第25話 雷獣の帳面
天気帳に、新しい欄ができた。
頁の右端を縦に区切り、上に「獣」と書く。その下に、子どもたちが旗竿から見張った獣の動きを、一日ずつ書き込んでいく。起きた刻。歩いた方角。舐めた枝の数。眠った場所。アルノはそれを、同じ頁の左側、雷の欄と並べた。落ちた刻。落ちた場所。光から音までの拍。
「これ、何になるんだよ」イルゼが卓の向こうから覗き込んだ。
「あの子が、いつ動くか分かります」アルノは二つの欄を指でなぞった。「ほら。ここも、ここも、ここも。獣の欄に『歩いた』って書いてある日は、全部、雷の欄にも一本あるんです。それも、落ちたすぐあと。落ちない日は、一日じゅう穴の縁で寝てます」
「落ちたら歩く。落ちなきゃ寝る。……犬かよ」
「犬より賢いです! 落ちた場所へ、まっすぐ行くんです。途中で寄り道しません。落ちたばかりの場所には、雷がいちばん濃く残ってるから」
イルゼの目が細くなった。帳簿係の目だった。「……ってことは、坊ちゃん。穴から遠いとこに落ちりゃ、あいつは穴を空ける」
「はい!」
「で、落とすのは誰だ」
アルノは黙って、自分の左手の人差し指を立てた。イルゼはその指を、帳簿の角で横に倒した。
「却下」
「一本だけです! ベアタさんの言った、一日一本です」
「それで、あんたは秋に倒れたんだよ」
「倒れても、一日で起きました」
「一日で、って言うな。あたしが一晩、あんたの息を数えたんだ」
アルノは口を閉じた。それから帳面を閉じ、イルゼのほうへ押しやった。
「少年の脚は、春まで治りません。穴が空かなきゃ、選り場はこのままです。イルゼさんの帳簿でも、それは足りないって書いてあるはずです」
イルゼは帳面を見なかった。自分の帳簿も開かなかった。どちらに何が書いてあるか、もう知っていた。
「……呼ぶのは一度きりだぞ。倒れたら、担いで帰るのはあたしじゃねえからな」
* * *
ベアタはアルノの左の手首に指を二本当て、脈を数え終えても、しばらく離さなかった。
「秋の焼けは、引いてる。脈も戻ってる」ベアタは指を離した。「一日一本。それ以上は、あたしは知らないよ。死体の脈は取らない主義でね」
「一度きりです。約束します!」
「約束は、あんたの心臓にしな。あたしにしたって何も変わらない」
ボルクが峠から下りてきて、段取りを組んだ。
穴から東へ、雪原を千歩。湿地の手前に、古い雷よけの杭が一本だけ立っている。杭の足もとに、秋に大樹の根元から切り離した鎖の残りを埋め、鎖を雪の上に三十歩ぶん延ばす。
アルノは鎖のもう一方の端を握って、火花を灯す。呼んだ一本はアルノの体を抜け、鎖を走り、杭の根で地面に入る。落ちた場所は、杭の根になる。
「お前は鎖の端で倒れる」ボルクは雪の上の鎖を足で真っすぐに直した。「獣は杭へ走る。お前の脇を通ってな」
「……はい」
「通るとき、動くな。目も合わせるな。死んだふりをしろ。お前なら上手いだろう、どうせ本当に半分死んでる」
「ボルクさん、それ、笑うところですか?」
ボルクは笑わなかった。ただ、鎖の端から杭までの雪の上に村の男を二人伏せさせた。アルノが倒れたら、獣が過ぎるのを待って引きずって戻る役だ。そして自分は、アルノのすぐ後ろの雪の窪みに、槍を寝かせて伏せた。
北西の風が吹いた日の昼過ぎ、尾根の肩に雲が座った。
アルノは鎖を右手に巻きつけ、左手を空へ上げた。雲の底が暗い。湿った冷たい風が首筋を撫で、左腕の赤い模様が、皮膚の下でちりちりと鳴った。穴の縁で、獣が顔を上げるのが見えた。
「……来てください」
指先に、火花。ぱち。
空が答えた。冷たかった。夏の雷が体の中を焼きながら抜けていったのとは違う。氷の針を束ねたものが指から入り、肘で折れ、肩で折れ、胸の中をまっすぐ貫いて、右手の鎖へ抜けていった。鎖が雪の上で青く跳ね、三十歩先の杭の根で、白い湯気と雪煙が爆ぜた。雷鳴が来たとき、アルノはもう雪に顔を埋めていた。
足音がした。重く、速く、雪を蹴る音。耳のすぐ横を通っていった。獣の毛が一瞬、頬を撫でた。焦げた匂いと、夏の草の匂いがした。アルノは目を閉じたまま、息を止めていた。
「……行った」ボルクの声がした。「杭の根に鼻を突っ込んでる。今のうちだ」
村の男たちが鎖ごとアルノを雪の上で引きずった。遠くで、穴のほうへ走っていく村人たちの足音がする。鍬の音。藁の音。獣のいないあいだに掘れるだけ掘るのだ。アルノは引きずられながら、空を見上げていた。雲が崩れていく。舌の奥に、何かが残っていた。
「……冷たい!」
「は!?」
後ろから追いついてきたイルゼが、雪の上に膝をついた。
「今日の雷、冷たかったんです! 冬のは、冷たいんだ——」
「黙れ! 今それを言うか!?」イルゼはアルノの左腕の袖をめくった。赤い枝の模様が、肩のほうへ、また一筋伸びている。アルノの指先が震えている。イルゼはそれを見て、奥歯を噛み、それから帳簿を膝に叩きつけるように開いた。
「で、その一本の値段は」
アルノは雪の上で、震える指を数えた。
「……三日、寝ます」
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