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雷鳴の辺境伯  作者: 雅龍(がりゅう)
第2章 雷硝子

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第19話 雷見の旗

 三日のあいだ、アルノは半地下から出てこなかった。


 卓の上に、天気帳が二冊並んでいた。一冊は、これまでの帳面。もう一冊は、新しく綴じた白い帳面だった。アルノは古い帳面の頁を一枚ずつめくり、冬に近い日の記録を探しては、新しい帳面へ写していく。晩秋、北西の風。霜の朝。湖の縁が凍った日。書き写せる行は、ひどく少なかった。


「夏の帳面と、冬の帳面を分けます」四日目の朝、アルノは卓の前でイルゼに言った。目の下が黒い。「同じ帳面で読んだから、外しました。冬の空は、夏の空とは別の生き物です」


「で、冬の帳面は何行あるんだよ」


「……ほとんど、白いです」


「白い帳面で、この冬を読む気か」


「一人じゃ読めません」アルノは顔を上げた。「だから、一人で見るのをやめます」


     * * *


 その日の昼までに、谷の五か所に竿が立った。


 尾根の西の肩、尾根の真ん中の麓、湖の岸、湿地の縁、峠の下り口。竿は雷木の枝で、鉄の釘は一本も使っていない。竿の先には赤い布と黒い布が一枚ずつ巻いてあった。


「赤は、雲が育ったら揚げます。雲の底が黒くなって、頭が白い塔になったら。黒は、落ちたら揚げます」アルノは子どもたちの前で、二枚の布を振ってみせた。「それから、小石です。落ちたら一つ。光ってから音まで、いくつ数えたかも覚えておいてください」


「子どもを、雷の下に出すのか」


 樽屋の年寄りが、腕を組んで竿を見上げた。声は低かったが、あの広場の日ほど尖ってはいなかった。


「出しません。竿の脇に、穴を掘りました」アルノは竿の根元の、半地下の穴を指した。大人が屈んで二人入れるほどで、上に芝を載せてある。「子どもたちは、穴の中から綱を引きます。光ってから音まで、三つ数えられなかったら、綱を離して伏せる。竿は、村の杭より低くしてあります」


 年寄りはしばらく穴を覗き込み、中に入って、芝の屋根を手で押した。出てきて、孫娘の頭に手を置いた。


「三つだぞ。二つで伏せろ」


 竿の下に一人ずつ、子どもが立った。ハンネと、槍の少年と、樽屋の年寄りの孫娘と、湖の網元の双子。どの子も、自分の小石の壺を抱えている。ハンネが壺を持ち上げ、みんなに見せた。


「数えた分のお給金、出る?」


「出ます!」アルノが言った。


「出さねえよ!」イルゼが言った。


 子どもたちが一斉にイルゼを見た。イルゼは帳簿を開き、しばらく睨んで、それから舌打ちをした。


「……麦粥に、蜂蜜ひと匙。一冬ぶん。それ以上は出ねえ」


 子どもたちが歓声を上げた。


     * * *


 伯への賠償の話は、イルゼが一人で峠の西まで持っていった。


 戻ってきたイルゼは、封を切った伯の返書を卓に放った。整った学者の字だった。馬と麦の賠償は、雷木の車軸で結構。領内の荷車に嵌めるので、春までに二十本。採掘の件は、春に。


「車軸で、いいんですか!?」


「伯の馬車、鎖を垂らして走ってたろ。鉄の車軸が嫌いなんだよ、あの人も」イルゼは帳簿を閉じた。「だから言ってやった。金は春には消えるけど、車軸は伯の荷車が峠を越えるたびに、谷の名前を運ぶってな。伯は笑って受け取った。笑ったまま、採掘の話は一歩も下げなかったけど」


「イルゼさん、すごいです!」


「すごくねえ。雷木を二十本、冬のうちにボルクのおっさんに倒してもらわなきゃなんねえんだぞ。また手を貸さねえって言いながら来るんだろうけどな」


 言い終わらないうちに、戸口の外で重い足音が止まった。ボルクが斧を担いで立っていた。


「峠の商人が、二十本と言っていた」


「ボルクさん! 手を貸してくれるんですか!?」


「貸すとは言ってない。林を見に行くだけだ」


 イルゼが帳簿で顔を隠した。肩が震えていた。


     * * *


 その日の午後、晩秋には珍しく、南の空で雲が育った。


 アルノは領主館の明かり取りの窓に顔を押しつけて、谷を見ていた。窓から五本の竿が全部見える。最初に、湖の岸の竿に赤い布が揚がった。網元の双子の片方が、体ごとぶら下がるようにして綱を引いている。もう片方は穴の中から、その足首を掴んで引き戻していた。次に尾根の西の肩。真ん中の麓。赤い布が、谷を東から西へ順番に揚がっていく。


「雲の育ちが、谷を渡ってく……!」アルノの声が弾んだ。「見えます、イルゼさん! 一人で見てたら、絶対に見えなかった!」


「見えてんなら書け。冬の帳面に」


 尾根の真ん中が光った。


 太い一本だった。枝が空いっぱいに広がり、尾根の麓の砂を真っ白に照らす。雷鳴が半地下の梁を震わせた。


 アルノが息を吸い込んだとき、真ん中の麓の竿の下から、甲高い声が谷じゅうに響いた。


「今日のいちばーん!」


 続けて、湖の岸から、湿地から、峠の下り口から、子どもたちの声が重なった。今日のいちばん、今日のいちばん。竿という竿に、黒い布が揚がっていく。


 アルノは吸い込んだ息を、どこにも出せなかった。


 雷雲が尾根の奥へ遠ざかった夕方、ハンネが壺を抱えて領主館へ駆け込んできた。頬が赤く、息が弾んでいた。


「領主さま、今日のいちばん、ハンネが先に言った」


「ずるいです!」


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