第26話 遅れて来る雲
三日目の夕方に目を覚ますと、アルノは寝台の上で天気帳を開いた。
獣の欄が、三日ぶん埋まっていた。角ばった帳簿の字だった。杭の根に一刻。それから穴の縁へ戻る。寝る。寝る。寝る。その下に、小さく書き添えてある。穴から掘れた枝、選り場へ藁包み十二。坊ちゃんの一回ぶんが、それ。
「イルゼさんが書いてくれたんですか!?」
「子どもらが旗竿から叫ぶのを、あたしが書いただけだ」イルゼは卓で自分の帳簿をめくっていた。顔は上げない。「字の汚ねえ保持者より、あたしのほうが読める」
「十二……」アルノは指で数字をなぞった。「一回で、十二」
「半日で、十二。あいつはすぐ戻ってきた。次に掘れるのは、次に坊ちゃんが焼ける日だ」
アルノは帳面を膝に置き、天井の梁を見上げた。呼ぶたびに焼けて、そのたびに三日寝る。それでは冬が終わる前に、左腕が赤い枝で埋まってしまう。
「……杭を、立てます」
「は?」
「湿地に、杭の列を立てるんです」アルノは寝台の上で身を起こした。「湿地のいちばん奥、東の沢の手前に。鉄の帽子をかぶせた、高い杭をたくさん。冬の雷が落ちるのは、高くて尖ったところです。尾根より近くに、尾根より尖った杭の林があったら、あの子のごはんは、そっちに落ちます」
「ごはん、って言うな」
「穴より湿地のほうが、たくさん食べられる。そう覚えてもらえたら、穴は空きます。最初の一回だけ、私が杭の列に一本呼んで、あの子を連れていきます」
イルゼはようやく顔を上げた。それから、黙って戸口のほうへ顎をしゃくった。
戸口にベアタが立っていた。いつからいたのか、薬箱を提げたまま、アルノの顔を見ていた。
「焼けが引くまで、七日」ベアタは言った。「それまでは呼ぶな。呼んだら、今度の脈は、あたしが取れるうちに戻るかどうか分からない」
「七日……」アルノは指を折りかけて、途中でやめた。
「杭を立てるのは勝手だよ。呼ぶのは、焼けが引いてから」
* * *
杭は四日で立った。
ボルクが峠から斧を担いで下りてきて、村の男たちと雷木を割り、先に古い鍬の刃を打ちつけて鉄の帽子にした。湿地の奥、凍りかけた泥の上に、十本の杭が、人の背丈より頭二つぶん高く並ぶ。東の沢へ抜ける側だけ、杭を立てずに空けてあった。
「獣にも退き口を残せ」杭の列を見回して、ボルクはそれだけ言った。「追い詰めたら、獣は前に出る。人と同じだ」
「はい。東の沢から、あの子が山へ帰れるように」
「帰るかどうかは、獣が決める」
杭が立った翌朝、北西の風が吹いた。
湖の氷の黒い帯が、昨日より幅を増している。風が冷たく湿っている。アルノは尾根を見上げて、指を折った。昼過ぎに、雲が座る。落ちれば、杭の列の近くに一本。
「今日です! 今日なら、あの子は杭の列で自分で食べられます。私が呼ばなくても」
「ベアタの言いつけは」とイルゼ。
「呼びません。呼ばないで済む日だから、今日なんです」
村の男たちが湿地の縁の窪みに伏せ、子どもたちが旗竿に上がり、イルゼは帳簿を抱えて岩陰に座った。穴の縁では、獣が丸くなって眠っている。子どもたちの吐く息が、旗竿の上で白く千切れていった。
昼が来た。雲は来なかった。
尾根の肩に、灰色のものが薄く溜まってはいる。けれど座り込まない。風はたしかに北西から吹いている。湖の帯も開いている。帳面の冬の頁と、何もかも同じだ。なのに、雲の底は白いまま、尾根の上をゆっくり撫でて、東へ流れていく。
昼を過ぎ、日が傾いた。旗竿の子どもたちが、赤い布も黒い布も一度も揚げないまま、寒さに足踏みを始めた。壺の小石は、朝から一つも動いていない。
「坊ちゃん」イルゼが岩陰から立ち上がった。「日が暮れる。凍え死ぬ奴が出る前に引き上げだ」
「……はい」
アルノは北西の空を見たまま動かなかった。雲の育ちが遅い。湖の帯の幅と、風の冷たさと、それから、まだ帳面に書いていない何か。何が足りないのか、分からなかった。
村人たちが湿地から引き上げていく。ボルクは最後に杭の列を見回し、一本が朝の風で傾いでいるのを見て、明日直せと言って峠へ上っていった。
* * *
夕暮れの湿地は、青かった。
アルノは一人で、傾いだ杭の前にいた。家に戻って一度は外套を脱いだが、傾いだ杭が気になって、また出てきた。明日の朝では遅い気がした。杭の根元の凍った泥を、木槌で叩いて締め直す。叩くたびに、薄く張った氷がきしんで鳴り、湿地の向こうの岩壁から、木槌の音が一つ遅れて返ってきた。
木槌を止めたのは、音がしたからだった。
ぱち、と。焚き火の爆ぜるような。
振り向くと、杭の列の向こう、薄闇の中に、目が二つあった。
白い毛並みが、夕闇の青さを吸って、ぼんやりと光っている。獣は穴の縁から、ここまで下りてきていた。痩せたあばらが、息をするたびに上下する。鼻先が、アルノの左腕のほうを向いていた。袖の下で赤い枝の模様が、脈を打つように疼いた。
雷を食べる獣が、雷の通った腕を嗅いでいた。
獣が、低く身を沈めた。アルノの指先で、灯そうとした火花が、震えた。
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