第21話 近衛の兄
峠の上で、鉄が光っていた。
尾根の下の旗竿からハンネが両腕を振り、谷じゅうの子どもが同じ方角を指さした。鉄喰い峠の頂、ボルクの番小屋の前に、馬が六頭と人が七つ。そのうち六つが、頭から膝まで磨いた鉄の鎧を着て、初冬の薄日を跳ね返している。
「おいおい」イルゼが帳簿を小脇に抱えて空を仰いだ。「あれ、鍋を着て雷の下に来たのか」
「兄上です!」アルノはもう坂を駆け上がっていた。「マティアス兄上の近衛の方たちです! 今日は北西から雲が来ます、夕方に一本くらい落ちるかもしれません!」
「くらい、で走るな!」
番小屋の前に着くと、次兄のマティアスが兜を脱いで小屋の壁にもたれていた。顔が紙のように白い。供の騎士たちは馬の手綱を握ったまま、尾根の上の灰色の雲から目を離せずにいる。道端には、黒く焦げて飴のように曲がった蹄鉄が転がっていた。
「来たか、アルノ」マティアスは早口で言った。「着いてすぐ、峠の向こうで一本落ちてな。遠かった。遠かったが、馬が棒立ちになった。お前の谷は、客をこうやって迎えるのか」
「ようこそ、兄上! 鎧を脱いでください!」
「……なに?」
「鉄は全部荷車に積んで、藁をかぶせてください。剣もです。拍車もです。着たまま下りると、坂の三つ目の曲がり角あたりで、たぶん誰か打たれます」
「近衛が、鎧を脱いで歩けるか」
番小屋の戸口から、ボルクが右耳をこちらへ向けて言った。「脱がねえなら、夜まで小屋で待て。夜なら落ちん」
「……何者だ、この男は」
「峠の守りのボルクさんです」
「峠番に、さんをつけるのか。お前は」
「つけるなと、十回は言った」ボルクが言った。マティアスとボルクは一瞬だけ顔を見合わせ、マティアスが先に目をそらした。
結局、近衛の一行はシャツと外套だけで峠を下りた。北西の風が坂を吹き下ろし、騎士たちは歯を鳴らしながら藁をかぶせた荷車の後ろを歩いた。マティアスだけは歯を鳴らさなかったが、坂を一つ曲がるたびに空を見上げ、鼻の頭を赤くしていた。
* * *
半地下の領主館の入口で、マティアスは梁に額をぶつけた。
「なんだ、この家は。穴か」
「家です。空に見つからないように、半分もぐってるんです」
「見つかったら困るのは借金取りのほうだろう」
卓の向こうでイルゼが帳簿から目を上げた。マティアスはそれに気づかず、背負っていた包みを卓に下ろした。紐で十字に括られた、帳面の束だった。角が擦り切れ、一番下の何冊かは雨の染みで波打っている。
「父上からだ。屋根裏の床板の下にあったやつだと。俺が運ぶ羽目になった」
アルノは束の紐に指をかけ、すぐにはほどけずに、しばらく表紙を撫でていた。
「それと、もう一つ」マティアスは椅子にどさりと座り、脚を組んだ。「お前の硝子だ。ミルデの細工師が作った髪飾りが、王都の宝飾商を通って王宮に入った。第二王女殿下の手に渡ってな。殿下は宝飾商から細工師まで辿らせて、この硝子の出どころを訊いたそうだ。細工師は谷の名を言った。谷の名が王宮で出たんだぞ、アルノ。うちの家の者の谷の名が」
「エーミルさんの髪飾りが!? どれですか? 枝が三つに分かれたのですか、それとも——」
「知るか、髪飾りの枝なんか。大事なのは、殿下がご覧になったってことだ」
イルゼのペンが止まり、それからまた動いた。帳簿の端に、小さく何か書きつけている。アルノは覗こうとして、帳簿の角で額を押し戻された。
* * *
その夜、客間に兄を寝かせてから、アルノは卓の上で束の紐をほどいた。
いちばん下の、いちばん古い一冊は、手のひらほどの大きさだった。表紙の革が乾いて割れている。開くと、最初の頁に大人の字が並んでいた。細く、右へ少し傾いた字だった。
光った。いち、に、さん、し、ご。音。遠い。こわくない。
その下に、もう一行。
光った。いち、に。音。近い。でも、こわくない。
アルノはランプを引き寄せた。さの字の、最後の払いが丸く跳ねている。台所の棚の瓶に貼られていた札と、同じ跳ね方だった。頁をめくると、次の頁からは子どもの字になった。大きくて、行からはみ出して、数だけが何度も書き直してある。いち、に、さん。いち、に、さん、し。
毛布の端が持ち上がって、背中に手が置かれた。その重さを、背中がまだ覚えていた。あの夜、母は数えながら、片手でこれを書いていたのだ。
戸が軋んだ。寝間着の上に外套を羽織ったマティアスが、戸口に立っていた。
「眠れん。外で何か鳴ってる」
「北西の風です。今夜は落ちません」アルノは帳面を閉じかけて、やめた。「兄上。これ」
マティアスは卓の横に立ち、ランプの光の中の頁を見下ろした。早口の兄が黙っているのを、アルノは久しぶりに見た。
「……母上の字だな」
「はい」
「さの字の尻が、跳ねてる」
「はい! 兄上も覚えてたんですね」
マティアスは返事をせず、指先で一度だけ頁の端に触れた。それから顔を上げ、棚の上に目を移した。七つに分かれた硝子の枝が、ランプの光を受けて、壁に細い影を七本伸ばしている。
「アルノ」声はもう、いつもの早口に戻っていた。「王女殿下は、これを『誰が見つけた』とお訊きになると思う?」
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