第27話 落とす場所
頭の上で、空が鳴った。
雲が来ていた。昼のあいだ尾根を撫でて通り過ぎていたはずの灰色が、いつの間にか湿地の真上に低く垂れ込め、夕闇の中でその底だけが、かすかに紫に濁っている。遅れて来た雲だった。半日遅れて、一番来てほしくない時に、来た。
獣が一歩、前へ出た。凍った泥が、その足の下で鳴った。
「来ないで……ヴォルタ、来ないでください。私、ごはんじゃないです。杭は、あっちです。あっちに落ちるんです、たぶん、もうすぐ——」
声が上ずって、自分の耳にも子どもの声に聞こえた。獣の耳が、名前のところで一度だけこちらを向き、また伏せられた。
アルノは左手を上げていた。人差し指の先に、火花が灯りかけては消える。雲の奥が光った。杭の列の向こう、東の空の低いところ。
「いち、に……」
そこで、止まった。
次の数が出てこなかった。喉の奥で何かが詰まって、息が入らない。雷鳴が来た。いつ来たのか分からなかった。数えていないから、遠いのか近いのか分からない。獣がまた一歩出た。白い毛並みの先で、青い火が小さく跳ねている。
いち、に。
また光った。今度は、もっと近く。アルノの唇は動いたが、声が出なかった。いち。に。その先が、どこかへ落ちてしまった。指先の火花が震えて、灯らない。膝が笑っている。後ろへ下がろうとして、踵が凍った泥で滑った。
屋根裏の、毛布の中だった。
雷が鳴るたびに体が跳ねて、息が詰まって、泣いていた夜。毛布の端が持ち上がって、冷たい空気と一緒に、手が入ってきた。背中に置かれた手のひら。その指が、一つずつ、背中を叩いた。
「光ったら数えるの」
とん、いち。とん、に。とん、さん。
「音が来るまで数えたら、もう怖くない」
「……いち」声が出た。「に、さん、し」
雷鳴が来た。四つ。アルノは唾を飲み込んだ。四つなら、杭の列の少し向こう。次が光る。
「いち、に、さん」
三つ。近づいている。雲の中で、雷が育っている。どこで育っているのか、目を閉じても分かる気がした。拍の数が、そのまま距離だった。四つは、あそこ。三つは、あそこ。二つなら——
光るより先に、分かった。
雲の底の、ちょうど獣と自分の間の真上で、何かが重く溜まっていく。夏の午後、窓の外の空気が甘く焦げたように匂い始める、あの一瞬前の重さ。溜まった雷が、落ちる場所を探して、雲の底を這い回っている。一番高いところへ。一番尖ったところへ。鉄に触れた人へ。
自分へ。
呼べば、来る。いつものように、指から入って、腕を焼いて、体を抜けていく。そうして体を抜けた先で、足元の泥に落ちる。
だったら。
最初から、足元に落ちてもらえばいい。
アルノは火花を灯した。ぱち。いつもの粒が、いつもより静かに指先で光った。そして指を空へ向けるかわりに、獣と自分の間の、凍りかけた泥の上へ向けた。薄い氷の下で、黒い水が揺れている場所。
ここ。
空が答えた。
白い線が雲の底から降りてきて、アルノの指先の、一歩手前で折れた。指をかすめて、氷の上へ。落ちた瞬間、氷の下で、青い光が網のように広がった。網は湿地の黒い水を伝って四方へ這い、枝を分け、枝の先をまた分けて、獣とアルノの間に、一本の光の川を作った。
音が来た。拍は、なかった。空と地面が同時に鳴って、湿地の氷が一斉に割れる音が、その下から追いかけてきた。
獣が、跳びのいた。
白い体が宙で身をよじり、光の川の向こうへ着地する。毛並みが一本残らず逆立って、ばちばちと鳴った。獣は割れた氷とアルノを見比べ、低く唸った。それから踵を返し、杭の列の空けてあった隙間を抜けて、東の沢のほうへ、雪を蹴って走っていった。
白い背中が、夕闇の中に消えた。
アルノは、泥の上に座り込んでいた。
左手を持ち上げる。指先がじんと痺れている。けれど、焼けていない。袖をまくった。赤い枝の模様は、昨日の夜と同じ長さのまま、どこにも新しい線がない。肘も、肩も、痛くない。ただ胸の真ん中に、握りこぶしほどの重さが一つ、ずしりと残っていた。
「……選べた」
声が震えた。
「選べた……! 落としたいところに、落ちた……!」
割れた氷の隙間から、湯気が立ちのぼっていた。湿地の黒い水の上を、青い光の名残が、まだ細い糸のように這っている。アルノは泥の上に両手をついて、それを見た。光の川の形を、目に焼きつけるように見た。
「今日のいちばん!」
叫んだ声が、湿地の上を渡って、尾根の岩壁に跳ね返った。
* * *
泥を踏む足音が、坂の上から駆け下りてきた。ランタンの光が揺れていた。
「坊ちゃん!」
イルゼだった。外套の前をはだけ、帳簿も持たずに、ランタン一つ提げて走ってくる。息が白い。湿地の縁で足を止め、割れた氷と、立ちのぼる湯気と、泥の上に座り込んでいるアルノを、順に見た。
「あんた、家にいねえから——」イルゼは言葉を切り、ランタンを掲げてアルノの左腕を照らした。焼けた跡を探す目が、腕の上を二度、三度と往復した。「……今の、何だ」
アルノは泥だらけの顔で、イルゼを見上げた。
「イルゼさん、腕、焼けてないんです! 見てください、線が一本も増えてない!」
「見てるよ。だから訊いてんだ」
「数えられなくなったんです。怖くて、いち、にで止まって。でも、数え直したら、雷がどこで育ってるか、拍で分かって。分かったら、自分に落とさなくてもいいって——」
「待て待て待て。順番に言え。数えられなくなった? あんたが?」
「はい。母に、背中を叩いてもらいました」
「……おいおい。誰もいねえ湿地でか」
「いました。ちゃんと」アルノは胸の真ん中に手を当てた。握りこぶしほどの重さが、まだそこにある。「あの子は、東の沢から帰っていきました。ボルクさんの空けてくれた隙間から」
イルゼはランタンを下ろし、割れた氷の上の、まだ細く這っている青い糸を見た。それからもう一度、アルノの顔を見た。
「坊ちゃん。もう一回訊く。何したんだよ、今の」
「落としたい場所に、落としました!」
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