第16話 通れる時間
晩秋の朝、領主館の戸口にボルクが立っていた。
峠の知らせを持って自分から下りてきたのは、初めてだった。外套の肩に霜が白く残っている。アルノが寝台から転げるように出ていくと、ボルクは右の耳をこちらへ向けたまま、短く言った。
「峠の上に、荷車が六台。二日、動かん」
「動かない? 壊れたんですか?」
「怖がってる」
峠の頂から北へ折れる古い道は、ハルデンの鉱山町へ続いている。レーゲン伯領の麦や鍛冶の品を積んだ荷車は、その道で谷の縁をかすめて北へ抜ける。道が尾根の肩を回る一里ほどは、谷の雲の傘の端に入る。
夏なら朝のうちに抜ければいい。けれど晩秋の雲は、谷の時計どおりには動かなかった。昼を待たずに湧き、夜まで居座り、晴れたと思えばまた湧く。
「積み荷は、鉱山の鶴嘴と鉄の楔だ。鉄を満載して、肩を回る度胸がない」
ベアタが奥から顔を出した。
「雷を呼ぶんじゃないよ。まだ胸が戻ってない」
「呼びません! 見るだけです」
イルゼが帳簿を抱えて起きてきた。話を聞き終えると、黙って外套を羽織り、村の古い荷車に雷木の車軸を積めるだけ積ませた。
* * *
番小屋の前の空き地に、六台の荷車が身を寄せ合っていた。馬は外され、御者たちは焚き火を囲んで空ばかり見ている。尾根の肩の上に、灰色の雲が低く渦を巻いていた。ときどき雲の腹が光り、そのたびに御者たちの肩が縮んだ。
焚き火のそばで、若い御者が火に枝をくべながらぼやいていた。去年の秋、別の商隊が肩の上で荷車を一台まるごと焼かれた。車軸の鉄が真っ赤になって、荷台ごと燃えたのだという。誰もが、その話を三度は聞かされた顔をしていた。
商隊長は、顎髭を短く刈り込んだ四十がらみの男だった。アルノの左の袖口から覗く赤い枝を、じろりと見た。
「雷の谷の保持者ってのは、あんたか。雷に打たれて生きてる若いのがいると聞いた」
「はい! 打たれても生きてます」
「自慢すんな」イルゼが後ろから言った。
アルノは焚き火の脇に座り込み、天気帳を膝に広げた。雲を見て、帳面を見て、また雲を見る。光った。
「いち、に、さん、し……」
音が来た。次の光。また数える。アルノは帳面の余白に印を並べていった。光、光、光。それから、しばらく何もない。やがてまた、光、光。
「雲が、列になって来てるんです」アルノは指で空をなぞった。「南西から、塊がいくつも。一つの塊が肩の上を過ぎると、次が来るまで、いつも同じくらい空きます。塊の尻尾が光り終わってから、次の頭が光るまで。今日は、それが長いんです」
「どのくらいだ」
「荷車が、肩を回りきれるくらいです。空の荷車なら、ですけど」
商隊長は荷車を見た。荷台には鶴嘴と楔が、ぎっしりと積んである。
「鉄の車軸は、外してください。雷木に替えます」アルノは村の荷車を振り返った。「空きのうちに抜ければ、雷は来ません。もし切れ間が短くなっても、車軸が木なら、荷車が雷を呼びません」
「積み荷は鉄だぞ」
「だから急ぐんです。空いてる間に」
商隊長は荷台から楔を一本抜き、手のひらで重さを量った。楔を戻してから、振り返らずに訊いた。
「馬の蹄鉄は」
「切れ間のうちなら、大丈夫です」
イルゼが前へ出た。帳簿を開き、ペンを舐める。
「車軸は、一台分で銀六十。六台分。案内料は、一隊で銀五十」
「五十!? 峠を越えるだけでか」
「越えられねえから、二日ここで薪を焚いてんだろ。薪代は番小屋のおっさんに払いな」
焚き火の向こうで、ボルクが無言で頷いた。商隊長は顔をしかめ、イルゼと睨み合った。案内料は銀三十で落ちた。車軸の値は、一銅も下がらなかった。
* * *
車軸を替え終えたのは昼を過ぎてからだった。六台の荷車に馬が付けられ、御者が手綱を握る。誰も口をきかない。尾根の肩の上で、雲の塊がまた一つ、腹を光らせていた。
アルノは道の端の岩に上り、空を仰いでいた。光る。数える。音。光る。数える。音。塊の尻尾が肩を越えて、谷の奥へ流れていくのを、御者たちは息を詰めて見上げていた。
最後の光が、湖のほうで小さく瞬いた。アルノは次の頭が来る南西の空を睨んだまま、指を折った。いち、に、さん。まだ光らない。し、ご。
「今です!」
六本の鞭が一斉に鳴った。荷車の列が動き出し、雷木の車軸が軋みもせずに回って、尾根の肩へ続く道を上っていく。雲の切れ目から、弱い日の光が一筋差して、荷台の鉄の楔を鈍く光らせた。アルノは岩の上で数え続けた。声が、峠の風に千切れていく。
最後の荷車が肩を回りきったとき、南西の空に、次の塊の頭が光った。音が来たのは、ずっと後だった。
イルゼは番小屋の戸口で、それを聞いていた。隣でボルクが、腕を組んで肩の上の空を見ていた。
「おっさん。ここ、案内所にするよ」イルゼは帳簿に線を一本引いた。「待つ間の薪代と寝床代は、あんたの取り分。文句は」
「勝手にしろ」
「言うと思った」
* * *
肩の向こうの下り坂で、荷車の列は止まっていた。御者たちが馬の首を叩き、互いの背中を叩いて笑っている。アルノが息を切らして追いつくと、商隊長が振り返った。顎髭の奥で、口の端が上がっていた。
「当たった。次も頼む」
「次も当たります! ……たぶん」
イルゼが帳簿で、アルノの後頭部を叩いた。
「たぶんを値札に書くな」
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