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雷鳴の辺境伯  作者: 雅龍(がりゅう)
第2章 雷硝子

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第18話 記録によれば

 伯の馬車は、朝のうちに谷へ下りてきた。


 先に音が届いた。じゃら、じゃら、と、重い鉄が砂利を擦る音だ。峠道の最後の折れ目から現れた黒い馬車は、車体の後ろから長い鎖を垂らし、その端を地面に引きずって走っていた。鎖の先が石に跳ねるたびに、小さな火花が砂利の上に散る。御者の帽子にも、馬の鐙にも、ほかに鉄は見えなかった。


「鎖を垂らしてる!」アルノは戸口から飛び出しかけた。「雷を地面に逃がすためです! あの人、知ってて——」


「出迎えで跳ねんな。賠償の相手だぞ」イルゼが襟首を掴んだ。「いいか。何を言われても、その場で決めるな。うなずくな。はいって言うな」


「はいって言っちゃだめなんですか!?」


「今言ったな。それが駄目なんだよ」


 アルノは両手で、自分の口を塞いだ。


 馬車から降りたのは、細身の男だった。四十半ばで、上等だが飾りのない灰色の外套を着ている。顔は穏やかで、学者のように目が静かだった。ウルリヒ・レーゲン伯は半地下の領主館の戸口で頭を下げ、梁を見上げた。


「木の楔と麻縄。蝶番は革。見事に鉄がない。前の保持者の頃にはなかった心配りですね」


「村の人たちの知恵です! 私が来る前から、ずっと」


「なるほど」伯は微笑んだ。「では、それを変えずにおいた方の知恵ですね」


 卓を挟んで座ると、伯は膝の上に古い革の手帳を置いた。角がすり切れて、紐で何重にも括ってある。紐の結び目は手垢で黒く光り、頁の小口には、日に焼けた色の層が幾重にも重なっていた。一年で一冊。それを何十年も繰り返した者の手帳だった。


 アルノの目は、伯の顔よりも先に、その小口に吸いついた。膝の上の指が、勝手に色の層を数えようとして動いた。


「若い保持者殿。雷の時刻を当てる方だと、峠の商人たちが言っていました。私の荷の馬が、二頭焼けた日を除けば」


 アルノは膝の上で拳を握った。


「その日は、外しました。ごめんなさい。馬と麦は、弁償します」


「金は要りません。黒鉄尾根の硝子の採掘を、半分いただければ」


 イルゼのペンが止まった。アルノは顔を上げた。


「どうして、硝子なんですか」


「私の領地の麦は、ミルデの組合の秤で値が決まります。豊作の年ほど、安く買われる」伯は静かに言った。「硝子は、まだ誰の秤にも載っていません。載る前に、半分を私の手に置きたい。それだけのことです」


「半分は、谷の冬の麦です。出せません!」


「では、三割」


「出せません」


 伯は怒らなかった。手帳の紐を解き、頁を開いて、指で一行をなぞった。


「記録によれば、晩秋に北西の風が峠を越えた日、この谷の上で雷が鳴ったのは三十年で十一回。そのうち九回は、一本だけでした。太い一本です」


 アルノの息が止まった。


 十一回。夏の帳面には、一つもなかった。自分の十年の帳面が知らなかったことを、この人の帳面は知っていた。


 峠の肩で溶けて石に貼りついた蹄鉄と、膝の上に広げられた御者の焼けた手が、目の裏に浮かんだ。知っている人がいた。訊けば、分かったのだ。


「三十年!?」アルノは卓に身を乗り出した。「三十年分、つけてらっしゃるんですか!? 見せてください! 私のは、まだ十年分しかなくて、冬の頁がすかすかで——」


「おいおい、坊ちゃん。敵の帳面に目を輝かせんな」イルゼが帳簿の角で、アルノの肩を叩いた。


「条件次第で」伯は穏やかに言った。


「……硝子の、三割ですか」


「半分です。見せる分だけ、値が上がりました」


 アルノは口を開けたまま、伯の顔を見た。伯の目は静かなままだった。脅してもいないし、笑ってもいない。ただ、最初から最後まで同じ一つのものを欲しがっている目だった。


「金で払う場合は」イルゼが言った。声が低い。「馬と麦と、御者の手当て。いくらだ」


 伯は数字を一つ言った。イルゼの手が、帳簿の上で固まった。卓の端に積んだ硬貨の小さな山が、まるごと消えて、まだ足りない額だった。


「……馬二頭に、その値はねえだろ」


「軍馬の血を引いた引き馬でした。麦は冬の鉱山町に届けば、秋の倍で売れた。御者の手が戻るまでの日当も入れてあります」伯は手帳に目を落としもせずに答えた。「記録によれば、ですが」


「金でも構いません」伯は手帳を閉じた。「ですが、あなたの財務官の顔を見るに、金で払えばこの谷の冬の麦が消えるのでしょう。記録によれば、麦のない冬に、この谷からは毎年十人ずつ人が減っています」


「減らしません」アルノは言った。声が震えていた。「硝子も、半分は出しません。人も、減らしません」


「では、お決めになったら使いを」


 伯は立ち上がり、外套の裾を整えた。卓の上に開いたままのアルノの天気帳に、一度だけ目を落とす。震えた字で書かれた、晩秋の頁だった。


 伯は何も言わずに、戸口で梁をもう一度見上げ、それから、谷の朝の空を見た。雲一つない、晴れた空だった。


「記録によれば、この谷の朝は晴れています。三十年、一日の例外もなく」


 伯は振り返って、穏やかに頭を下げた。


「冬の終わりに、また伺います。朝早くに」


読んでいただきありがとうございます!

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