第35話 黒羽の帰還
峠の番小屋から、少年が息を切らして駆け下りてきた。
「領主さま! 峠に、黒い羽根!」
アルノが峠に着いたとき、番小屋の前の雪解けの泥に、三十人ほどが立っていた。帽子に黒い羽根。冬を越して誰もが痩せ、何人かは腕を吊り、何人かは足を引きずっている。先頭に、髪に一本だけ羽根を挿した背の高い女がいた。
ボルクが番小屋の戸口に立ち、右耳を女のほうへ向けていた。手は、戸口に立てかけた槍の柄に置かれている。
「ズデンカさん!」アルノは泥を跳ね上げて駆け寄った。「生きてた! よかった……!」
「山賊の生き死にで喜ぶな」ズデンカは顔をしかめた。「冬のあいだ、伯の傭兵に狩られた。三つあった塒を、二つ焼かれた。……あんたの谷で、今年の冬に畑を起こしてる連中にな」
アルノの顔から、笑いが抜けた。村に残った四十一人は、冬のあいだ伯に雇われて、この女たちを追っていた男たちだった。
峠道の下から、足音が上がってきた。元傭兵のうち槍を持つと決めた若い男たちが五、六人、穂先を上げて坂を上ってくる。黒い羽根を見て、先頭の男が足を止めた。ズデンカの後ろの手下たちが、一斉に腰の短刀へ手をやった。
「待ってください!」
アルノは両者のあいだの泥へ飛び込んだ。飛び込んでから、左腕を広げると痛いことを思い出し、右腕だけを広げた。
「穂先を下げてください。ここは、ボルクさんの番小屋の前です」
先頭の若い男が、アルノの肩越しにズデンカを睨んだ。「そいつら、冬に俺の隊の二人を、沢に落とした」
「あんたらは、うちの塒を二つ焼いた」ズデンカは短刀に手もかけずに言った。「仕事だった。お互いに」
「……退き口は」
ボルクの声は低かったが、全員が振り返った。
「ここでやり合うなら、どっちの退き口も峠道一本だ。坂の上と下で、同じ道を取り合うことになる」ボルクは槍の柄から手を離さなかった。「やるなら、よそでやれ」
若い男たちは顔を見合わせ、穂先を下げた。黒い羽根の手下たちも、ゆっくりと短刀から手を離した。アルノは広げた右腕を下ろし、膝が震えていることにやっと気づいた。
「降りに来たんじゃない」ズデンカは言った。「売りに来た」
「売り、ですか」
「峠の西の見張り。それと、谷の荷の護衛。うちの隊が、隊のまま請け負う。頭はあたし。手下はあたしの手下のまま。あんたの槍にはならない」
イルゼが帳簿を開きながら、アルノの前へ出た。
「で、いくら」
「一人、日に銀一。麦はそっち持ち。それと、番小屋の脇に野営地」
「一人、日に銀半分。麦は自分で買え。野営地は、番小屋から石を投げて届かねえ所」
「去年、あんたの値切りで一刻取られた」ズデンカは帳簿を見下ろした。「今日は、あたしが一刻もらう」
「一刻で値が上がると思うなよ」
「上がるさ。あたしは、伯の傭兵の野営地を三つ知ってる。伯の荷が峠のどの道を通るかも、冬じゅう見てた」
イルゼのペンが止まった。止まって、帳簿の余白に何かを書いた。
「怪我人の分は」イルゼはペンの先で、腕を吊った手下たちを指した。「働けねえ奴に日当は出さねえぞ。一枚もな」
「腕を吊った奴は、見張りに立つ。目は怪我してない」
二人の値切り合いは番小屋の庇の影が泥の上を半分横切るまで続いた。アルノはそのあいだ、右と左を交互に見ていた。途中で雲が尾根の上に育ち始め、ズデンカがちらりと空を見上げた。一夏かけて谷の午後を調べた女の目だった。
ボルクが口を開いた。
「峠の守りを、峠を襲った奴らに預けるのか」
誰も答えなかった。ズデンカの手下の何人かが、ボルクを睨み返した。
「預けるのは峠の西です。峠の守りは、ボルクさんです」アルノは言った。「ズデンカさんたちは、伯の野営地を知ってます。伯の荷の道も。それに、朝を当てた人です」
「朝を当てた奴は、次も朝に来る」
「来たら、ボルクさんに一番に知らせてもらいます。契約に書きます」
ボルクは長いあいだズデンカを見ていた。ズデンカも目を逸らさなかった。
「村にいるのは、冬にうちを狩った連中だろ」ズデンカが言った。「同じ谷の麦を食うのは構わない。同じ焚き火は御免だ。野営地は、峠の上に置く」
「……番小屋から、石を投げて届く所だ」ボルクが言った。「届かん所に置けば、何をしているか見えん」
ズデンカが初めて、口の端を上げた。
最後に決まった値は、一人、日に銀一の四分の三だった。麦は谷持ち、野営地は番小屋から石が届く所。イルゼは帳簿にそれを書き、書き終えて、長い息を吐いた。
「……山賊に値切り負けたのは初めてだ」
「負けてません! 四分の一、下がってます!」
「最初の言い値から、四分の一しか下げさせてねえってことだよ」
アルノは帳簿の値札を見て、それからズデンカを見上げた。
「どうして、うちに来てくれたんですか? 峠の西には、ほかにも雇い主がいるのに」
ズデンカは髪の羽根に指を触れ、それから谷を見下ろした。尾根の麓の涸れ沢に、秋のまま、鉄の鎖が垂れている。
「覚えておく、と言った。鎖のことだ」
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