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第98話 旅立ちの朝

 アルティアがエスナルを去ったのは、翌日の夕暮れ時だった。


 特に大げさな別れではなかった。朝からヴェルン老人の家で延々と話し込み、昼は市場を歩いてあちこちを見て回り、夕方になって「そろそろ行く」と言った。


「どこへ行くんですか」ライトが聞いた。


《まだ決めていない》アルティアが答えた。《千年前、行きたかった場所がいくつかあった。今もあるかどうかわからないが——行ってみようと思う》


「一人で大丈夫ですか」


《私は千年生きた。一人で旅するくらいは問題ない》


 それはそうだ、とライトは思った。


 《蒐集者》の三人が頭を下げた。「どうかお気をつけて」


《お前たちこそ》アルティアが三人を見た。《三十年、よく動いてくれた。師匠とやらに伝えておくれ——よくやったと》


「師匠はもう……」


《知っている》アルティアが静かに言った。《だから、伝えてくれ。向こうで聞こえるように》


 《蒐集者》の一人が目を伏せ、頷いた。


 アルティアはライトたちを順に見た。フォルク、ナディア、レイン、セイラ、そしてライト。


《いい仲間を持ったな、ライト》


「そうですね」ライトは素直に答えた。「運がよかったと思います」

《運ではない》アルティアが言った。《お前が——そういう人間だから、そういう仲間が集まる。それだけだ》


 ライトは少し照れながら、でも否定しなかった。


 アルティアが歩き出した。城門の方向へ、ゆっくりと。夕暮れの橙色の光が、白い髪を染めていた。


 途中で一度だけ振り返った。


《ライト》


「はい」


《お前の力——大事に使えよ。力は、使い方で全てが変わる》


「わかっています」


《わかっている人間に言う必要はないな》アルティアが小さく笑った。《ただ——言いたかっただけだ》


 それから振り返ることなく、アルティアは歩いていった。人込みの中に紛れて、やがて見えなくなった。


 誰も引き止めなかった。引き止めるべきではないと、全員がわかっていたから。


 セイラが隣でそっと呟いた。「会えてよかったね」


「ああ」ライトも頷いた。


 夕暮れのエスナルに、静かな風が吹いた。


 翌朝、ライトたちも出発することにした。


 エスナルには、まだやり残したことはなかった。《滅びの原》の封印は解けた。アルティアは自由になった。《蒐集者》も、長年の使命を果たし終えた。


「次はどこへ行く?」セイラが朝食を食べながら聞いた。

「エルダリアに戻ろう」ライトは答えた。「ここまで長く離れていたから、一度拠点に戻って整理したい。それに——ギルドへの報告もある」


「砂漠の遺跡の封印解除と、《滅びの原》の件か」とフォルクが言った。「どこまで話すかは考えないといけないが」


「全部は話せない」ライトは頷いた。「アルティアのことは特に。下手に広まると、厄介なことになりかねない」


「同意だ」とナディアが言った。「遺跡の調査と封印の自然消滅、という形で報告するのが無難ね」


「《蒐集者》のことも伏せた方がいい。彼らは長年動いてきた。余計な注目を集めるべきじゃない」


 レインが静かに頷いた。


 朝食を終え、荷物をまとめ、宿の主人タマラ婆さんに別れを告げた。老婆は「また来い」と笑顔で言ってくれた。


 城門を出ると、砂漠の朝の空気が肌を包んだ。まだ涼しい。砂が朝日を受けてきらきらと輝いている。


「長かったな」とフォルクが言った。


「エスナルに来てから?」とセイラが聞く。


「エルダリアを出てから、だ」フォルクが遠くを見た。「色々あった」


「色々ありすぎた」ナディアが苦笑した。


 ライトも思い返した。砂漠への道、フォルク街での出発、砂嵐、ダラント遺跡、エスナル、ヴェルン老人、生還者の老人、《蒐集者》、《滅びの原》、そしてアルティア。

 短い期間に、随分多くのことがあった。


「疲れたか?」セイラがライトの顔を覗き込んだ。


「疲れてはいる」ライトは正直に答えた。「でも——悪い疲れじゃない」


「わかる気がする」


 五人は砂漠を歩き始めた。帰り道は来た道を戻る。同じ道でも、行きとは少し違って見えた。何かが終わって、また新しい何かが始まる前の——静かな時間。


「ライト」レインが珍しく先に話しかけてきた。


「なに?」


「《無限の器》のこと。ヴェルン老人から聞いた話——お前はどう思っている」


 ライトは少し考えた。


「正直、まだよくわからない。でも——ただ力があるということじゃなくて、使い方に意味があるんだと思った。アルティアも、《蒐集者》も、ダラントの存在も——力で解決したんじゃなかった」


「対話だったな」


「そう。俺の力が何のためにあるのかは、まだわからない。でも——こういうことのためにあるなら、悪くないと思う」


 レインが短く頷いた。それだけで十分だった。


 砂漠の道が続く。遠くに、帰るべき方向がある。エルダリア——仲間たちが待つ街へ。


「早く帰りたいな」セイラが言った。「柔らかい寝台と、美味しいご飯」


「それだけか」とフォルクが言った。


「あとは——お風呂」


 全員が笑った。砂漠の旅の後の、切実な願いだった。

 帰り道は、行きよりも少し速く進んだ。


 慣れた道というのもあるし、砂漠の地形も頭に入っている。それ以上に——帰る場所が待っているという感覚が、足取りを自然と軽くしてくれる気がした。


 二日目の夕方、フォルクの街に着いた。見覚えのある宿で一泊し、フォルクと短い話をした。


「エスナルまで案内してくれて、ありがとうございました」とライトは言った。


「礼はいらん」フォルクが手を振った。「俺も——久しぶりに面白い旅だった」


「また依頼するかもしれません」


「来い」フォルクは笑った。「断るかもしれんが」


 翌朝、フォルクとは別れた。彼にはこの街での仕事がある。ライトたちだけでエルダリアへ戻る。


「フォルク、また」とセイラが手を振った。


「ああ」フォルクが短く頷いた。「達者でな」


 フォルクの大きな背中が遠ざかっていった。


 四人になったパーティは、エルダリアへの道を進んだ。砂漠を抜け、緑が戻り始め、見慣れた景色が少しずつ増えていく。


「なんか……ほっとするね」セイラが言った。「緑って、いいな」


「砂ばかり見ていたからな」ナディアが言った。


「ライトは?」セイラが聞いた。「何か感じる?」


 ライトは周囲の景色を見渡した。緑の草原、青い空、遠くに見える山の輪郭。


「帰ってきた、という感じがする」


 それが、今の正直な気持ちだった。

 エルダリアの城壁が見えたのは、翌日の昼前だった。


 旅立ったときと同じ、石造りの門。同じ衛兵。同じ街の匂い。でも——ライトには少し違って見えた。


 旅の前と、旅の後では、見える景色が違う。自分が変わったからか、それとも見方が変わったからか。おそらく、両方だ。


「戻ってきた」セイラが小さく言った。


「ああ」ライトは頷いた。


 四人は城門をくぐった。エルダリアの喧噪が戻ってくる。知っている声、知っている匂い。旅の間、ずっとどこかにあった緊張が、ゆっくりと解けていく気がした。


 ギルドへの報告はあとでいい。今日は——まず休む。


 ライトは空を見上げた。エルダリアの空は青く、雲が穏やかに流れていた。アルティアが千年ぶりに見た青さと、同じ青さだ。


 (次は、何が待っている)


 まだわからない。でも——どんな次が来ても、一人じゃない。それだけは確かだった。


 ライトは前を向いて、歩き続けた。エルダリアの石畳が、懐かしく足の裏に当たった。

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