第34話 流れる土
峠の西から、若い者が十四人下りてきた。
穀倉の村の、次男や三男や、嫁ぎ先の決まらない娘たちだった。村長には黙って来た、と一人が言い、親父には殴られた、ともう一人が頬を見せた。アルノは一人ずつ手を握って、握るたびに「ようこそ!」と言い、十四回目でイルゼに止められた。
「握る前に、仕事を割り振れ」
「割り振ります! みんな畑の人なので、段々畑を起こしてもらいます」
「その段々畑で、何か育ったことあんのかよ」
「……うっ」
村の外れの段々畑は、谷に来た日から白く乾いたままだ。段の上に立つと、足の下で白い砂がさらさらと鳴る。鍬を入れても、刃の先に当たるのは乾いた砂と小石ばかりだった。段を区切った石の縁も、畝の跡もある。昔の保持者の誰かが区切って、誰かが耕して、誰かが諦めた。その先のことは、樽屋の年寄りも知らなかった。
* * *
雨の午後だった。
雷が尾根の上に居座り、半地下の家々は戸を閉ざしている。アルノは領主館の戸口の段に座り、戸を拳ひとつぶんだけ開けて外を見ていた。隣でハンネが小石の壺を抱え、光るたびに石を一つずつ移している。
「今日、多いね」
「春なので! ……あ、光った。いち、に」
「に、で来た」ハンネが石を落とした。「近い」
戸の隙間から、段々畑が見えた。雨は叩きつけるように降り、畑の段という段から水が溢れていた。水は段の縁を越えて下の段へ滝になって落ち、そこでまた溢れて、さらに下へ落ちる。湖の岸まで、白い滝が幾筋も連なっている。
アルノは瞬きをした。白い。雨の色より、ずっと濁った白。
「ハンネさん、あれ、白いです!」
「雨だもん」
「雨は白くないです。水が、土を運んでるんです」
雷の合間を数えて、アルノは段々畑の下まで走った。雨が顔を叩き、左腕の雷紋が雲の下でちりちりと疼く。
いちばん下の段の縁に、白い泥が厚く溜まっていた。手ですくうと、指のあいだからとろりと流れ落ちる。見上げると、上の段の縁の石が崩れていて、崩れた口から水がまとめて落ちていた。
雨がやむと、谷じゅうに匂いが立った。焦げた匂いと、濡れた土の匂いと、もう一つ、雷のあとにだけ立つ、鼻の奥がつんとする匂い。アルノはいちばん上の段まで登り、縁の石が崩れずに残っている場所の根元を、右手で掘った。
指の先が、黒い土に当たった。
白い砂の下に、湿った黒い土が残っていた。縁の石が持ちこたえたところだけ、土が流れずに溜まっている。そこだけ、細い草が青く伸びていた。
「……流されてたんだ!」
アルノは黒い土を掌に載せたまま、泥を跳ね上げて村へ走った。
* * *
その晩、領主館の半地下に、村の年寄りたちと、峠の西から来た十四人と、ルドミラとヤネクが集まった。アルノは卓の上に、白い泥と黒い土を並べた。
「毎日、午後に雨が来ます。その雨が段々畑の土を、ひと掴みずつ湖へ運んでたんです。何十年も、毎日」
「焼けて死んだ土だと、ずっと言われてきた」年寄りの一人が言った。
「焼けてません! 黒い土は、縁の下にちゃんと残ってます」アルノは指で卓に線を引いた。「段の縁を、石で組み直します。尾根から下りてくる沢に堰を作って、夕立の水を畑の上で止めて、脇の水路から湖へ逃がします。堰に溜まった水は、晴れが続いた日に畑へ回せます」
「沢を堰き止めたら、水が溜まる」年寄りの一人が眉を寄せた。「溜まった水に雷が落ちたら、どうなる」
「水の上を、這います」アルノの声が、そこだけ低くなった。冬の湿地で、氷の下に青い網が広がったのを、この目で見た。「濡れた地面に落ちた雷は、落ちたところで止まらないんです。水を伝って、横へ広がります。だから堰のまわりには、午後は誰も近づかない。それを、谷の決まりにします」
年寄りたちは顔を見合わせ、それから黙ってうなずいた。雷の落ちる谷の決まりなら、この村の者は守り方を知っている。
「石も水路も、手でやるんだろ」イルゼが帳簿を叩いた。「材木と、食う麦。で、いくら」
「手は、ここにいます!」
峠の西から来た若い男が、白い泥をつまんで指でこすった。穀倉の村で、生まれてから土しか触ってこなかった指だった。
「……雷の年は、豆がよく実った。うちの村の年寄りが、よくそう言ってた。雷のあとの土は、豆が喜ぶって」
「本当ですか!?」アルノは卓に身を乗り出した。「じゃあ、雷のあとに蒔きましょう! 毎日です! この谷なら毎日、雷のあとです!」
「おいおい」イルゼが額を押さえた。「豆に毎日は要らねえだろ」
ルドミラが白い泥をすくって指先で練り、ふん、と鼻を鳴らした。「この白いの、湖の粘土に混ぜたら、窯で割れにくくなるかもしれない」
「使ってください! いくらでも流れてきます!」
「流すなって話をしてたんだろうが」
笑いが起きた。樽屋の年寄りだけが笑わずに、卓の上の黒い土を指でつまみ、掌の上で崩していた。この谷で、あの段々畑が白くなっていくのを、いちばん長く見てきた男だった。
「……流れてたのか。焼けてたんじゃなく」
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