第29話 冬の午後
峠の西の野営地で、ガスパルは焚き火に手をかざしていた。
伯の金は、今朝で切れた。冬のあいだ山賊の尻を追い回した給金は、峠の上で最後の一枚まで払われ、伯は馬車の窓から礼を言って、穀倉の館へ帰っていった。二百の口は、明日から自分で食わせなければならない。
「入るなら、朝です」
別れ際、伯はそう言った。手帳を閉じる手つきまで、学者のように丁寧だった。
「あの谷は朝が晴れる。雷は午後にしか来ない。記録によれば、例外は——」
「伯爵様。冬の午後は落ちねえよ」ガスパルは笑った。「冬のあいだ、峠の上から毎日見てた。落ちたのは、ひと月に数えるほどだ。谷のガキでも知ってる。冬はお休みだってな」
伯は、言い返さなかった。私の勘定ではありませんので、と一言だけ残して、窓を閉めた。
朝は駄目だ、とガスパルは焚き火を睨んだ。谷の者は、朝のうちに穴を掘りに出る。選り場の周りに、鍬を持った男たちが、蟻のように散らばっている。槍を担いだ峠番もいる。朝に下りれば、見られる。見られれば、硝子を持って逃げられるか、穴を掘る鍬が槍に変わる。
午後なら、違う。
峠の上から、冬じゅう谷を見てきた。昼を過ぎると、谷の者は一人残らず半地下の穴へもぐる。雷の来ない冬でも、それは変わらなかった。何十年も体に染みついた習いは、雲が来なくても抜けない。
午後の選り場は、空っぽになる。藁包みの山が、誰の番もなしに、冬の薄日の中で光っているのだ。
「そりを組め」ガスパルは手下に言った。「明日の午後だ。下りて、積んで、上がる。日暮れまでに峠の西だ」
* * *
「そりを組んでる」
ボルクが番小屋から下りてきて、領主館の戸口に立ったまま言った。右耳が、卓のほうを向いている。
「峠の西の野営だ。雪の上を引く、荷のそりだ。数えたら十はある。それから今朝、一人が番小屋に水をもらいに来た。谷の者は、昼を過ぎたら外に出ねえのかと訊いた」
「出ません、って答えたんですか?」
「答えなかった」
イルゼが帳簿を閉じた。「午後だな」
「午後……?」
「あたしが山賊なら、そうする。朝は選り場に人が群がってる。午後は、みんな穴に入ってる。硝子の山は、がら空きだ」イルゼは卓を指で叩いた。「伯は、朝に来いって言ったはずだ。雷を知ってるからな。けど、あのひげは伯の言うことを聞く顔じゃなかった」
アルノは黙って窓の外を見ていた。
北西の空が、低い。灰色の雲が尾根を這うように流れ、湖のほうから冷たく湿った風が吹き上がってくる。雪解けで緩んだ湖の氷の、黒い帯。今朝、その帯は岸から湖の真ん中まで、太く一本に繋がっていた。
「……明日の午後、落ちます」
「は?」
「冬の雷です!」アルノは振り返った。目が光っていた。「北西の風が尾根を越えて、湖に開いた水がある日は、落ちるんです。秋は、湖が凍る前でした。今は、氷が解けかけてる。帳面の秋の頁と、今朝の湖と、同じ形です。天気帳の冬の頁には、そういう日が四つあって、四つとも、すごく太かった!」
「嬉しそうに言うな」とボルク。
「嬉しいです! ……あ」アルノは口を押さえた。「ごめんなさい。傭兵さんたちの話でした」
「さんをつけるな。二百だ」
「湿地に、来てもらいます」アルノは卓の上に天気帳を広げ、谷の地図の頁を開いた。「杭の列の、あの湿地です。雪解けで、今はどこも水浸しです。選り場の硝子は、今夜のうちに湖の舟小屋へ移します。そりの跡を、わざと残して」
「退き口は」
アルノは地図の上で、指を止めた。湿地の東の端、細い沢が北へ抜けている。まだ凍っている沢だ。
「……湿地の東の、凍った沢です。傭兵さんたちの」
ボルクは鼻から短く息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。
「覚えたな」
「倉を、焼かれたので」
* * *
ベアタはアルノの胸に耳を当てていた。
長いあいだ、そうしていた。それから顔を上げ、左の腕を取り、湿地の夜から一本も増えていない赤い枝の模様を、指でなぞった。
「あの晩の一本は、ほとんどあんたの体を通ってない」ベアタは淡々と言った。「腕が焼けてないのが、その証拠だ。胸に重さが残ったのは、通った分のせい。ほんの端っこだけ、かすめていったんだろう」
「はい! 選べたんです。落とす場所を」
「選べるなら、話が変わる」ベアタは指を三本立てた。「三本まで。一日にね。それ以上は、腕じゃなく心臓で払うことになる。四本目から重く焼ける。五本で、止まる」
「三つも……!」
「喜ぶ数字じゃないよ」ベアタは指を下ろした。「秋に言った数から、止まるところが二つ先へ延びた。それだけだ。すぐそこにあるのは、前と同じだよ」
アルノは頷いた。頷きながら、指を折って数えていた。
* * *
夜、選り場の藁包みを、村じゅうの手で舟小屋へ運んだ。
雪解けのぬかるみの上に、そりの跡が二筋、選り場から湿地のほうへ延びていく。わざと深く、わざと分かりやすく。月の明かりで、その跡が白く光っていた。
ボルクが湿地の縁に立ち、北西の空を見ていた。アルノが隣に並んだ。
「ベアタは、何本と言った」
「三本です。今の私なら、一日にそれだけは選べるって。五本で止まるって」
「なら二本で勝つ段取りを組め」ボルクは空から目を離さなかった。「三本目は、お前の心臓のために取っておけ」
読んでいただきありがとうございます!
「続きが気になる」「面白い」と思っていただけたら、ブックマークや下の★★★★★で応援してもらえると、とても励みになります。




