第23話 閉じた谷
ハンネの壺の石が、増えなかった。
峠が閉じて十日、谷には一本も落ちていない。尾根の上の空は低い灰色で、ときどき粉雪をこぼすだけで、塔にも金床にもならなかった。ハンネは毎日、岩の上で片方の壺からもう片方へ小石を移し、また戻して、同じ数を数え直していた。
「冬はお休みが多いって、言ったでしょ」
「言いました……」
アルノは領主館の卓に突っ伏していた。晴れた日のアルノは、たいていこうなる。帳面の束を広げ、母の字の頁を開いて眺め、次の頁の自分の子どもの字を眺め、また最初の頁に戻る。窓の外が明るいと、まぶたが重くなる。ペンは手に握ったまま、一行も進まない。
「冬眠かよ」イルゼが帳簿で頭を叩いた。「起きろ。熊だって春まで寝るのは金のある熊だけだ」
「熊は、お金を持ってません……」
「だから寝てる間に死ぬんだよ。ほら、立て」
冬の仕事は、硝子掘りだった。雷の来ない冬は、朝も昼も尾根の麓で掘れる。村人たちは雪をかき、凍った白い砂を鍬で割り、その下に夏から秋のあいだ埋まっていた枝を掘り出した。
尾根の麓の選り場には、藁で包んだ硝子が日ごとに積み上がっていく。峠が開いたら、エーミルのところへ運ぶ分だ。
「雷が降らなくても、硝子は減らないんですね」
「夏に空が働いた分を、冬に人が掘ってんだよ」イルゼは選り場の山を指で数えた。「峠が開くまでにこれだけ掘れりゃ、春の最初の荷は胸を張って出せる」
いちばんよく掘るのは、槍の少年だった。尾根の戦いで槍を伏せていた、あの声変わり前の少年で、樽屋の年寄りの孫にあたる。旗の番をしている孫娘の兄だ。
秋に腕ほどの枝を掘り当ててから、鍬の扱いは村の誰より速くなり、雪の下の凍った砂からも、枝を折らずに抜いてみせた。少年は掘り出したばかりの枝を、ときどき雪の上にかざしてアルノに見せに来た。
「領主さま、これ、中が光ってる」
アルノは枝を受け取って、自分の外套の陰に入れた。暗がりの中で、透明な枝の芯に、細い青い筋がかすかに浮かんでいる。息を吹きかけると、筋はふるえて、ゆっくり消えていった。
「本当だ! 夏に落ちた雷が、まだ中に残ってるんです。すごい、ずっと眠ってたんだ……!」
「すごいのは分かったから、選り場に積め」イルゼが外套の陰を覗き込んだ。「光っても光らなくても、エーミルの爺さんの秤じゃ同じ値だ」
「同じじゃありません、光ってるほうがきれいです!」
「きれいに値札はつかねえ」
少年が声を上げて笑った。年寄りの孫は、祖父と違ってよく笑う。鍬を担ぎ直すと、また雪を蹴って砂の穴へ戻っていった。
十四日目の午後、北西の風が強くなった。
尾根の肩に、灰色の雲が一つだけ、夏の塔よりずっと低く、ずんぐりと居座った。アルノは卓から跳ね起きて外へ走った。雲の底が暗い。湖の方角から湿った風が吹き上がり、北西の冷たい風とぶつかって、尾根の上で渦を巻いている。秋に商隊を送り出して外した日と、同じ形だった。
「来ます! 冬の雷です! みんな、戸口へ——」
言い終わる前に、光った。一本だけだった。夏の雷の三倍はありそうな太い一本が、尾根の麓、選り場から二百歩ほど東の雪原に落ちた。白い煙と湯気が噴き上がり、雷鳴が谷の両側の岩壁に何度も跳ね返った。アルノは両手を握りしめて、音の尻尾が消えるまで声を出さずに数えていた。
「……太い! やっぱり冬のは、一本が太いんだ!」
雲はそれきり崩れた。北西の風が雪雲の残りを東へ運んでいく。
* * *
最初に見つけたのは、雷見の旗の番をしていた子どもたちだった。
「領主さま! いる! あそこ!」
尾根の下の旗竿のところで、三人の子どもが指をさしていた。落雷の跡に、まだ湯気が立っている。黒い焦げの輪の真ん中に、白いものがうずくまっていた。
秋の日に落雷の煙の中を歩いていた、あの獣だった。山猫より大きく、狼より細い。けれど秋に見たときより痩せている。あばらの線が、白い毛皮の上からでも数えられた。獣は焦げの輪の中に鼻を突っ込み、雪の下から掘り出した何かを、音を立てて舐めていた。
「近づくな」背後で樽屋の年寄りの声がした。「落雷のあとを歩くなって、言ったろう」
「歩いてません! 見てるだけです」
アルノは雪の吹き溜まりの陰に腹ばいになった。イルゼが舌打ちをして、その隣にしゃがみ込む。子どもたちも真似をして、ずらりと雪の上に並んだ。
獣が顔を上げた。その口元で、透明な枝がきらりと光った。雷硝子だ。落ちたばかりの、まだ熱の残っている枝。獣は枝をくわえたまま首を振り、毛並みが逆立った。ぱちぱちと、焚き火の爆ぜるような小さな音が雪原を渡ってくる。
「ヴォル、タ」一番小さな子どもが、その音を口で真似した。「ヴォル、タって鳴ってる」
「ヴォルタだ」「ヴォルタ!」子どもたちの間で、名前はあっという間に決まった。アルノが止める暇もなかった。
「名前をつけんな。情が移る」イルゼが小声で言った。「あれは、うちの硝子を齧ってる獣だぞ」
獣は枝を噛み砕かなかった。舐めていた。枝の表面を、根元から先まで、長い舌で何度も。舐めるたびに枝の中の細い筋がかすかに青く光り、舐め終えると、光らなくなった。獣は光らなくなった枝を雪の上に落とし、次の枝を掘り始めた。
アルノは落とされた枝を見ていた。形は少しも欠けていない。ただ、さっきまで内側にあった青い光が、どこにもない。
「……硝子を食べてるんじゃない」
「は?」
「硝子に残った雷を、食べてるんだ」
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