第20話 十二枚
峠の上の山並みが、白くなりはじめていた。
閉じる前の最後の荷を、村の荷車に積んだ。腕ほどの硝子の枝が藁に包まれて並んでいる。荷車の車軸は雷木で、引く驢馬の蹄鉄は外して、蹄に革を巻いた。アルノは驢馬の蹄を一つずつ持ち上げて、革の巻き具合を自分の目で確かめた。
「そこまで見るのかよ」
「見ます。足は、全部見ます」
ミルデの細工通りの工房で、エーミルは十本の枝を、一本ずつ窓の光へかざした。かざすたびに、壁に青い線が走る。十本目を下ろしたとき、エーミルは長い息を吐いて、作業台の下から革袋を出した。
「聖堂が、窓の代金を先に寄越した。約束の値だ」エーミルは革袋の口を縛った紐を指でほどきながら言った。「秋に見本で置いてった細い枝な。あれで髪飾りを一つこしらえたら、王都の宝飾商が見るなり買っていった。王宮に納めるんだと。それを聞いた司祭が、窓の払いを急いだ」
「王宮!?」
「偉い人の髪に挿さるんだろうよ。誰の髪かは、宝飾商は言わない」
アルノは革袋を受け取り、作業台の上に中身を空けた。金貨が転がり出て、窓の光を跳ね返した。
「いち、に、さん、し……」
一枚ずつ、声に出して並べていく。エーミルが呆れた顔をした。イルゼは止めなかった。
「……じゅういち、じゅうに!」
十二枚の金貨が作業台の上に並んでいた。アルノは両手をその横について、じっと見下ろした。
「支度金と同じ数じゃねえか」
イルゼが隣から覗き込んだ。それから、少しだけ声を落とした。
「……でも、こっちはあんたが稼いだ十二だ」
アルノは顔を上げた。イルゼはもう帳簿のほうを見ていた。アルノは金貨をもう一度、今度は声を出さずに、指で数えた。
「で、夏の終わりまでに要るのが、あれの」イルゼは帳簿の一番下の数字を、ペンの尻で叩いた。「利息にもならねえ」
「はい」
「分かってんのか」
「分かってます。だから、嬉しいんです」アルノは金貨を一枚、指で立てた。「ゼロじゃなくなったので」
エーミルが、川沿いの粉屋を教えてくれた。組合の外で麦を挽いている、耳の遠い老夫婦の店だった。組合の値より安く、組合の値より袋が軽くなかった。
「雷の谷?」粉屋の婆さんが、耳に手を当てて聞き返した。「あんなとこに、麦を食う人がいるのかい」
「います! 四十一人と、あと私と、イルゼさんです!」
「声が大きいね。聞こえるよ、それなら」
イルゼが値切り、老夫婦が笑って、春までの麦が荷車に積まれた。十二枚の金貨は、半分より多く粉屋の手に渡った。店を出るとき、爺さんのほうが、袋を一つおまけに載せてくれた。組合の麦は、こういう載せ方をしないのだとイルゼは言った。
* * *
帰りの峠で、雲に追いつかれた。
頂を越えた下り坂の手前、尾根の肩の上で、灰色の塊が光っていた。晩秋の雲の列だ。アルノは荷車の前に立って、光を数えた。塊の尻尾が光り終わる。次の頭は、まだ光らない。
「今です!」
荷車が動き出した。驢馬の革の蹄が石を踏み、雷木の車軸が回る。荷車は二台。村の荷車と、粉屋の息子が御す一台だ。二台目の車軸も、ミルデを出る前に雷木へ替え、驢馬の蹄には革を巻いてあった。
その二台目の車輪が、三つ目の折れ目の手前で轍にはまった。粉屋の息子が降りて押すが、麦の重みで動かない。
アルノは駆け戻って、荷台の後ろに右の肩を当てた。押す。動かない。もう一度。手間取るうちに、切れ間の終わりが、もう頭の上まで来ていた。
南西の空が、光った。
数えていなかった。数える暇がなかった。光は頭上の雲の腹から真っすぐ降りてきて、アルノのすぐ脇の岩に落ちた。
白が、左腕を撫でた。
熱くなかった。指の先から肘へ、肘から肩へ、雷の通った古い枝をなぞるように、青い光が皮膚の上を滑っていく。光は肩で向きを変え、脇腹を伝い、左の脚を下りて、踵から濡れた地面へ抜けていった。足元の石の上で、青い網が一瞬だけ広がり、消えた。
アルノは荷台に肩を当てたまま、立っていた。
痛くない。胸も、つまずいていない。左腕を持ち上げる。袖は焦げていない。雷紋の赤い枝が、皮膚の下でちりちりと、心地よく鳴っていた。
「坊ちゃん!」
イルゼが坂を駆け戻ってきた。アルノの両肩を掴み、腕を見て、顔を見て、また腕を見た。
「何した! 呼んだのか!?」
「呼んでません」アルノの声は、自分でも驚くほど小さかった。「何も、してません。来て、撫でて……抜けていきました」
荷車が轍から抜けた。粉屋の息子が驢馬の尻を叩き、アルノとイルゼはその後ろを歩いて坂を下りた。アルノは歩きながら、何度も左腕を撫でた。
「痛くねえのか。本当に」
「痛くないです。焼けてもいないです」アルノは袖をまくって見せた。「着いた日も、杭の日も、鎖の日も、雷は私の中を通っていきました。今日のは、外を通っていった。……なんでだろう」
「知るか。あたしに訊くな」
「帳面に書きます。呼んでない、撫でた、抜けた、焼けない」
「書いたら、ベアタの婆さんに見せろよ。先に」
「はい!」
* * *
谷に戻ると、領主館の卓の上に、革の筒が一つ置いてあった。峠が閉じる前の、最後の郵便だった。
封の蝋には、ブラウエン家の紋。けれど宛名の字は、父の字でも長兄の字でもなかった。大きく、勢いよく、右へ傾いている。
「マティアス兄上だ!」
封を切った。紙は一枚きりで、走り書きが三つ並んでいるだけだった。
お前の硝子を、王女殿下がご覧になった。峠が閉じる前に行く。俺に任せろ。
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【第2章「雷硝子」のあらすじと登場人物】(第11〜20話)
■あらすじ
組合に雷硝子を一本銀三と買い叩かれかけたアルノとイルゼは、組合の外の細工師と組み、雷を鎖に通して太い枝を作り出す。峠では晩秋の雷を読み違えてレーゲン伯の荷を焼くが、谷に雷見の旗を立て、細工師から受け取った金貨十二枚で冬の麦を買った。帰ると兄マティアスの手紙が届いていた。
■登場人物
◆アルノ・ブラウエン
ザーラ谷の保持者。鎖を握って雷を通し、砂の中に透明な大樹を作って硝子の注文を揃えた。晩秋の空を「今日は来ません」と言い切って外し、霙の中で額を石につけて謝った。一人で空を見るのをやめ、谷に雷見の旗を立てる。帰り道、呼んでもいない雷に撫でられ、焼けなかった。
◆イルゼ
ラッセル商会の取立係で、谷の勘定を握る女。組合長の圧力を「銀三じゃ、売りません」と退け、昔返済を待ってやった細工師エーミルの伝手で硝子を売った。商隊の事故では「半分はあたしの外れだ」と責めを分け合う。伯への賠償は、金ではなく雷木の車軸で話をまとめた。
◆ボルク
峠の番小屋に住む元百人長。斧で雷木を倒し、焦げた皮の下から琥珀色の芯を剥き出した。十年前、命令で鉄の槍を担いで尾根に登った日のことを一言だけ語り、「俺は雷が嫌いだ。雷の好きな奴もな」と背を向けた。それでも頼まれる前に斧を担いで現れる。
◆ハンネ
小石の壺で雷を数える村の女の子。昨日の落雷の場所を全部覚えていて、硝子掘りの道しるべになった。雷を呼ぶアルノには「領主さまの分も、ちゃんと入れとく」と請け合う。雷見の旗の係になり、「今日のいちばん」を領主より先に叫んだ。
◆ベアタ
谷の村に住む老婆で、昔は王都の施療院にいた医者。雷に打たれて生きて帰った者の脈を取り続けており、アルノを「七人目」と数えた。大樹の翌朝、「一日一本。同じ日に三本で、あんたの心臓は止まる」と、谷の領主に限度を言い渡した。
◆アンゼルム・ラッセル
ミルデの商人組合長で、イルゼの商会の主。いつも笑顔を崩さず、雷硝子を一本銀三と値付けし、全部を毎月買うと持ちかけた。荷担ぎに化けたアルノを最初から見抜いていた。断るイルゼに「秤はいつでも空けておく」と言い残す。
◆エーミル
ミルデの細工通りで、組合を抜けて工房を営む細工師。雷硝子の中の筋が壁に青い雷を映す美しさを見抜き、聖堂の窓用に腕ほどの枝を注文した。見本の枝で作った髪飾りが、王宮へ納められる品として王都の宝飾商に買われていった。
◆ウルリヒ・レーゲン
峠の向こうを治めるレーゲン伯。三十年分の天気帳を持ち、馬車に鎖を垂らして走る学者肌の人物。荷を焼かれた賠償として硝子の採掘の半分を穏やかに求め、「記録によれば」で谷の弱みを突いた。「冬の終わりに、また伺います。朝早くに」と言い残す。
◆白い獣
落雷の煙の中を歩く、雪のような毛並みの獣。毛先で火花を弾かせ、焦げた輪に鼻を押しつけていた。谷の者は見たら目を伏せるという。遠くからアルノの左腕を嗅いで低く鳴き、尾根の北へ消えた。その方角へ、腕の雷の跡が疼く。




