第3話 残った四十一人
谷の朝は晴れていた。
半地下の領主館から這い出ると、空は高く青く、雲は東の山の肩に白い糸を一筋引いているだけだった。北の黒鉄尾根が朝日を受けて鈍く光り、南の鳴り湖からは薄い湯気が立ちのぼっている。昨日の午後、あの湖の上に鉛色の蓋が居座っていたのが嘘のようだ。
アルノは包帯の腕を吊ったまま村を歩いた。イルゼが帳簿を抱えて後ろをついてくる。家はどれも領主館と同じく半分地面にもぐり、屋根に芝を載せていた。家と家の間には背の高い杭が何本も立っていて、杭の足元だけ草が黒く焦げている。
「この杭は何ですか?」
「雷よけだよ。家より先に、あれに落ちる」イルゼが村人から聞いたばかりの話を、つまらなそうに繰り返した。「高くて尖った物に落ちるんだと。だから人は低く暮らす。屋根も半分埋める。この村の知恵は、それで全部だとさ」
「それ、一つで足りる知恵です! ちゃんと正しいので」
広場に集まった村人を、アルノは数えた。子どもを入れて四十一人。老人が多い。若い男は数えるほどしかいない。誰も前へ出てこず、皆が新しい保持者の吊った腕を見ていた。
「あんたで七人目だ」樽屋の年寄りが、腕を組んだまま言った。「一番長くいたのが三年。一番短いのは、着いた晩に峠へ引き返した。三年のほうは、借金を置いてった」
イルゼが鼻を鳴らした。借金の中身を、この広場で一番よく知っているのは彼女だった。
「その前の方は?」アルノが訊くと、年寄りは顎を北の尾根へ向けた。尖った稜線が、青い空に突き刺さっている。
「尾根で打たれた。鉄の鍬を担いで、上まで登ってな。止めたんだが、聞かなかった」年寄りはアルノの腕を目で指した。「あんたも、着いた日に打たれたそうじゃないか」
「はい! すごく太い一本でした!」
広場がざわついた。イルゼが後ろから低い声で言う。
「坊ちゃん、そこは反省するとこだ」
「反省はしました。二日寝てたので」アルノは真顔で言い、それから胸を張った。「でも私は、三年じゃ帰りません!」
「根拠は」イルゼが眉を上げた。
「雷を、まだぜんぜん見足りないからです」
「根拠になってねえよ」
年寄りの口の端が、わずかに動いた。笑ったのか呆れたのか、アルノには分からなかった。
広場の隅の岩に、女の子が座っていた。十になるかならないか。膝に素焼きの壺を二つ抱え、片方からもう片方へ、小石を一つずつ移している。アルノは岩の前にしゃがみ込んだ。壺の中で、小石がからりと鳴った。
「何を数えているんですか?」
「昨日の雷」女の子は顔も上げずに答えた。「ハンネの石。落ちたら一個入れるの。昨日は、これだけ」
壺の中に、小石がぎっしり詰まっていた。
「こんなに!?」
アルノは目を輝かせ、その場で自分の帳面を開いた。行商人から聞き書きした頁に、谷で雷に遭った時刻が並んでいる。昼過ぎ。昼過ぎ。午後の半ば。夕刻。朝の欄が、一つも埋まっていない。
「ハンネさん。朝に落ちたことは?」
「ないよ。昼からだよ。みんな知ってる。冬はお休みが多いけど」
「今日は何本だと思います?」
「知らない。数えてみないと分かんないよ」
「私は四十くらいだと思います。雲の育ちが、昨日より遅いので」
「じゃあハンネは五十。賭ける?」
「賭けましょう!」アルノが勢いよく頷き、後ろでイルゼが目を剥いた。
「やっぱりやめる。領主さまはお金がないって、その人が言ってた」
指をさされたイルゼが、大きく咳払いをした。アルノは帳面で顔を隠し、その陰から空を見上げた。
朝日が湖を温め、湿った南風が湖面を渡って北の尾根にぶつかる。行き場をなくした空気が尾根の斜面を這い上がり、上で冷えて雲になる。雲は昼までかけて積み上がり、正午を過ぎたところで底が抜ける。日が落ちて湖が冷めれば、雲は崩れる。この谷の空は、毎日同じ時刻に同じ嵐を作る仕掛けになっていた。
「……時計だ」
「は?」とイルゼ。
「谷ぜんぶが、時計なんです! 朝はずっと晴れて、正午にちゃんと鳴る。毎日、同じ時刻に! すごい、王都の鐘より正確かも——」
「その鐘で、何人死んだと思ってる」
樽屋の年寄りの声は低かった。アルノの声が止まった。広げた両手を、どこへ下ろせばいいのか分からなかった。広場の四十一の顔が、黙ってこちらを見ている。頬が熱くなって、耳の奥まで熱が上がった。
「……ごめんなさい」
年寄りは何も言わなかった。アルノは両手を下ろし、帳面を握り直した。
「数えます。帳面に、全部」今度は年寄りの目を見て言った。「何時に、どこで、何を持っていた人が。数えれば、次は外せます」
「時計かどうかは知らねえけど」イルゼは帳簿を閉じた。「朝は雷がないってことだろ。朝に攻められたら、ここは丸裸じゃねえか」
「……あ」
アルノは帳面から顔を上げた。言い返す言葉が、どこにもなかった。
日が真上に来た。南の空の雲が、いつの間にか尾根の上で白い塔になっている。塔の根元が灰色に濁り、ふっと暗くなった。尾根の肩に、一本目が落ちた。
それが合図だった。井戸端の女が桶を放って走り、干していた布が次々と取り込まれ、年寄りが子どもの背を押す。四十一人が、それぞれの半地下の戸口へ吸い込まれていく。ハンネだけが岩の上に残り、小石を一つ、空の壺へ落とした。
「一本目」
アルノはその隣で雲を見上げ、それから村の外れへ目を移した。尾根の麓から湖の岸まで、段々に区切られた畑が続いている。土は乾いて白く、畝には草一本生えていない。今朝、村人たちはあそこにいなかった。湖で網を繕い、家の前で縄を綯っていた。
「朝は晴れる」アルノは誰に聞かせるともなく言った。
「……なのに、どうして誰も朝に畑に出ないんです」
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