第24話 雪の上の血
白い獣は、谷を出ていかなかった。
冬の雷が落ちるたびに、獣は落雷の跡に現れて、焦げの輪の中の枝を舐めた。落ちない日が続くと、尾根の麓をうろついた。そしてある朝、村人たちが硝子を掘っている穴のそばで、雪の上に丸くなっているのが見つかった。掘ったばかりの枝に残る夏の雷を、嗅ぎつけたのだ。
「掘るのは、しばらくやめたほうがいい」樽屋の年寄りが言った。「あれが居るうちは」
「でも、峠が開くまでに選り場をいっぱいにしないと、春の荷が出せません」アルノは帳面を胸に抱えていた。「それに、あの子はまだ、誰にも何もしてません。枝を舐めてるだけです」
「あの子、ときた」イルゼが天を仰いだ。「坊ちゃん、本音を言いな。掘りたいのか、見たいのか」
「……両方です!」
「両方って言う奴は、たいてい片方しか見てねえんだよ」
アルノは掘るのをやめなかった。穴の風上に雪の壁を積み、そこに陣取って帳面をつけた。獣が何刻に起き、どの方角を向き、どれだけ枝を舐め、どれだけ眠るか。子どもたちは交代で旗竿から見張り、村人たちは獣から一番遠い穴で、雪を蹴散らさないように静かに鍬を入れた。
三日のあいだ、獣は何もしなかった。丸くなったまま片目だけを開け、掘る者たちを眺めていた。
「領主さま、あいつ、名前わかってるのかな」樽屋の孫が、鍬を担いだまま雪の壁の陰に滑り込んできた。「ヴォルタって呼ぶと、耳がこっち向くんだ」
「本当ですか!? 帳面に書かなきゃ」アルノはペンを走らせた。「耳が、こっち。……あ、でも、呼びに行っちゃだめですよ。遠くから呼ぶだけです」
「分かってるよ。じいちゃんにも、百回言われた」
少年は雪の壁から顔だけ出して、穴の縁の白い背中を眺めた。獣の耳が、ぴくりと動いた。
四日目の午後、北西の風が吹いた。
雲が尾根の肩に低く座り込む。アルノは雪の壁から身を乗り出して空を見た。冬の雷が来る。来るなら獣が動く。落ちる場所は、たぶん尾根の東の肩。帳面にペンを走らせ、雲の底の色を書き、風の強さを書き、湖の氷の黒い帯の幅を書いた。
「領主さま!」
呼ぶ声に、アルノは顔を上げなかった。雲の底が一段、暗くなったところだった。
「領主さま、見て! すごいの出た!」
樽屋の孫が、穴から這い出してきていた。両手で高く掲げているのは、大人の腕ほどもある枝だった。今掘り出したばかりで、芯の青い筋が、昼の光の中でもはっきり見えるほど濃い。少年は雪を蹴って、雪の壁のほうへ走ってくる。獣の寝ている場所の、すぐ脇を。
アルノがやっと顔を上げたとき、獣はもう起きていた。
白い体が低く伸び、雪を蹴った。音がなかった。少年が振り向いた。枝を胸に抱えたまま、足がもつれた。
獣の前脚が少年の脚をかすめ、少年は雪の上に転がった。枝が宙に飛んだ。獣は空中で枝をくわえ、着地すると、もう少年を見ていなかった。
「離れて! 動かないで! ——ヴォルタ、だめ!」
アルノは雪の壁を越えて走った。何を叫んでいるのか、自分でも分からなかった。
獣は枝をくわえたまま振り返り、毛を逆立てた。ぱちぱちと、あの音が鳴った。アルノが少年の前に膝をつくと、獣は低く一度だけ唸り、枝をくわえたまま穴のほうへ歩いていった。そして穴の縁に、また丸くなった。
尾根の東の肩に、冬の雷が一本落ちた。アルノは数えなかった。
* * *
少年の右の脛に、爪の痕が三本、深く走っていた。
ベアタが半地下の寝台で傷を縫った。少年は歯を食いしばって、布を噛んで、一度も声を上げなかった。そのあいだじゅう、樽屋の年寄りは戸口の脇に立ったまま、孫の顔だけを見ていた。
「骨には届いてない」ベアタが糸を切った。「春には歩ける。走れるかどうかは、春になってから言う」
「……ごめんなさい」
アルノは寝台の脇の土の床に、膝をついていた。
「私が、空ばっかり見てました。雲と、あの子のことばっかり帳面に書いて、呼ばれたのに、顔を上げませんでした。掘るのをやめろって言われたのに、やめませんでした。全部、私のせいです」
言いながら、声が崩れていった。膝の上で握った手の甲に、ぽたぽたと落ちるものがあった。拭おうとして袖を上げると、左腕の赤い枝の模様が目に入って、それがまた悔しくて、アルノは袖で顔を押さえたまま、しばらく何も言えなかった。
年寄りは戸口から動かなかった。ベアタは道具を片づけながら、アルノを見もせずに言った。
「泣くのは勝手だけど、そこに座ってると、あたしの足の邪魔だよ」
「……はい」
アルノは立ち上がり、年寄りの前へ行って、深く頭を下げた。年寄りは長いあいだ黙っていた。
「頭は、脚が治ったら下げに来い」
それだけ言って、年寄りは寝台の脇の丸椅子に座り、孫の額の汗を手のひらで拭った。
その日から、掘る穴は獣のものになった。村人は誰も尾根の麓に近づかなかった。選り場の藁の山は、峠が閉じた日から半分も増えていない。イルゼは帳簿を開いて、しばらく何も書かずに閉じた。
夜、アルノが寝台のそばを通りかかると、少年が目を開けていた。熱で頬が赤い。少年はアルノの顔を見て、かすれた声で言った。
「領主さま、あいつ、青く光ってた」
アルノは寝台の端で、立ち止まった。
「……きれいだった」
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