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第97話 千年ぶりの空

 空が、青くなっていった。


 灰色に閉ざされていた《滅びの原》の空が、封印が解けたことで少しずつ本来の色を取り戻している。光も変わった。薄暗かった原野が、砂漠本来の明るさで満たされ始めている。


 白髪の女性は、ゆっくりと空を見上げた。


《……青い》


 声は、もう意識の中ではなく、空気を振動させる本当の声になっていた。ひどく古い言葉遣いで、でも確かに聞き取れた。


「千年ぶりですか」とライトは言った。


《千年と少し……だな》女性は目を細めた。《ずいぶん、変わった》


「何が変わりましたか」


《空の色が……少し違う。雲の形も。でも——青いことは、変わっていない》


 その言葉に、ライトは何も言えなかった。


 千年の時が流れて、空の青さだけは変わらなかった。そのことを、女性はどんな気持ちで言っているのだろう。


 後ろから、フォルクたちが近づいてきた。《蒐集者》の三人も、恐る恐るという様子で近寄る。女性はそちらを見た。


《お前たちが——私を解放しようとしていた者たちか》


「そうです」《蒐集者》の一人が頭を垂れた。「長い間、お待たせしました」


《待ってくれていたのか》女性が静かに言った。《何年、待った?》

「三十年ほどです」《蒐集者》が答えた。「我々の師匠がこの場所を発見してから。師匠は志半ばで倒れ、我々が引き継ぎました」


《三十年……》女性は静かに繰り返した。《そのような者たちが、いたのか》


「あなたが世界を救ったことを、記録に残していた者がいました。その記録を信じた人間が、ずっと動き続けてきたんです」


 女性は長い間、黙っていた。


 やがてその目から、一粒の涙が落ちた。


《……知らなかった。誰も気にしていないと、思っていた》


 千年間、一人でいた。誰にも知られず、ただ存在し続けた。なのに——三十年前から、解放しようとしてくれていた人間がいた。


「名前を聞いてもいいですか」ライトが言った。


 女性が少し驚いたように、ライトを見た。


《名前……》女性は少し考えた。《アルティア。千年前は、そう名乗っていた》


「アルティアさん」ライトは頷いた。「外に出てきてくれてよかった」


 アルティアが、もう一度空を見上げた。今度は涙を拭いながら。


《見たいものが……ある。お前が言ったように——見てから、決めたいと思った》


「何を見たいですか」


《街を見たい。人が生きている場所を。千年前に守った人たちの、子孫たちが暮らしている場所を》

「案内します」ライトは言った。「エスナルという街があります。大きくて、賑やかで——いい街ですよ」


 アルティアが、かすかに笑った。


《賑やかか……久しぶりに聞く言葉だな》


 一行は《滅びの原》を歩き始めた。《蒐集者》の三人も一緒だ。奇妙な集団だが、今はそれが自然に思えた。


 歩きながら、セイラがそっとライトの隣に来た。


「ライト、すごかった」


「何が」


「あの人との話し方。怖くなかったの? 千年生きた存在なんだよ?」


「怖いというより……話せてよかった、という気持ちの方が大きかった」


 セイラが少し黙った。それからまた言った。


「ライトって、誰とでも話せるよね。人でも、人じゃなくても」


「そうかな」


「そうだよ」セイラが少し笑った。「それがライトのすごいところだと思う。スキルとかじゃなくて」


 ライトは少し照れた。「過大評価だ」


「過大評価じゃないよ」


 前を歩くアルティアが、ふと立ち止まった。砂漠の地平線の向こうに、小さくエスナルの城壁が見えていた。


《あれが……街か》


「そうです」


《遠いな》


「もうすぐ着きます」


 アルティアが頷いて、また歩き始めた。その足取りは、千年の重さを感じさせながらも——どこか軽くなった気がした。

 エスナルに戻ったのは、夕方近くだった。


 城門を通るとき、門番が明らかに面食らった様子でアルティアを見た。千年前の衣装を纏った白髪の女性が、当然のような顔で街に入ってくれば、そうもなるだろう。フォルクが「連れだ」と一言言って通してもらった。


 街の中に入ると、アルティアが立ち止まった。


 夕暮れのエスナル。露店に灯りがともり始め、商人が声を上げ、子どもたちが走り回っている。様々な種族が行き交い、笑い声と怒鳴り声と音楽が混じり合っている。


 アルティアはその光景を、じっと見ていた。


「どうですか」とライトが聞いた。


《……うるさいな》アルティアがぽつりと言った。


「すみません」


《いや》アルティアは首を振った。《うるさい、というのは——悪い意味じゃない。生きている音だ。千年前も、こんな音がしていた》


 その目が、細くなった。遠い記憶を見るように。


《守ってよかった》アルティアが静かに言った。《千年前、あの時——守ってよかった。今、そう思える》


 ライトは何も言わなかった。言う必要がなかった。


 夕暮れの光の中で、アルティアはただ街の喧噪を聞いていた。千年ぶりに——人の声を、聞いていた。

 その夜、宿でアルティアと共に食事をした。


 食べ物を見たアルティアが「千年前とは随分違う」と言い、それがどう違うのかをぽつぽつと話し始め、それがいつの間にか千年前の話になり——ライトたちは黙って耳を傾けた。


 千年前の世界。今とは違う国の形。違う魔法の使い方。違う神話と信仰。


 歴史書にも残っていないような話が、アルティアの口からさらりと出てくる。


「すごい話だ……」セイラが目を丸くした。「先生に話したら卒倒するんじゃないか」


《先生?》


「この街の研究者です。古い記録をたくさん持っている人で——」


《会ってみたい》アルティアが即座に言った。


 ヴェルン老人は翌朝、アルティアと対面して本当に言葉を失っていた。それからしばらく後、老人は「わしの研究は間違っていた箇所が十七か所あった」と呻き、アルティアは「そうか、直しておこう」と涼しい顔で答えた。


 ライトはその光景を見ながら、少し笑った。


 アルティアがここにいる間は、ヴェルン老人には眠れない夜が続くだろう。でもそれは——充実した眠れなさだ。


 夜が更けていった。エスナルの街は賑やかなまま、それでも少しずつ静かになっていった。


 翌日、アルティアが静かにライトを呼んだ。

《ライト》


「はい」


《お前に礼を言いたかった。昨日は言えなかったから》


「礼なんていいですよ」


《いや——言わせてくれ》アルティアが真っ直ぐにライトを見た。《千年間、誰も来なかった。私は待つことすら諦めていた。それでも、お前は来てくれた。話を聞いてくれた》


「当然のことをしただけです」


《当然ではない》アルティアは静かに、しかしはっきりと言った。《世の中の多くのことは、当然ではない。誰かが選んで、動かなければ、何も変わらない。お前は選んで、動いた。それを——当然と呼ぶお前の在り方が、私は好きだ》


 ライトは少し黙った。


 千年を生きた存在に、そう言われた。なんと答えればいいか、少し迷った。


「……ありがとうございます」


《礼を言うのは私の方だ》アルティアがかすかに笑った。《お前は、いい人間になるよ。これからも》


 その言葉は、千年分の重さを持っていた。


 ライトは黙って頷いた。窓の外に、エスナルの朝が広がっていた。アルティアが守った世界の、今日の朝が。

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