第33話 穀倉の村
峠を西へ下りると、空が広くなった。
谷の空は尾根と湖に挟まれて、いつも蓋のように頭の上にある。峠の西は違った。見渡すかぎり平らな畑が続き、春の麦が膝の高さまで伸びて、風が吹くたびに緑の上を波が渡っていく。雲は遠く、地平の上に小さく白く並んでいた。
「広い……!」アルノは荷車の上で立ち上がった。「イルゼさん、雲が全部、横から見えます! あっちのは明日の夕方に崩れる形で、あっちのは——」
イルゼが外套の裾を引いた。「座れ。落ちる」
「落ちません!」
「荷車からだよ」イルゼは裾を離さなかった。「あんたの谷の空は、逃げやしねえ」
レーゲン伯領の、峠にいちばん近い村だった。石塀に囲まれた家が畑の真ん中に島のように固まり、村の入口の水路はまっすぐで、石の縁がきれいに組まれていた。
村の手前に、石造りの大きな倉が建っていた。村のどの家より高く、屋根の四隅から鉄の鎖が地面まで垂れている。雷を地へ逃がすための鎖だ。
倉の戸口には、麦袋を背負った女たちが列を作っていた。伯の家紋をつけた男が秤の前で一袋ずつ目方を量り、木札に刻みを入れている。
「鎖が四本……」アルノは荷車の上で首を伸ばした。「四隅に一本ずつです。あれなら、どこに落ちても倉には入りません。よく考えてある!」
「そこじゃねえ」イルゼは秤のほうを顎で指した。「見ろ。袋を置いて、刻みを入れて、何も渡してねえ。銀も銅も」
「後で払うんでしょうか」
「秋にな。秋の値で。……今の値で量って、秋の値で払う。その間の差は、全部あの倉の持ち主のもんだ」
麦袋を下ろした女が、空の背負い籠を揺すり直して、こちらをちらりと見た。峠の東から来た荷車だと分かると、すぐに目を伏せ、足早に列の後ろへ戻っていった。
村長のアダルベルトは五十を過ぎた痩せた男で、客を家の中へは入れず、戸口の前の長椅子に座らせた。
「峠の向こうの領主さまが、何のご用で」アダルベルトは膝の上で指を組んだ。戸の奥の家の者に聞かせる声だった。
アルノは長椅子から腰を浮かせた。「村ごと、谷へ来ていただけませんか!」
アダルベルトの顔は動かなかった。隣でイルゼが額に手を当てた。
「……前置きってもんがあるだろ、坊ちゃん」
「あっ。えっと、谷には段々畑があって、今は誰も耕していなくて、でも本当はいい土なんです。たぶん。それで、耕す人が——」
イルゼが帳簿を開いて、あとを引き取った。この春、伯は村の麦の買い上げ値を下げた。小作は伯の倉にしか麦を売れない。倉に積まれた麦は、秋にミルデで高く売られる。村に残るのは種籾と、冬を越すにはぎりぎりの麦。峠の商人から聞いた話を、イルゼは指を折って並べてみせた。
「谷なら、耕した麦は耕した奴のもんだ。上納は保持者が払う。あたしが保証する」
「取立屋の保証か」
「取立屋だから保証できんだよ。払えねえ約束は、あたしがいちばん嫌いだ」
アダルベルトは長いこと水路を見ていた。
「伯は、悪い領主じゃない」
「知ってます」アルノは膝の上で手を握った。「三十年、天気帳をつけてらっしゃる方です」
「その帳面で、十年前の日照りを二月前に当てた。種蒔きをずらせと、伯が自分で馬に乗って村を回った。隣の領で人が死んだ年に、この村からは一人も死人が出なかった」アダルベルトは水路の石の縁を顎で指した。「あれも伯が組ませた。買い上げ値が下がったのは、今年が初めてだ」
「今年、何かあったんでしょうか」
「知らん。伯は訳を言わない。訳を言わなくても、たいてい正しい」
遠くの地平で、雲の底が一度だけ白く光った。アルノの口が勝手に動いた。
「いち、に、さん、し、ご、ろく……遠いです。今日は、こっちまでは来ません」
「伯の帳面にも、今日は降らんとある」アダルベルトは言った。「村の者は皆、朝に掲示を見てから畑に出る」
「伯爵さまの帳面、ここでも読まれてるんですね!」
「おいおい、感心してる場合か」イルゼが肘で突いた。「敵の帳面だぞ」
アダルベルトが立ち上がった。背後の土間の奥に、年寄りと子どもが並んでこちらを見ている。誰も、峠のほうを見ようとしなかった。
「穀倉の者は、穀倉で死ぬ。雷の谷で、雷に打たれて死ぬ気はない」
「打たれないようにします! 帳面があります、私にも」
「あんたの帳面は、谷の分がまだ一年にもならんだろう」
アルノは唇を噛んだ。言い返せなかった。屋根裏から届いた十年分の束も、書いてあるのは王都の近くの空だった。谷の空を書いた頁は、秋から数えてまだ一冊の半分にも届かない。伯の三十年は、この畑の上の空を、毎朝書き続けてきた三十年だった。
イルゼが帳簿を閉じた。「村長。伯が今年、麦を溜めてる訳。あたしは一つ知ってるよ」
アダルベルトの目が、初めてイルゼの顔で止まった。
「谷の硝子が売れ始めた。峠を越える荷が増えた。峠の西の麦を押さえてる奴は、峠の東の口も押さえられる」イルゼは顎で東の尾根を指した。「あんたらの麦は、いつかうちの谷を締めるのに使われる。それでも伯の倉に入れるか」
「入れる」アダルベルトは即座に言った。「伯が何に使うかは、伯の勘定だ。わしらの勘定は、来年も種籾が残るかどうかだけだ」
「来年、麦が焼けたら」村長は戸口に手をかけた。「その時に考える」
戸が閉まり、閂の落ちる音がした。
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