは峠の頂で、戸の開いたままの小屋を覗いた。炉の火は落ち、壁一面に刻まれた名前の前に、峠番の姿はない。


「逃げたか。十年ひとりで住んでて、最後はこれだ」


 昼を過ぎた谷は、読みどおりしんとしていた。半地下の家々は戸を閉め、広場にも尾根の麓にも人影がない。北西の空が低く、灰色の雲が尾根の上に座り込んでいた。


「隊長、雲が」


「雪雲だ。冬の雲は雪しか落とさねえ」ガスパルは両手剣を担ぎ直した。「下りるぞ。そりを引け」


 二百の足音と、そりの滑る音が、雪解けの坂を下りていった。


 選り場には、何もなかった。藁の切れ端が散らばり、凍った砂の上に、そりの跡が二筋、深々と刻まれている。跡は尾根の麓を離れ、湖のほうへ、湿地のほうへ延びていた。


「運びやがった」手下の一人が唾を吐いた。


「夜のうちにな。舟小屋だ。湖の舟に積んで、南の岸へ逃がす気だ」ガスパルは跡の深さを見た。重い荷だ。そう遠くへは行っていない。「追え。湿地を抜ければ湖だ。舟を出される前に押さえる」


 湿地は、水浸しだった。雪解けの水が凍った泥の上に溜まり、踏み込むたびに足首まで沈んだ。氷の薄皮が割れる音が、二百の足の下で途切れなく続く。隊は湿地の中ほどで横に広がった。先頭の者たちが、鉄の帽子をかぶった杭の列を見つけ、指さして笑った。


「なんだありゃ。案山子か」


「雷よけだとよ。谷の連中は、冬でも雷が怖えんだ」


「怖がって穴にもぐってりゃ世話ねえ。おかげで硝子は拾い放題だ」


 湿地の向こうの盛り土の上に、人影が二つ立っていた。若い男が左手を空へ上げ、黒い外套の女が帳簿のようなものを抱えている。


「隊長、あれ」


「保持者の坊主だ。硝子を返せって言いに来たんだろ」


 手下が自分の槍を見上げた。穂先が、じじ、と鳴っていた。


「……隊長。槍の先が」


 ガスパルは空を見た。雲の底が、紫だった。


     * * *


「いち、に、さん」


 盛り土の上で、アルノは数えていた。雲の奥が光るたびに、声に出して拍を数える。三つ。二つ半。二つ。湿地の上の、どのあたりで雷が重くなっているのか。どこへ落ちたがっているのか。拍を数えるたびに、それが手で触れられそうなくらい近くなっていく。


「坊ちゃん、先頭が杭の列まで来た」イルゼが帳簿を胸に抱えたまま言った。声がかすれていた。


「はい。見えてます」


 湿地の中ほど、雪解けの水が一番深く溜まっているところを、先頭の一団が膝まで浸かって進んでくる。その足元の黒い水。


「イルゼさん、盛り土から降りないでください。ここは乾いてます。網は、ここまで来ません」


「来たら、化けて出て利息を取り立ててやる」


「来ません! ……たぶん」


「たぶんを、今言うな!」


「いち、に……」


 ここ。


 アルノは指先に火花を灯した。ぱち。


 空が答えた。雲の底から白い線が降りてきて、アルノの指の一歩手前で折れ、湿地の上を斜めに走って、先頭の足元の水面に突き刺さった。水が白く爆ぜた。その瞬間、湿地の水という水の下で、青い網が一斉に広がった。網は氷の薄皮の下を這い、枝を分け、枝の先をまた分けて、四方へ二十歩、三十歩と走った。その上に立っていた人の足という足を、下から掴んだ。


 先頭の一団の膝が、一斉に折れた。


 音が来た。空と地面が同時に鳴り、谷の両側の岩壁に跳ね返って、何度も、何度も返ってきた。湿地の上で湯気が立ちのぼり、倒れた人の鎧が、水の中でかすかに青く光っていた。


「今日のいちばん!」


 アルノは叫んでいた。湿地の上に広がった光の網が、目の奥にまだ焼きついている。雲の中で、次が育つ。


「に——」


 横から伸びた手が、襟首を掴んだ。ボルクだった。盛り土の陰に伏せていた峠番が、いつの間にか隣にいた。


「数えるのは後だと、前にも言った」


「今日は、数えないと落とせないんです!」


 ボルクの手が、止まった。「……なら、数えろ」


 手が襟から離れた。アルノは雲を見上げ、声に出した。いち、に。二本目は、湿地の真ん中へ落ちた。


 先頭が倒れたのを見て、立ち止まり、固まり、後ろから押されて団子になった、その真ん中。水が爆ぜ、網が広がり、二百の隊列の腹が、そこからごっそりと抜け落ちた。槍が水に落ち、そりがひっくり返り、叫び声が、雷鳴の尻尾に呑まれて消えた。


「おいおい……」帳簿を抱えたイルゼが、呆れたような、震えたような声を出した。「おいおい、坊ちゃん。二本だぞ。二本で、あれかよ」


     * * *


 隊が、崩れた。立っている者たちが、槍を捨てて走り出した。半分は来た道へ、湿地の西の端へ戻ろうとした。けれどそこはぬかるみが深く、殺到した者たちが泥に足を取られて転ぶ。


 残りの半分が、東へ走った。湿地の東の端、北へ抜ける細い沢。まだ白く凍っている、あの沢へ。


 アルノの顔から、血の気が引いた。「だめ……! あの沢、氷が薄いんです!」


 雪解けの水が、朝から沢の氷の下を流れている。数人なら渡れる。百の足が一度に乗れば、割れる。


「ボルクさん!」


「三本目は、心臓のためだと言ったぞ」


「あの人たちの退き口です!」アルノは左手を上げた。「退き口が、死に口になっちゃう!」


 ボルクは、何も言わなかった。雲の中で、三本目が育っていた。拍を数える。いち、に。沢の入口の手前、まだ誰も立っていない、黒い水の溜まった窪み。先頭を走る男たちの、十歩前。


「……ここ!」


 火花。ぱち。三本目の雷が、沢の入口に落ちた。


 誰にも当たらなかった。黒い水の窪みが白く爆ぜ、青い網が、沢の入口をふさぐように扇形に広がって、走ってくる男たちの目の前で、光の壁になった。先頭の男たちが、つんのめるように立ち止まる。後ろの者がぶつかって、止まる。光の壁が消えたとき、誰も、もう一歩も前へ出ようとしなかった。


 ひとりが、槍を捨てて水の中に座り込んだ。隣の者が、それに続いた。次々と、膝をつき、両手を上げ、空を見上げたまま動かなくなった。


 ボルクが盛り土の上で、槍の石突きを泥に立てた。「……退き口を、読んだな」


「ボルクさんに、習いました」


     * * *


 ガスパルは膝まで水に浸かって、座り込んでいた。


 耳の奥で、鐘のような音が鳴りやまない。周りで、倒れていた手下たちが咳き込みながら起き上がってくる。どいつも髪を逆立て、焦げた匂いをさせながら、生きている。


 雲が、崩れ始めていた。灰色の底が裂けて、薄い夕日が一筋、湿地の上に差した。


 冬の午後は、落ちない。谷のガキでも知っている。伯は、何か言いかけていた。例外は、と。三度とも、狙った場所へ落ちた。


 盛り土の上に、若い保持者が立っていた。左手を、まだ空へ向けている。唇が動いていた。いち、に、さん。雷の去った空に向かって、まだ何かを数えている。


 ガスパルは生まれて初めて、空が怖いと思った。


     * * *


 アルノが膝をついたのは、雲が崩れきってからだった。


 左腕が、肘から肩まで燃えていた。赤い枝の模様が、肩の上へ一筋、伸びたのが分かった。指先が震え、耳鳴りがして、胸の真ん中の重さが、湿地の夜の三つぶん、ずしりと沈んでいる。


 心臓は、つまずかなかった。三つ。ちょうど、ベアタの言った数だった。


 舌の奥に、味が残っていた。


「……辛い」


「は?」


「今日の、辛いです! 唐辛子を、そのまま齧ったみたいな——」


「知るか!」イルゼがアルノの肩を掴んで支えた。その手が、震えていた。「毎回毎回、味の話から始めんな!」


 湿地では、ボルクと村の男たちが、座り込んだ傭兵たちの間を歩いて武器を集め、縄をかけ、ひとりずつ数えていた。西へ逃げた者たちは、泥を這い上がって峠のほうへ散っていった。ボルクは、そっちには誰もやらなかった。


 起き上がらない者は、ひとりもいなかった。アルノは震える右手で天気帳を開き、それを一番先に書いた。


 湿地の東の林の縁に、白いものがうずくまっていた。落雷の跡の湯気が消えるのを、じっと待っている。


 イルゼは縄をかけられていく男たちの列を、目を細めて数えていた。それから帳簿を開き、深く、長い息を吐いた。


「……粉屋の麦は、四十三人で春までの勘定だ。そこへ捕虜六十。春まで何人食わせられるか、また数えるぞ」


 アルノは泥だらけの顔を上げた。夕日が、湿地の湯気を赤く染めていた。


「数えます! 全部」


読んでいただきありがとうございます!

「続きが気になる」「面白い」と思っていただけたら、ブックマークや下の★★★★★で応援してもらえると、とても励みになります。


【第3章「落とす場所」のあらすじと登場人物】(第21〜30話)


■あらすじ

 峠が雪で閉じた冬、雷を食べる白い獣ヴォルタが硝子の穴に居座り、村の少年が傷を負う。夕暮れの湿地で獣と向き合ったアルノは、母の数え方を思い出し、雷を落とす場所を選べるようになった。雪解け後、伯との契約が切れた傭兵隊長ガスパルが硝子を狙って冬の午後に谷へ下りるが、アルノは三本の雷で二百の隊を止めた。


■登場人物


◆アルノ・ブラウエン

 ザーラ谷の保持者。母が自分のために数えながら書いた帳面の頁を、兄が運んできた束の中に見つけた。獣を見ることに夢中で少年の呼ぶ声に顔を上げず、泣いて詫びる。湿地の夕暮れ、恐怖で止まった数えを取り戻し、「落としたい場所に、落としました!」と叫んだ。


◆イルゼ

 ラッセル商会の取立係で、谷の帳簿係。アルノが三日寝込む間、獣の動きを代わりに天気帳へ書き込んでいた。傭兵隊長の読みを「あたしが山賊なら、そうする」と当て、伯の申し出には「守り賃じゃなくて年貢」と言い返す。湿地では、アルノの隣の盛り土に最後まで立っていた。


◆ボルク

 峠の番小屋に住む元百人長。湿地に杭の列を立て、獣にも東の沢という「退き口」を残させた。傭兵との戦いでは、数えようとするアルノの襟首を掴んだが、「……なら、数えろ」と手を離す。三本目を自分で決めたアルノに、「退き口を、読んだな」と告げた。


◆ハンネ

 小石の壺で雷を数える村の女の子。雷の来ない冬の空を前に「冬はお休みが多いって、言ったでしょ」と、帳面に突っ伏す領主に言い聞かせた。峠に兄の一行が現れた時、旗竿から谷じゅうに知らせたのも彼女だった。


◆ベアタ

 村に住む元施療院の医者。冬の雷で焼けたアルノに「焼けが引くまで七日」と命じ、死体の脈は取らない主義だと突き放す。落とす場所を選べるようになった後は、「三本まで。一日にね」と新しい上限を告げつつ、喜ぶ数字ではないと釘を刺した。


◆マティアス・ブラウエン

 アルノの次兄で、王都の近衛騎士。鉄の鎧で峠に現れ、脱がされて下りてきた。第二王女が谷の硝子に目を留めたと伝え、手柄を家と自分の名で書いた報告書を持ち帰る。母の字には黙って指を触れた。「俺に任せろ」と言い、雪の中へ去った。


◆樽屋の年寄り

 谷の村の古老。孫の少年が獣の爪で脛を裂かれ、縫われる間じゅう戸口で孫の顔だけを見ていた。泣いて謝るアルノに「頭は、脚が治ったら下げに来い」と返す。雪解けの前、治りかけた孫を見届けて、下げられた頭を黙って受けた。


◆ヴォルタ

 落雷の跡を歩く白い獣。子どもたちが毛の鳴る音から名をつけた。雷硝子を噛まず、芯に残った雷だけを舐め取って生きている。硝子の穴に居座って少年を傷つけたが、湿地の光の川に追われて東の林へ移った。戦いの後も、林の縁で湯気が消えるのを待っていた。


◆ウルリヒ・レーゲン

 峠の向こうを治めるレーゲン伯。約束どおり冬の終わりの朝、傭兵二百を連れて現れ、峠の守りと引き換えに硝子の半分、次に三割を求めた。二度断られても笑みを崩さず、「春には、また別の数字をお持ちします」と言い残した。


◆ガスパル

 伯に雇われていた傭兵隊長。油で固めた口ひげに両手剣を背負う。契約が切れると「冬の午後は落ちねえ」と、谷の者が半地下にもぐる午後を狙って硝子を奪いに来た。湿地で三本の雷に隊を崩され、生まれて初めて空が怖いと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。