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雷鳴の辺境伯  作者: 雅龍(がりゅう)
第3章 落とす場所

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第22話 手柄の行方

 翌朝、マティアスは卓の上に紙を広げた。


 王都の近衛で使う上等の紙だった。整った字で、もう半分まで書いてある。アルノは粥の椀を持ったまま、兄の肩越しに読んだ。


 ブラウエン男爵家は、王領ザーラ谷において、雷硝子なる新たな産物を見出した。また同家は、谷を襲った山賊六十を、近衛騎士マティアス・ブラウエンの指図のもと、尾根にて退けた。


 椀が傾き、粥が卓にこぼれた。


「指図してないじゃないですか!」


「してない。これからする」マティアスは袖で粥を拭い、紙をずらした。「俺が王都で話をする。そのとき、弟が一人で山賊を追い払いました、では誰も聞かん。三男が屋根裏から出てきたと思われて終わりだ。近衛の兄が段取りをつけた、なら聞く。聞けば、殿下のお耳に届く」


「でも、尾根の大岩を落としたのは村の人たちで、柵を組んだのはボルクさんで、正午まで山賊と値切り合いをしてくれたのはイルゼさんです! 雷の数を数えたのはハンネさんです。誰の名前も書いてありません!」


「書いたら、紙が汚れる」


「汚れません!」


「汚れるんだよ、王都ではな」マティアスはペンをインクに浸した。「借金取りと、峠番と、村の子ども。そんな名前が並んだ紙を、宮廷の誰が最後まで読む。お前の名じゃ、王都の戸は開かない。家の名で出すほうが、お前の谷のためだ」


「ずるいです!」


「ずるくて結構。俺は近衛だ。ずるくなきゃ、とっくに国境の砦に飛ばされてる」


 アルノはイルゼを振り返った。イルゼは戸口の柱にもたれ、腕を組んで聞いていた。アルノの目が助けを求めているのを見て、面倒くさそうに息を吐いた。


「坊ちゃん。金の勘定だけで言うなら、兄貴が半分正しい」


「イルゼさんまで!?」


「組合は、硝子の値を自分たちで決めると言ってきた。あれは、谷が田舎の穴で、後ろに誰もいねえと踏んでるからだ。ブラウエン家と近衛の名前が王宮で出りゃ、アンゼルムの爺さんは値札を書く前に一晩考える。一晩考えさせるだけで、一本あたり銀がいくつか違う」


「……じゃあ、残りの半分は?」


「戸が開くとこまでは、兄貴が正しい」イルゼは顎でマティアスの紙を指した。「開いた戸の向こうで、誰が椅子に座るか。そっちは別の話だ」


 マティアスが顔を上げ、初めてまともにイルゼを見た。「取立屋にしては、口が回るな」


「取立屋だから回るんだよ、近衛様」


 アルノは拳を握り、それから紙の端を指で押さえた。「署名は、しません。私の名前も書かないでください。名前のない人たちの横に、私だけ名前があるのは嫌です」


「好きにしろ。家の名だけで足りる」マティアスは最後の行を書き終え、砂をまいて乾かした。「それと、硝子を五本もらっていく。殿下にお見せする分だ」


 イルゼが帳簿を開いた。「一本、銀四十。五本で金貨二枚」


「家の物は家の物だろう」


「谷の物だよ。保持者は坊ちゃんで、帳簿はあたし」ペンが走った。「近衛の兄、硝子五本。貸し。……春までに返しな。利息はまけてやる」


 マティアスは口を開け、閉じ、それから短く笑った。「取立屋に借りを作ったのは、生まれて初めてだ」


 イルゼは返事のかわりに、帳簿のその一行に丸をつけた。


     * * *


 昼前、アルノは峠への坂の途中で空を見ていた。


 北西の尾根の向こうから、平たい灰色の雲が低く這ってくる。雷を孕んだ雲の塔の形とは違う。底が白く、厚く、ゆっくりと谷のほうへ垂れ下がってくる。


「兄上、今日のうちに峠を越えてください。昼過ぎから雪です。たぶん、明日の朝には峠が閉じます」


「たぶん、か」


「外したのは……一回だけです」


 マティアスは馬の腹帯を締め直し、藁をかぶせた荷車の鉄の鎧を見て、顔をしかめた。峠を越えるまでは脱いだままだ。「春にまた来る。殿下のお返事を持ってな。俺に任せろ」


「兄上」アルノは手綱に手をかけた。「王都で話すとき、せめて、谷の人たちが雷を数えたってことだけは」


「考えておく」マティアスの目が、アルノの左の袖に落ちた。袖口から、赤い枝の模様が手の甲まで覗いている。「その腕か。尾根で山賊を倒したのは」


「はい。呼んだのは、一本だけです」


「一本で、何人倒れた」


「……数えました。帳面に書いてあります。でも、口では言いたくないです」


「言えるようになれ」兄は手綱を引き寄せた。「王都じゃ、それが値札だ」


「考えておく」は、兄がものを断るときの言い方だった。子どもの頃から変わらない。アルノは手綱から手を離した。


 一行が坂を上っていく。騎士たちはシャツの上に外套を掻き合わせ、白い息を吐きながら番小屋の前を過ぎた。ボルクが戸口で右耳を向けて見送り、何も言わなかった。


 峠の頂で、マティアスが振り返った。手を大きく一度振る。その手の向こうで、最初の雪が降り始めた。一片、また一片と、白いものが灰色の雲の底から剥がれ落ちる。見る間に数えきれなくなって、峠の道も、藁をかぶせた荷車も、振った兄の腕も、同じ白で塗り込めていった。


 マティアスは雪の中へ消えた。峠は、それきり春まで閉じた。


読んでいただきありがとうございます!

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