第17話 外れた日
十日ほどして、同じ商隊長が峠に戻ってきた。
今度は荷車が八台に増えていた。荷台には、レーゲン伯領の麦の袋が崩れそうなほど積み上がっている。どの荷車にも、雷木の車軸が嵌めてあった。商隊長は番小屋の前でアルノを見つけるなり、手を挙げた。
「冬の前の、最後の麦だ。鉱山町の冬の分でな。今日も頼む」
先頭の荷車の御者台で、若い御者が手を振った。十日前、焚き火の前で焼けた荷車の話をしていた男だ。
「今日の切れ間は、何数えだい、領主さま」
「見てから決めます!」
その朝は、風が北西に回っていた。空は高く晴れて、雲は北の山並みの向こうに灰色の帯を引いているだけだった。風が冷たい。湖からは湯気一つ立っていない。
アルノは天気帳の頁をめくった。夏の頁。北西の風の日には、印が一つもついていない。南から湿った風が来なければ、尾根の上で雲は育たない。谷の雷は、湖の湯気が作るのだ。
「今日は来ません!」アルノは帳面を閉じて、胸を張った。「北西の風の日は、雲が育たないんです。一日じゅう、通れます。切れ間を待たなくて大丈夫です!」
「そいつは、ありがてえ」
「冬はお休みが多いよ」ハンネが言った。今日は案内についてきていた。
イルゼは帳簿に何か書きかけて、手を止めた。「待たなくていいなら、案内料は半分だな」
「全部取ってください! 当たるので」
「そういう勘定をすんなって言ってんだよ」
荷車の列が峠の頂を北へ折れていった。麦の袋は重く、坂にかかるたびに馬の首が下がり、車輪が石を噛んで止まる。御者が降りて押す。前の荷車が止まると、後ろの荷車も止まった。空の荷車なら一息で上った坂を、麦を積んだ列は、蟻が這うように上っていった。
番小屋の前で、アルノは北の山並みを見ていた。灰色の帯が、朝より近い。近いどころか、山の稜線を越えて、こちらへ流れ落ちてくる。夏の雲は下から湧く。あの雲は、上から、横から来る。
「……谷の雲じゃない」
アルノの声は、誰にも届かなかった。風に、白いものが混じり始めた。霙だった。灰色の雲の底が尾根の肩へ覆いかぶさる。雲の腹の中で、青白い光が一度だけ、脈を打つように瞬いた。
「いち——」
音は、数え終わる前に来た。
尾根の肩の上に、太い一本が突き立った。夏の雷のように枝を広げず、一本の白い柱になって、道の真ん中、列の先頭の荷車へ落ちた。先頭の馬の蹄の下で、濡れた石が弾けた。
アルノは走った。霙が顔を叩く。肩を回る道を駆け上がると、焦げた匂いが鼻を刺した。
列の先頭で、馬が二頭、脚を投げ出して倒れていた。引き具の金具が黒く焦げ、蹄鉄が溶けて石に貼りついている。荷台の麦の袋が裂けて燃え、霙に打たれて白い煙を上げていた。御者の男が道端に座り込み、焼けた両手を膝の上に広げて、ぼんやりそれを見ていた。
商隊長が、御者の肩を抱えていた。顔を上げた。アルノを見た。
アルノは数えなかった。数えることを、思い出しもしなかった。倒れた馬の、溶けた蹄鉄を見ていた。
車軸は木だった。けれど馬の脚は鉄を履いていた。空の荷車なら切れ間に抜けられた坂を、麦を満載した列は、一刻かけても半分しか上れていなかった。夏の帳面ばかり見て、馬の足も、荷車の遅さも、見ていなかった。
アルノは霙の中で膝をつき、額を濡れた石に近づけた。
「ごめんなさい。私が、読み違えました」
商隊長は何も言わなかった。御者の焼けた手に、自分の外套の裾を巻いている。
「来ないと言いました。来ました。馬と、麦と、この人の手は、私のせいです」
「たぶん、って言ってたな。前は」
「言いました」アルノは顔を上げなかった。「今日は、言いませんでした」
霙が強くなった。燃えていた麦袋の火が音を立てて消えていった。焼けた手の御者は、あの若い男だった。膝の上の手を見下ろしたまま、誰にともなく言った。
「……何数えか、訊くんだったな」
* * *
その夜、アルノは天気帳の新しい頁を開いた。晩秋。北西の風。雲は北の山から来る。一本。太い。枝を広げない。書いているうちに、手が震えて字が崩れた。イルゼは向かいで帳簿を開いたまま、一度もペンを動かさなかった。
「……空だけ、見てました」アルノは帳面から顔を上げずに言った。「空の荷車なら抜けられたのに、麦を積んだら、半分も上れてなかった。馬の足が鉄なのも、分かってたのに」
「あたしも見てなかったよ」
「イルゼさんは」
「案内料を取ったのは、あたしだ」イルゼはペンを置いた。「待たなくていいなら半分って言った。あんたが全部取れって言った。あたしは取った。だから、半分はあたしの外れだ」
「……半分ずつ、ですか」
「利息はつけねえよ。今回だけな」
アルノは鼻をすすり、帳面の一行目に戻った。北西の風。その下に、小さく書き足した。荷の重さ。馬の足。
翌日の昼、峠を下りてきた騎手が、賠償を求める書状を置いていった。外套の胸に、紋が縫い取られていた。麦の穂の上に、雨粒が三つ並んでいる。イルゼがその紋を見て、息を詰めた。
麦の荷主は、峠の向こうの、レーゲン伯だった。
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