第008話 測れるものから
話が一段落したところで、ゆうさんは空になった茶器をまとめながら、俺の方を何度か気にするように見ていた。
手首や肩へ目が行っている。何か気になるらしい。
「まだ何かある?」
こちらから聞くと、ゆうさんは茶器を盆へ載せたまま少し考え、それから俺の顔を正面から見た。
「ええ。顔を見た途端にお願いするのもどうかと思って、黙っていたんですが」
「その前置きで嫌な予感しかしないんだが」
「少し、身体を診せてもらえませんか」
予想していた方向とは違ったが、言われてみれば不自然な話でもなかった。
俺自身、この身体について分かっていることは驚くほど少ない。
見た目は若く、戦鎚を振り回しても息が切れず、昔の俺が知らない道具や旅の手順まで勝手に扱うくせに、そこへ入っている記憶だけが四十歳の俺という、説明書の一枚も付いていない中古品みたいな状態だ。
「別にいいけど、ゆうさん医者だったっけ?」
「医者ではありませんよ。冒険中の手当てならしていましたし、素材を扱う時にも体調は気にしています。明日、森まで歩けそうかくらいは確かめられます」
「最後にさらっと予定へ森を入れたな」
「行かないつもりでしたか?」
俺が答えなかったので、それを返事だと受け取ったらしい。
向かいで聞いていたアルも頷いた。
「私も、一度きちんと診ていただいた方がよいと思います」
「二対一じゃしょうがねえな。好きにしてくれ」
ゆうさんは机の上の植物や器具を少し端へ寄せ、空いたところに布包みを広げた。
金属製の細い筒、先端の丸い棒、目盛りの付いた小瓶。それに用途の分からない板状の道具が二つほど並び、花屋の奥で出てくる物としては少々物々しい。
「では、袖を捲って、腕をこちらへ」
言われた通りに腕を出すと、ゆうさんの指が手首の内側へ触れた。
俺より少し冷たい指先がしばらく脈を拾い、それから手の甲、肘の内側へ順番に移っていく。
「脈は落ち着いていますし、熱もありません。四日も馬車に揺られた割には、疲れていませんね」
「尻は痛かったぞ」
「それは、しばらく馬車に乗らずに済めばよくなると思いますよ」
「俺としては四日間で一番深刻だったんだけどな」
ゆうさんは聞かなかったことにして、今度は椅子へ座った俺の瞳を窓から残る夕方の光へ向け、左右を順番に確かめた。
膝や肩を曲げ伸ばしさせられ、古い傷がある場所は指で軽く押される。
何を調べているのか逐一説明されなくても、左右差や痛みの有無、身体を動かした時の引っ掛かりを見ていることくらいは分かった。
俺が意識していなかった細かな傷もいくつかあり、右の脇腹には指二本分ほどの白い跡が残っている。
「これ、何の傷?」
自分では覚えていないので聞くと、ゆうさんは指を離してから眼鏡を押し上げた。
「見覚えはありませんね。皆で一緒にいた頃には、なかったと思います」
「じゃあ、その後か」
「かもしれません。ただ、傷から分かるのは、ずいぶん前にきれいに塞がったことくらいです」
何にやられた傷なのか、指でなぞっても思い当たるものはない。
くーちゃんと旅を続けていた三年間に付いたのだろうか。痛みも残っていない傷を、しばらく見ていた。
「身体の年齢はどう見えますか」
アルが窓辺から尋ねた。
ゆうさんは俺の顔と腕、それから手元へ書き留めた簡単な記録を見比べてから答える。
「二十代半ばくらいでしょうか。関節や皮膚を診ても、そのくらいに見えます。昔より筋肉は付いていますし、傷も増えていますが、十年経った身体とは思えませんね」
そこは、鏡を見た時点から大体予想していた。
それでも、診た上でそう言われると落ち着かない。四十の俺がいるのに、身体は二十代半ばだという。
「結局、今のところ身体そのものに変なところはない?」
「今診た限りでは、健康ですよ。サクさんに化けた何かを診ている感じも、しませんでした」
「ずいぶん物騒な候補も考えてたんだな」
「考えはしましたよ。長く会っていなかった人が、ほとんど歳も取らずに戻ってきたんですから」
言われてみれば、調べる側も困る話ではある。
「ただ、どうして戻ってこられたのか、どうして記憶がないのかは、僕には分かりません」
ゆうさんは記録へ何かを書き足したあと、そこで一度手を止めた。
「でも、ちゃんと脈があって、温かいんですね。怪我をすれば、血も出るんでしょうし」
「最後のは確かめなくていいぞ」
「ええ。そこまでするつもりはありませんよ」
ゆうさんは記録へ戻らず、俺の手首を見ていた。袖を戻そうとした手を、俺は少し止めた。
「ちゃんと生きてるって分かったなら、今はそれでいいんじゃないの」
俺が言うと、ゆうさんは少しだけ目を細めた。
「……ええ。今日は、これで十分です」
頷くのを見てから、俺は捲っていた袖を戻した。
診察道具を片付け始めたところで、俺は机の端に置かれていた剪定鋏へ目を留めた。
店先でゆうさんが持っていた物で、片方の刃先がほんの少し欠けている。
「それ、切りづらくない?」
「やっぱり、分かりますか」
「見ればな。刃だけじゃなくて、柄の内側も少し当たってるだろ」
手を伸ばして受け取ると、指が自然に鋏の支点を確かめ、開閉した時の遊びと刃の噛み方を拾っていく。
小さな道具だが、見る場所は戦鎚とそれほど変わらない。
何を切る物なのか、どの程度の力を掛けるのか、誰がどんな持ち方をするのかが分かれば、直すべき場所も見えてくる。
「普段は細い茎と紐くらい?」
「ええ。硬い枝には別の鋏を使っています。ただ、忙しい時期には、これを一日中握っていることもありますね」
「なら刃先だけ整えりゃいい。ついでにここを少し落とせば、中指に当たらなくなると思う」
俺が柄の内側を指で示すと、ゆうさんは自分の右手を見た。
中指の横に、薄く硬くなった皮膚がある。
「指に当たるところまで分かるんですね」
「さっき身体調べられた仕返しに、今度は道具から持ち主を調べてる」
「道具を持つと、すぐそれですね。昔から」
ゆうさんは自分の中指を撫でながら笑っていた。
工具袋から砥石と細い金具を取り出すと、指が迷わず作業を始めた。
刃を必要以上に削らず、欠けた部分だけをならし、支点の緩みを調整してから柄の内側へ少し手を入れる。
手元を見ているうちに、どこをどう直しているのか、今回は俺にも追えるようになってきた。
試しに紙紐を一本切ると、刃は引っ掛からず最後まで閉じた。
「こんなもんだろ。明日ちゃんと使って、変だったらまた見る」
「ありがとうございます。修理代、おいくらですか」
「十年ぶりに会った奴から鋏の修理代取るほど困ってねえよ」
「では、さっきのお茶代ということで」
「その茶そんな高かったの?」
向こうで聞いていたアルが小さく笑った。
三人が同じ部屋にいて、俺が道具を弄り、ゆうさんが片付けをし、アルが窓辺で旅の手控えを整理している。
やっていることも場所も昔とは違うはずなのに、それぞれ好きなことをしながら同じ場所へ居座っていた頃の空気だけが、ほんの少し戻ってきたような気がした。
鋏を返したあと、ゆうさんは診察道具を棚へ戻し、その下に置かれていた平たい木箱を取り出した。
さっきまでとは扱い方が変わり、机の上へ置く時にも中身を揺らさないよう両手を使っている。
「それが灰森の?」
アルが手控えを閉じた。
「ええ。お二人が来る間にも、いくつか知らせがありました」
ゆうさんが蓋を開けると、中には湿らせた布と、その上に一本の細い枝が横たわっていた。
葉はまだ青く、先端には小さな蕾が付いている。
それだけなら道端から折ってきた枝と大して変わらないが、反対側へ目を移すと、同じ枝に乾きかけた実が二つ残っていた。
「この植物、今の時期に実が付くものなの?」
「実がなるのは、花が終わってからずっとあとです。新しい蕾と熟した実が、同じ枝に付くことはないんですよ」
ゆうさんは枝へ直接触れず、細い棒で葉の裏を持ち上げた。
「接ぎ木でもありません。別の植物が絡んでいるのかとも思ったんですが、根元まで一本でした。病気でこうなった様子も見当たりません」
「採った場所は?」
「灰森の外縁です。境界痕からは、離れたところですよ」
その名前がここで初めて具体的な場所として出てきた。
アルから聞いていたのは、灰森で季節に合わない植物が増えているというところまでだ。
「境界痕ってのは?」
「森の一部に昔からある、魔力の流れが不安定な場所です」
答えたのはアルだった。
「方位を測る道具が狂ったり、音の返り方がおかしくなったりすることはありますが、地元の方は危険な範囲を把握していますし、長い間、大きく広がったことはありません」
「俺が覚えてる灰森には、そんな場所なかった気がするな」
「いつできたかまでは知りません。私がこちらを旅するようになった頃には、もう知られていました」
地図に載っていなかっただけか、あとからできたのか。ゲームの記憶だけでは分からなかった。
それより、この枝が採れたのは、その境界痕から離れた場所だ。
「これ一個だけなら、変な枝が一本あったで済ませてもよさそうだけど」
「僕も、最初は珍しいものを見つけたくらいに思っていました。でも、ほかの採取人からも聞くんです。芽吹くはずのない草が一晩で伸びたとか、一株に季節の違う花が咲いたとか」
「植物以外は?」
ゆうさんはすぐには答えず、木箱の脇に置いていた紙を一枚こちらへ寄せた。
簡単な地図の上に、いくつか印が付いている。
「道に迷う人も増えています。灰森へ通い慣れた人が、同じ場所へ二度戻ったそうです。ただ、植物のことと関係があるかは、まだ何とも」
「道を間違えただけって可能性は?」
「ええ。疲れていたのかもしれませんし、天気のせいかもしれません。話を聞いただけでは分かりませんね」
そこで一度区切り、ゆうさんは地図の別の場所へ指を移した。
「気になるのは、灰森へ入った採取人が、まだ戻っていないことなんです」
俺とアルの視線が同時に地図へ落ちた。
「何人?」
「三人です。森の入口にある休憩所に泊まって、今朝、採取に出たそうです。昼には戻ると言っていたのに、誰も帰ってこなくて」
「いつも、その辺りで採ってる人たち?」
「ええ。よく知っている場所ですし、三人とも慣れています。昼の食事も休憩所に頼んでいたそうなので、遅くなるつもりはなかったと思います」
「捜索は?」
「近くを探しても見つからなかったそうです。それで、協会へ馬で知らせが来ました。奥まで捜すのは明日の朝からになります。夜の灰森で、捜す側まで迷っては困りますから」
「なら、朝一で出る準備だけしとこう。捜索隊が先に見つけたなら、それで終わりでもいい」
アルは当然のように頷いたが、ゆうさんはまだ何も言っていなかった。
「ゆうさんはどうする? 店があるだろ」
俺が聞くと、少し意外そうにこちらを見る。
「一緒に来るなら助かるけど、勝手に頭数へ入れる気はないぞ。ここはゆうさんの仕事場なんだから」
しばらく俺を見ていたゆうさんは、眼鏡へ軽く触れてから小さく笑った。
「明日は休みにします。急ぎの注文はありませんし、水やりを頼める人もいますから」
「なら頼む。植物の話は俺とアルだけじゃどうにもならん」
「ええ。そちらは任せてください」
それで同行者は三人になった。
問題は、店の前にもう一匹いる。
「わたあめはどうする?」
「もちろん、連れていきます」
返事に迷いはなかった。
俺は窓の外を見る。
暗くなり始めた店先で、巨大な白い身体がこちらを向いた気配だけが見えた。
「あいつ、捜索に向いてるの?」
「帰る方角なら、よく覚えていますよ」
「……行く方は?」
「そこは僕たちの仕事ですね」
「役割分担がはっきりしてんな」
ゆうさんは頷き、木箱へ蓋を戻した。
箱の横には、採取人が向かった場所へ印を付けた地図が残った。
灰森の異常がくーちゃんや俺の帰還と関係するのかは分からない。それでも、帰ってこない三人を捜すためにできることはある。
俺は工具を袋へ戻し、明日の荷物をまとめ始めた。




