第009話 灰森の手前
翌朝、店の表へ出ると、ゆうさんはすでに近所の女性へ鉢植えの水やりを頼んでいるところだった。
昨日、虫除けの粉を買いに来ていた人とは別の顔だが、話の様子を見る限り、留守を頼むこと自体は珍しくないらしい。
「表と窓辺の鉢だけ、土が乾いていたら水をお願いします。奥の棚は、そのままで大丈夫です。明日も留守にしていたら、同じようにお願いできますか」
「分かったよ。あんたは花より自分の心配をしなさいな。灰森の方へ行くんだろう?」
「森へ入るかは、着いてから決めます。危なければ引き返しますよ」
そう答えるゆうさんの後ろで、俺とアルは何となく顔を見合わせた。
捜索の準備はきっちり整えてある。あの人の言う「危なければ」が、どの辺りからなのかは気になった。
「……何か言いたそうですね」
視線に気付いたゆうさんが聞いてきたので、俺は荷物の肩紐を締めながら答えた。
「いや、昔の仲間って、自分の無茶には甘い奴が多かったなと思って」
「マスターがそれを言いますか」
アルから即座に返ってきた。
「だから経験者として言ってんだよ」
「その経験を、止まる方にも使ってください」
朝から扱いがひどい。
近所の女性は事情を知らないはずなのに、やり取りだけで大体察したのか、「そこのお兄さんも見張っておいておくれ」とアルへ頼んで帰っていった。
俺の信用はミュリエへ来て一晩で町内会まで下落したらしい。
店を閉めたあと、そのまま灰森へ向かうのかと思ったが、最初に立ち寄ったのはミュリエの冒険者協会だった。
朝の建物には採取籠を背負った人間や、武器を携えた冒険者が何人も出入りしており、掲示板の一角には灰森周辺の採取依頼を停止する通知と、未帰還者の捜索協力を求める紙が並んでいる。
受付へ行くと、ゆうさんは昨夜聞いた三人の捜索へ参加する旨を伝え、アルも自分の札を出した。
俺も二人に倣って黒曜札を置いたところ、受付の女性は一度その色を見てから、俺の顔を見て、もう一度札へ視線を落とした。
「こちら、現在も有効な札でしょうか」
「そこを今確認してる最中」
「本人が答える内容としては、少々困るのですが」
「俺も困ってる」
受付の女性は眉間へわずかに皺を寄せ、それからアルへ視線を移した。
「リュネール支部で本人確認の手続き中です。こちらが閲覧記録の写しになります」
アルが旅の手控えと一緒に持っていた書類を差し出すと、受付は内容へ目を通し、別の台帳も確かめた。
リュネールでの手続きが終わるまでは、昔の資格のまま仕事を受けることはできないらしい。
結局、今回は登録済みのアルとゆうさんの同行者として捜索へ加わり、何か見つけた場合は単独で処理せず、他の捜索班か協会へ報告するという扱いになった。
「要するに、勝手にどっか行くなってことだな」
「ええ。お願いしますね」
受付の女性はそう答えてから俺の背中にある戦鎚を見て、念を押すように続けた。
「慣れた採取人でも迷っているそうです。以前の灰森と同じだとは思わずに入ってください」
「そこは同意する。俺が知ってる灰森なんて、だいぶ昔の話だしな」
冗談ではなく答えると、受付の表情が少しだけ緩んだ。
黒曜札を持っていても、俺がこの森を見たのはゲームの中だ。昨日見せてもらった枝以外、今ここで何が起きているのかは知らない。
捜索は俺たち以外にも二班が出る予定で、それぞれ森へ入ってから別の道を調べるらしい。
最後に確認された三人の行動範囲や服装を聞き、見つけた場合の合流場所を地図へ書き込んで、俺たちは協会を出た。
町を北西へ抜ける頃には、朝の涼しさが少しずつ消え始めていた。
ミュリエの周囲には花畑と薬草畑が広がり、その間を荷車が通れる程度の道が緩やかに続いている。
四日前までいたリュネール周辺と比べれば起伏は小さいが、歩くとなれば話は別で、背中の鞄と戦鎚の重さは一時間もすればきっちり存在を主張してきた。
身体そのものはまだ余裕がある。
昨日ゆうさんに診てもらった通り、脚も腰も問題なく動き、戦鎚の重心も今の握り位置に合わせれば歩行を邪魔しない。
むしろ一番気になるのは、俺たちの少し前を歩いている白い塊だった。
わたあめは町の外へ出ても特に興奮する様子はなく、太い脚で一定の速度を保ちながら道の中央を進んでいる。
向こうから荷車が来れば一応端へ寄るのだが、荷車側の方が先に大きく避けるため、結果だけ見ると道を譲らせているようにしか見えない。
「こいつ、町じゃ普通に受け入れられてんだよな?」
「皆さん、慣れていますから。これでも人の多いところでは、気を付けて歩いているんですよ」
ゆうさんはそう言ったが、ちょうどその時すれ違った農夫が、わたあめと俺の戦鎚を交互に見てから畑側へ二歩余計に避けた。
「俺まで同じ分類に入れられてない?」
「その戦鎚を背負っていたら、私でも少し避けます」
「アル、今のフォローになってる?」
「フォローしたつもりはありません」
それなら仕方ない。
畑が途切れ始めたのは昼前だった。
道の脇には背の低い草地が増え、その先へ小さな林や放牧地が点々と続いている。
ゆうさんは歩きながら何度か道端へ寄り、葉の形や土の状態を確かめていたが、何でもかんでも採取するわけではなく、指で触れてそのまま置いていくものの方が多かった。
「この辺の植物も、もう灰森の影響を受けてる?」
俺が聞くと、ゆうさんは手にしていた細長い葉を元の位置へ戻してから立ち上がった。
「ここで見たものは、いつも通りです。何度も通っていますが、変わったところは見当たりませんね」
「じゃあ昨日の枝は、もっと向こうか」
「ええ、もっと森に近いところです。あちらも、前はこんな普通の草木ばかりだったんですが」
周囲を見渡しても、俺にはその「いつも通り」が分からない。
昔のアステリオンなら、採取できる植物には視認しやすい形や色が与えられていたし、攻略情報さえ見ればどこに何が生えるかも大体分かった。
今は同じような緑の中から、ゆうさんだけが葉脈の違いや茎の硬さを拾っている。
「ゲームの頃のゆうさんも素材には詳しかったけど、こんな感じじゃなかったな」
口に出してから、ゆうさんにはその言葉の意味をまだ説明していないことを思い出した。
案の定、丸眼鏡の向こうで首が少し傾く。
「『げーむ』。アルさんからも、少しだけ聞きました」
「アルにも単語しか説明してないんだよな」
「私も、その先を待っています」
アルが平然と言う。
「今話すと長くなる。俺が昔知ってた世界だと、ゆうさんとはこうやって顔合わせて歩いたことがなかった、くらいに思っといて」
ゆうさんはすぐに分かった顔をせず、一度考えてから頷いた。
「顔を合わせずに……。それは、また聞かせてください。今の僕は、その頃より植物に詳しく見えるんですね」
「そういうこと。少なくとも、俺が覚えてる頃よりはな」
「十年、あちこちで採ってきましたからね」
何でもないことのように言って、ゆうさんはまた歩き始めた。
ゆうさんは道端の葉へ一度目をやり、そのまま通り過ぎた。今の俺には、採るものと置いていくものの違いも分からない。
昼は道沿いの小さな水場で休んだ。
石を積んで流れを整えた細い水路があり、その脇に旅人用の木製の腰掛けまで置かれている。
俺とアルは朝に買っておいたパンと干し肉を出し、ゆうさんは自分の鞄から野菜と何かの葉を挟んだ包みを取り出した。
わたあめは少し離れた草地で、朝から持たされていた餌より道端の草を優先している。
「それ食って大丈夫な草だけ選んでんの?」
「一応、選んでいるみたいですよ。毒草を食べることは、ほとんどありません」
「ほとんど」
「一度、お腹を壊したことはあります」
「ちゃんと懲りるんだな」
「ええ。それ以来、その草には近寄りませんから」
ゆうさんの説明だけ聞けば賢いのだが、わたあめはその直後、草を食べるのに邪魔だったらしい低い木の枝を額で押し折った。
食事を終え、アルが地図を広げたところで、ゆうさんが灰森までの残りを指で示した。
今いる水場からさらに北西へ進み、午後には人家がほとんどなくなり、その先で道が細くなる。
灰森そのものは昔から採取地として使われているため、入口までなら迷うような道ではないという。
「森へ入ってからも、普通なら道は分かるの?」
「よく使う採取路なら。僕も歩いていますし、目印もあります。奥の境界痕に近づかなければ、普段は迷うような森じゃないんです」
初めて来た奴が道を外した話とは違う。毎日のように使う道で迷っているのだ。
「今いなくなってる三人も、森には慣れてるんだよな」
「僕より詳しいですよ。採取では、もっと奥まで入っていますから」
ゆうさんの声から少しだけ柔らかさが消えた。
「日帰りだと伝えて出たら、ちゃんと帰ってくる人たちなんです。三人一緒に、何の知らせもなく戻らないなんて……」
ゆうさんは、広げた地図を見たまま黙った。
「なら、なおさら急いだ方がいいな」
折り目に沿って地図を畳んでアルへ返すと、ゆうさんも何も言わず、ずれていた荷紐を肩へ掛け直した。
午後に入ると、景色から少しずつ人の手が減っていった。
整えられていた畑の畝がなくなり、道の左右には自然に伸びた草と低木が増える。
途中までは荷車の轍がはっきり残っていたが、進むにつれてそれも浅くなり、陽が傾き始める頃には人が二人並んで歩ける程度の道幅になっていた。
前を歩いていたゆうさんが、不意に道脇へ目を留めた。しゃがみ込んだ先には背の低い植物が生えていて、葉には触れず、その先端を覗き込んでいる。
「何かあった?」
近寄ってみると、小さな赤い実が二つ付いていた。昨日見せてもらった枝ほど露骨な違和感はなく、俺にはそこらに生えている木の実との違いも分からない。
「実がなるには、まだ早いですね。昨日お見せした枝ほどではありませんけど」
「これも異常?」
「これだけでは何とも。日当たりがよければ早くなることもありますし、株によって差もありますから」
ゆうさんは植物には手を付けず、場所だけを手控えへ書き留めた。
それからも二度ほど足を止めたが、どちらもその場で異常と言い切れるほどではなかったらしい。俺の目には相変わらず普通の草木にしか見えず、ゆうさんが確認を終えるたびに、また三人で先へ進んだ。
夕方が近づく頃、低い丘の向こうに、それまでとは色の違う木々が見えてきた。
幹は灰白色で、太い枝まで薄く灰を被ったような色をしている。葉だけは普通の緑を残しているせいか、まとまって生える森全体が周囲から少し色を抜かれたように見えた。
「灰森って、名前そのままなんだな」
「この樹皮の色から付いたそうですよ。実際に灰を被っているわけではありませんけど」
俺の記憶に残っている灰森も、見た目だけなら大体こんな色をしていた。
ただ、画面の中では薬草や錬金素材を拾うために何度も通った採取地域の一つだ。森を前にして感じる湿った土の匂いも、木々の間から流れてくる冷えた空気も、当然ながら記憶のどこにもない。
入口には冒険者協会の標柱が立ち、その脇の簡素な休憩所には普段より多いらしい荷物と水桶が寄せられていた。腕章を付けた男が一人残っており、俺たちが名乗ると、広げた地図へ今日の捜索範囲を書き込みながら状況を教えてくれた。
先に森へ入っていた二班は、どちらも日没前に一度戻っている。行方不明の三人はまだ見つかっていないものの、捜索側に怪我人はなく、明朝からさらに範囲を広げる予定らしい。
「道に迷った方はいませんでしたか」
ゆうさんが尋ねると、地図の上を走っていた鉛筆が止まった。
「一班だけ妙なことを言ってた。北の採取路を調べてたはずなのに、途中で東側の目印へ出たってな。ただ、夕方で方角を間違えた可能性もあるし、本人たちも断言はしてない」
「同じ場所に戻ったわけではないんですね」
「今日はな。目印も全部確認したが、動かされた様子はなかった」
ゆうさんは地図でその位置を確かめると、短く手控えへ書き留めた。
日が落ちてから未知の異常を抱えた森へ入る必要もない。今夜はそのまま休憩所を借りることにして、荷物と戦鎚を壁際へ下ろすと、それまで歩き続けていた脚が急に重くなった。
アルは早速、地図と今日の報告を突き合わせている。ゆうさんも入口付近の植物を見に行ったので、俺は水を飲みながら休憩所の外へ目をやった。
わたあめだけが森とは反対を向き、俺たちが来た南東の方角をじっと見ている。
「もしかして、もう帰る方向確認してんの?」
「そうかもしれません。初めての場所では、よく家の方を向いていますから」
植物の確認を終えたゆうさんが戻ってくる。
「便利だな。俺よりよっぽど帰宅意識高いじゃん」
「マスターは帰る場所より、行く場所を先に決めますからね」
そこは反論しづらい。
もう一口水を飲んでから、わたあめとは反対側へ目を向けた。
灰白色の木々は、傾いていた陽が落ちるにつれて奥から輪郭を失い、やがて入口から見える範囲まで薄暗さに沈んでいった。




