第28話 冬の終わりの朝
獣は、穴へ戻ってこなかった。
湿地の夜から、白い背中は東の沢の向こうの林に移った。冬の雷が落ちる日には杭の列へ下りてきて、鉄の帽子をかぶった杭の根を舐め、また林へ帰っていく。子どもたちは旗竿の上から、それを毎回大声で報告した。ヴォルタ、来た。ヴォルタ、食べてる。ヴォルタ、帰った。
尾根の麓の穴には、また鍬の音が戻った。樽屋の孫は杖をついて選り場まで下りてきて、藁包みを数える係になった。数えるたびに、指を折って、声に出す。
「いち、に、さん……領主さまの真似」
「真似しなくていい」樽屋の年寄りが、孫の頭に手を置いた。それから、アルノのほうを見ずに言った。「脚は、治りかけてる」
アルノは年寄りの前に立って、頭を下げた。年寄りは何も言わなかった。孫の頭から手をどけて、選り場の藁包みを一つ担ぎ、積み直しに行った。
雪が緩んだのは、それから二十日ほどたった頃だった。
尾根の北の斜面から、雪解けの水が細い滝になって落ち始めた。湖の氷が岸から痩せていき、黒い帯が日ごとに幅を広げた。峠の坂の雪が、朝の日差しで溶けては夜にまた凍り、また溶けた。そしてある晩、峠の番小屋から火の合図が二つ、谷へ送られてきた。
峠が、開いた。
* * *
最初の朝、谷は晴れていた。
夜明けの光が東の山の肩から差して、峠の坂を斜めに照らした。その光の中を、馬車が一台、下りてくる。後ろの車軸から、鉄の鎖が地面に垂れて、雪解けの砂利を擦っていた。じゃらじゃらという音が、静かな谷の朝に、ひどくはっきりと響く。
馬車の後ろに、槍が続いていた。
二列、三列、四列。雪解けのぬかるみを踏んで、穂先が朝日を跳ね返しながら、峠の坂を下りてくる。旗竿の子どもたちが、声を出すのも忘れて見下ろしていた。
「……二百」イルゼが、帳簿を胸に抱えたまま言った。「数えなくていい。二百だ」
領主館の前の広場で、馬車が止まった。降りてきたのは、秋に会ったあの男だった。ウルリヒ・レーゲン伯は、毛皮の外套の襟を整え、半地下の家々と、湿地の杭の列と、晴れた空を順に眺めて、穏やかに微笑んだ。
「おはようございます、若い保持者殿。約束どおり、冬の終わりの朝に伺いました」
「……おはようございます。朝早くに、ですね」
「朝早くに」伯は頷いた。「記録によれば、この谷の朝は晴れています。今朝もそのとおりでした。良い記録は、裏切りません」
伯の後ろで、槍の列の先頭にいた男が兜を脱いだ。赤ら顔で、口ひげを油で固め、背中に大きな両手剣を担いでいる。男は谷を見回して、面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
「ガスパル殿です」伯が紹介した。「冬の間、峠の西で仕事をしていただいていました。黒い羽根の残党を、三度追いました」
アルノの顔から、表情が抜けた。「……ズデンカさんは!?」
「頭目は捕まっていません」伯は手帳を開き、指で一行をなぞった。「記録によれば、あの女は雪の日にだけ動く。ガスパル殿の隊は、晴れた日にしか追いませんでした。追いつかないのが道理です」
ガスパルが肩をすくめた。「晴れた日に動かない奴を、晴れた日に追ったら、見つからねえ。当たり前の話だ」
アルノは、息を吐いた。それが安堵なのか何なのか、自分でも分からなかった。
「さて」伯は手帳を閉じた。「本題です。峠の守りを、私が預かりましょう。ガスパル殿の隊を、番小屋の脇に置きます。山賊も、組合の荷を狙う者も、峠を越えられなくなる。あなたは硝子を掘ることだけに専念できる」
「……代わりに、何を」
「硝子の、半分」
「出せません!」アルノは即座に言った。「半分は、谷の春の麦です。秋にも言いました!」
「秋とは事情が違います。あなたは冬のあいだに、選り場の山を倍にした」伯は尾根の麓を振り返った。藁包みの山が、朝日の中で白く光っている。「持っている者が守りを持たないのは、記録によれば、長続きしません」
「峠の守りは、います。ボルクさんが」
「一人で?」
「一人でも、十年守ってきました」
伯は怒らなかった。笑みも崩さなかった。イルゼが一歩前に出て、帳簿を開いた。
「伯爵様。硝子の半分を、峠の守り賃として年に払うなら、傭兵二百を雇える額の三倍になります。うちの帳簿じゃ、それは守り賃じゃなくて年貢って言うんですよ」
「財務の方ですね。数字の強い方だと、峠の商人から聞いています」伯はイルゼに軽く頭を下げた。「では、三割」
「出せません」アルノが言った。
「分かりました」
伯はあっさりと手帳をしまった。
「湿地の杭の列、あれは良い。獣の通い路を変えたのでしょう。記録に加えさせていただきます」伯は馬車の踏み台に足をかけ、振り返った。「では、条件は春に。春には、また別の数字をお持ちします」
従者たちが、広場の端に積んであった雷木の車軸を荷車へ移した。冬のあいだにボルクが倒した二十本、秋の馬と麦の賠償だった。イルゼが一本ずつ指で数え、伯は数え終わるのを待ってから頷いた。
馬車が向きを変え、鎖が砂利を擦る音が、峠の坂を上っていった。槍の列が、その後ろに続く。
列の最後尾で、ガスパルが立ち止まった。
振り返った男の目は、尾根の麓の選り場に向いていた。朝日の中で光る、藁包みの山。ガスパルは油で固めた口ひげの端をつまみ、しばらくその山を眺めてから、短く、長く、口笛を吹いた。
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