第15話 一本の値段
峠が閉じるまで、あとひと月もなかった。
エーミルに約束した腕ほどの枝は、まだ指で数えられるほどしか揃っていない。太い雷は深く刺さるが、深く刺さった雷は砂の中で散って、細い枝を何十本も残す。まっすぐ太く残るのは、ごくまれだった。
その晩、アルノは天気帳の二つの頁を並べて、夜遅くまで眺めていた。杭を試した日の頁には、雷は尖った鉄より鉄に触れた人を好む、とある。沢に鎖を垂らした日の頁には、指から入った雷が右手の鎖へ抜け、鎖を伝って沢底を這った、とある。二つの頁のあいだを、ランプの火が揺れていた。
「鎖を、砂に埋めます」
朝、アルノは卓の上に帳面を広げて言った。
「太い枝の形に鎖を埋めて、端を私が握ります。雲の下で火花を灯したら、空が答えて、雷は私を通って鎖へ抜ける。鎖に沿って砂が焼ければ、鎖の形のまま、太い枝ができます」
イルゼの手から、ペンが落ちた。
「あんた、また浴びる気か」
「今日の分だけです。腕も、だいぶ治りました」アルノは左手を開いて閉じた。指は、握れるところまで戻っていた。「一日に一本だけ」
「あんたの『一本だけ』は聞き飽きた。聞くたびに、担いで帰ったのはあたしらだ」
「今度は、自分で歩いて帰ります!」
「根拠は」
「ありません」アルノは正直に言った。「でも、枝が揃わなければ、麦が買えません。雷が作る枝を、雷に作ってもらうのがいちばん早いんです」
イルゼは長いあいだ黙っていた。それから落ちたペンを拾い、帳簿の端に何か書いた。書いた字を、アルノには見せなかった。
「今日の分の担ぎ賃、つけとくからな」
* * *
昼過ぎ、尾根の麓の白い砂に、沢から引き上げた鉄の鎖が埋めてあった。
村の男たちが朝のうちに砂を掘り、鎖を斜めに這わせて、枝分かれの形に短い鎖を幾つか継いだ。砂の上には鎖の端が一つだけ出ている。アルノはその端を右手で握り、膝をついていた。
ハンネは杭の陰で壺を抱えている。イルゼはその隣で、帳簿を胸に押しつけて立っていた。槍の少年が、二人の後ろから首を伸ばしている。
「坊ちゃん。倒れたら、誰が今日の雷を数えんだよ」
「ハンネが数える」アルノより先に、ハンネが言った。壺の口に、もう小石を一つ構えている。「領主さまの分も、ちゃんと入れとく」
「……ありがとうございます、ハンネさん」
雲の底が尾根の肩まで下りてきた。空気が甘く焦げた匂いになり、左腕の赤い枝が、皮膚の下でちりちりと騒ぎだす。
尾根の肩が光った。
「いち、に……さん。まだ遠い」
アルノは口の中で数え、鎖を握る手に力を込めた。次の光は、音と重なった。アルノは左手を空へ上げた。指先に、火花を一粒。ぱち、と鳴った。
空が、答えた。
白い線が指から入り、肘を抜け、肩で折れて、胸の中を斜めに横切り、右手の鎖へ落ちていった。鎖が砂の下で青く光った。光は鎖に沿って砂の中を走り、分かれた鎖へ跳び移る。白い砂の表面が一瞬、下から透けて燃え上がった。砂が鳴った。水が煮えるような音を立てて、鎖の形のまま、砂の中から白い湯気が枝分かれに噴き上がる。
湯気の枝が、空へ向かって、雷と逆さまに立っていた。
「今日の、いちばん……!」声は、出たかどうか分からなかった。舌の奥がきゅっと縮んで、熟れる前の杏を噛んだような味が広がる。
「……酸っぱい!」
笑おうとしたとき、心臓がつまずいた。一度、二度とつまずいて、胸の中の拍が行方をなくした。砂が顔に近づいてくる。遠くでイルゼが何か叫んでいて、ハンネの壺の小石が鳴っている。心臓はまだ、でたらめに跳ねていた。
* * *
目を開けると、半地下の天井だった。
誰かが、右の手首を指で押さえていた。皺の深い、乾いた指だった。寝台の脇の丸椅子に、白髪を後ろで固く結った老婆が座り、目を閉じて何かを数えている。
村で何度か見た顔だった。着いた日に倒れたとき、脈を取りに来たという婆さんだ。老婆は唇だけで数え終えると、目を開けた。
「拍が乱れたのが四つ。そこから元の拍に戻るまで、九十と少し。若い心臓で助かったね」
「あの……どちら様で……」
「ベアタ。この村の者。昔は、王都の施療院にいた」老婆はアルノの手首を離し、指を拭いた。「雷に打たれて、生きて帰ってきた者の脈を、ずっと取ってる。生きて帰ってきた者は、少ないからね。あんたで七人目」
戸口の柱に、イルゼがもたれていた。腕を組み、目の下が黒い。
「この婆さん、医者だったんだとさ。村の誰も言わなかった」
「言う用がなかった。雷に打たれて起き上がる者が、ここ何年も、この谷にいなかったからね」
アルノは跳ね起きようとした。胸の奥がずしりと重く、起き上がれない。それでも顔だけ、戸口へ向けた。
「硝子は!? 鎖の、硝子は!?」
イルゼが、長い息を吐いた。
「明日の朝。自分で歩けたら、見せてやる」
「歩きます! 自分で歩いて帰るって言いましたから!」
「担いで帰ったのは、あたしらだけどな」
* * *
翌朝、アルノはイルゼの肩を借りて、尾根の麓まで歩いた。
村の男たちが、夜明けから砂を掘っていた。鎖の埋めてあったところに沿って、深い溝ができている。溝の底に、何かがあった。男たちは鋤を捨て、手で砂をどけていた。
白い殻が見えた。殻は太い幹になって砂の奥へ潜り、幹から枝が分かれ、分かれた枝がさらに細かく分かれて、溝いっぱいに広がっていた。鎖は幹の芯に呑み込まれて、黒い筋になっている。男たちが総がかりで、幹を砂から持ち上げた。
尾根の肩から、朝日が差した。
光が幹の根元から入り、中の筋を伝って枝へ走った。幹が光り、枝が光り、枝の先の細い枝まで、残らず内側から光った。
溝の上に、透明な大樹が立っていた。空から落ちた雷が、砂の中にそのまま根を下ろしたような木だった。枝の先で割れた光が、溝の縁に立つ人たちの顔を青く染めていた。
誰も口をきかなかった。ハンネが壺を抱えたまま、口を開けて見上げていた。樽屋の年寄りが、背中の薪を下ろした。アルノはイルゼの肩に掴まったまま、震える声で呼んだ。
「イルゼさん……」
「言うな」イルゼは大樹から目を離さずに言った。「これは、エーミルには出さねえ。これは、いつか、これだけで売る。聖堂が丸ごと買えるくらいの値でな」
大樹の根の先が持ち上げたときに幾つも折れて、砂の上に散らばっていた。どれも腕ほどの太さで、まっすぐだった。イルゼはそれを一本ずつ拾い上げ、指を折って数え、先に掘った分を足して、帳簿の上で頷いた。
「揃った」
「やった……」
アルノは膝をついた。砂の上に、自分の影と、大樹の影が並んでいた。左腕の包帯の下で、赤い枝が肩の上まで伸びているのが分かった。昨日までは、なかったところまで。
後ろから、乾いた指が手首に触れた。ベアタだった。指を当てたまま、しばらく数えて、それから言った。
「一日一本。同じ日に三本で、あんたの心臓は止まる」
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