第007話 声を知らない友人
店の扉が開き、先ほどの声の主が外へ出てきた。
柔らかい茶色の髪に丸い眼鏡を掛けた、細身で背の高い男だった。袖を肘まで捲った仕事着には乾いた土が薄く付き、右手には剪定用らしい小さな鋏を持っている。
昔のアステリオンで見ていた姿とは当然違う。
それでも、俺はその男がこちらを見る前から、たぶん間違えていないと思っていた。
「わたあめ、道の真ん中へ出ると荷車の邪魔になりますから、もう少しこちらへ――」
羊へ向けられていた視線が、先にアルを捉えた。
「アルさん、お疲れさまです。今日はもう少し遅くなるのかと――」
そこで言葉が途切れた。
ゆうさんの目が俺へ移り、丸眼鏡の奥で完全に止まる。
手にしていた鋏を落としたり、息を呑んで後ずさったりするような派手な反応はなかった。ただ、続きを言おうとしていた口が少しだけ開いたままになり、握っていた鋏の柄へ指がゆっくり食い込んでいった。
俺も何を言えばいいのか分からず、しばらく黙ってその顔を見る。
画面の中なら何度も会った。
文字なら、かなり知っている。
なのに今ここで向き合っている男の声も、表情も、立った時の背丈も、俺にとっては全部初めてだった。
「……サクさん?」
名前というより、見たものが本当にそうなのか確かめるような声だった。
俺が何か返すより先に、ゆうさんの視線が背中の戦鎚へ落ちる。柄を追い、鎚頭を見て、それからもう一度俺の顔へ戻ってきたが、それでも納得した様子はなかった。
「たぶん、そのサクさんで合ってる。ただ、いろいろ面倒なことになってる」
「……たぶん、ですか」
ゆうさんは俺の顔を見つめたまま、言葉を止めた。そう返されると困るが、ほかに言いようがない。
何から話したものか迷っていると、ゆうさんが隣のアルへ目を向けた。
「アルさん。僕が今、知っておいた方がいいことはありますか」
「あります。ただ、私にも分からないことの方が多いです」
アルは俺を一度見てから、必要なところだけを選ぶように続けた。
「マスター本人には、私たちが知っているこの十年の記憶がありません。少なくとも、未知領域へ向かったことも、その後そちらで過ごしていた時間も覚えていません」
ゆうさんの眉がわずかに寄った。
「では……サクさん自身は、最後に僕たちと会ったのをいつだと思っているんですか」
「そこから説明すると長い」
「長くても構いません。むしろ今は、短くまとめられる方が怖いです」
いかにもゆうさんらしい返しだった。
アルは少しだけ考えてから首を振る。
「詳しい話は中でしましょう。ただ、先に一つだけ。姿だけ似た別人を私が連れてきた、という話ではありません。少なくとも私は、この方をマスターだと思っています」
ゆうさんはすぐには答えず、俺の顔を見た。
その視線にさっきまでとは違うものが混じったのが分かる。
十年ぶりに帰ってきた友人を見る目と、その友人が自分を覚えているか確かめる目が、たぶん同時にそこにあった。
「……サクさん。僕のことは、分かりますか」
その聞き方なら、俺にも意味が分かった。
「分かるよ。ゆうさん。《星の標》の錬金術師で、素材とか植物の話になると説明が長い。こっちは答えを一個聞いたつもりなのに、気付いたら前提条件から講義されてる」
眼鏡の奥で、ゆうさんの目が少しだけ見開かれた。
「変な素材持ち込んではミレアさんを困らせてたし、戦う時も前へ出るより薬とか植物で周りをどうにかする方が得意だった。俺が覚えてるのは――そういう頃のゆうさんだ」
「そういう頃、ですか」
「今のゆうさんは知らない。声を聞いたのも、さっきが初めてだ」
最後の一言で、ゆうさんの表情が止まった。
この世界で生きていた俺なら、当然その声を知っていたはずだ。
何度も話し、何度も名前を呼ばれていたはずなのに、その部分だけが俺の中にはない。
「……なるほど」
ゆうさんは小さく息を吐き、視線を一度足元へ落とした。
「まだ全然分かってはいませんけど、少なくとも、何が分かっていないのかは少し分かりました」
「それで十分。俺も似たような状態だから」
そう答えると、ゆうさんは困ったように笑った。
「……それ、安心していいんですかね」
その時、それまで俺たちのやり取りを眺めていたわたあめが鼻を鳴らし、ゆうさんの横へ身体を寄せた。
近くで見ると本当にでかい。
毛に覆われているせいで輪郭が膨らんで見えるという言い訳では済まない程度に肩回りが厚く、首を動かすたびに毛の下で筋肉らしきものが動いている。
「人には慣れてるんだな」
「ええ。お客さんにもよく可愛がってもらっていますから」
「なるほど、看板羊か」
「わたあめに挨拶して、そのまま帰る方もいますけどね」
俺が笑うと、ゆうさんも少し口元を緩めた。
そうして少し空気が緩んだところで、店の中から小さな呼び鈴が鳴った。
ゆうさんが振り返る。
「すみません、お客さんがまだ一人いらっしゃるんです。少しだけ待っていただいてもよいですか」
「そりゃ当然だろ。こっちは勝手に押しかけた側だし」
「ありがとうございます。アルさんは中へどうぞ。サクさんも――いえ、その戦鎚だけ、入口の右側へ立ててもらえると助かります。花瓶が多いので」
「俺より先に武器の事故対策されてるな」
「見れば必要だと分かります」
ゆうさんは少し申し訳なさそうに笑い、先に店内へ戻っていった。
扉を潜ると、外から見た以上に花屋らしい匂いが濃くなった。
窓辺や壁際には鉢植えが並び、天井近くには乾燥させた草束が種類ごとに吊られている。
奥の棚には薬瓶や紙包みも置かれていて、花だけを売る店というより、植物を中心にした生活道具と錬金素材の店らしい。
入口脇へ戦鎚を立てたところで、木製の台の向こうから年配の女が顔を出した。
「ゆうさん、さっき頼んだ虫除けの粉だけどね」
「はい。今包んでいます。庭へ撒く方は前回と同じ量で大丈夫ですが、鉢植えに直接使う分は少し薄めてください。葉が柔らかい時期なので、濃いままだと傷む可能性があります」
「前もそんなこと言ってたねえ。私が濃く撒くからでしょう」
「効き目を強くしたいお気持ちは分かるのですが、植物までいなくなってしまうと虫除けの意味がなくなりますので」
女は笑いながら金を払い、小さな紙袋を受け取った。
そのまま帰るのかと思ったが、俺とアルを見つけると、知らない旅人を見る程度の気軽さで頭を下げる。
「お友達かい?」
「はい。かなり久しぶりの方です」
ゆうさんが答えた。
それだけだった。
十年ぶりに帰ってきた人間だとも、昔の仲間だとも説明しない。
女もそれ以上は聞かず、「じゃあ今日は早く店閉めな。積もる話もあるだろうから」と笑って出ていった。
扉の鈴が鳴り、外でわたあめへ何か声を掛けているのが聞こえる。
俺はそのやり取りを、店の端から何となく眺めていた。
店を早く閉めろと客の方から言ってくるあたり、ずいぶん気安い付き合いらしい。
昨日アルから聞いた話を、今は目の前で見ている。
昔の仲間が花屋をやっている。
話には聞いていたが、客に名前を呼ばれ、慣れた手付きで代金を受け取るゆうさんを見るのは、何だか不思議だった。
ここはゆうさんが十年の間に作った場所なのだ。
少なくとも、俺が戻ってくるまで止まっていた場所ではない。
「お待たせしました」
最後の客を見送り、店先の札を裏返したゆうさんが戻ってきた。
「今日はもう閉めます。奥でお茶くらいなら出せますので、よければそこで話しましょう」
「店、大丈夫なのか?」
「いつもより少し早いだけです。それに、毎日起きることではありませんから」
その言葉だけは、普段のゆっくりした調子よりわずかに早かった。
店の奥には小さな作業部屋があり、中央の机は半分ほど植物と器具に占領されていた。
ゆうさんは慣れた手付きで空いている側へ紙や瓶を寄せ、三人分の椅子を用意する。
湯を沸かしている間も、どこか落ち着かないらしく、棚から茶葉を取ったあと一度戻し、別の瓶を取ってからまた最初の茶葉へ戻っていた。
本人は平静を装っているつもりかもしれないが、少なくともいつもの手順ではなさそうだった。
「手伝おうか?」
「大丈夫です。何かしている方が落ち着くんです」
それなら、任せておこう。
俺とアルが机について待っていると、しばらくして花の香りが薄く混じった茶が置かれた。ゆうさんも向かいへ腰を下ろす。
「どこから聞く?」
俺が尋ねると、ゆうさんは湯気の向こうで少し考えた。
「……何からでしょうね。聞きたいことは、いくつもあるんですが」
そう言って、俺の顔を見る。
「僕のことは覚えている。でも、昔、一緒に過ごした時のことは覚えていないんですよね」
「そうなるな」
「アルさんからも聞きましたけど……やっぱり、妙な感じがします。顔も声も、僕の知っているサクさんですし、その戦鎚にも見覚えがあるのに」
すぐに返せる言葉がなく、俺は頷いた。
ゆうさんは茶へ手を伸ばし、少し間を置いてから尋ねた。
「……くるみさんは、一緒じゃないんですね」
避けて通れる質問ではなかった。
俺はカップの縁から手を離した。
「いない。俺も探してる」
ゆうさんはゆっくりと目を伏せた。カップを手に取ったものの、しばらく口をつけなかった。
「アルから聞いたのは、俺とくーちゃんが先へ行ったあと、しばらく二人で連絡を寄越して、その後どっちも消息不明になったところまでだ。俺がどうして戻ったのかも、くーちゃんが今どこにいるのかも分からない」
「ええ。僕が知っているのも、そこまでです」
ゆうさんはそう答えたものの、すぐ次の質問へ進もうとはしなかった。
窓の外から、わたあめが何かを踏んだらしい鈍い音が一度だけ聞こえる。
店の前を通る人の話し声も、夕方になって少しずつ減っていた。
「ゆうさんは、俺たちが消えたあとどうしてた?」
今度は俺から聞いた。
アルには道中で似たような話を聞いたが、ゆうさんについて知っているのは花屋をやっているということくらいだ。
「最初のうちは、あちこちに聞いて回っていました。錬金術師の知り合いや素材商に、未知領域から戻ってきた人はいないかって。アルさんからも、ときどき連絡をもらっていました」
ゆうさんは事実を並べる時の声で話し始めた。
「そのうち、ミュリエで仕事を頼まれるようになりまして。借りていた作業場が手狭になったので、店を持ったんです。今はわたあめもいますし、世話をする植物も増えました」
「さっき見たよ。普通に町の人だった」
「普通かどうかは少し自信がありませんけど、どうにかやっていますよ」
「十分だろ」
俺がそう返すと、ゆうさんの指がカップの取っ手へ触れたまま止まった。
「……でも、途中からは毎日探していたわけじゃないんです」
俺は黙って続きを待った。
「注文された薬を作って、花の世話をして。忙しい日は、それだけで終わってしまうこともありました」
ゆうさんは取っ手から指を離し、両手を膝へ下ろした。
「僕にできることも、だんだん少なくなっていましたから。仕方がないと思っていたんです。でも、こうしてサクさんの顔を見ると……二人はどこかで困っていたかもしれないのに、僕はここで普通に暮らしていたんだなって」
道中で聞いたアルの話が頭をよぎった。
「ゆうさん」
「はい」
「さっき客に虫除け売ってたろ」
ゆうさんが眼鏡の奥で目を瞬いた。
「あの人、ゆうさんの薬をあてにして来たんだろ」
「……ええ」
「ほかにも、ここで薬を買う奴はいるだろ。花も世話しなきゃ枯れるし、わたあめも飯を食う」
「はい」
「だったら、それを悪かったみたいに言わなくていいだろ。生きてただけじゃん」
ゆうさんは何も言わなかった。俺はそのまま続けた。
「俺のこともくーちゃんのことも忘れてたってんなら、多少文句くらい言うかもしれんけど、そうじゃないんだろ」
「忘れたことはありません」
「じゃあ十分だよ。俺らが消えたせいで、店を持つことまで諦めましたって言われる方が嫌だわ」
ゆうさんはしばらく俺を見ていたが、やがて眼鏡を外し、取り出した布でレンズを拭き始めた。
「……サクさんは、昔からそうですよね」
「何が」
「人が気にしていたことを、『生きてただけ』の一言で済ませてしまうんですから」
「雑だったか」
「ええ、少し」
そこは否定してくれないらしい。
ゆうさんは拭き終えた眼鏡を掛け直し、俺を見た。
「でも……ありがとうございます」
目元には、さっきより少し疲れが見えた。
昔も、こんな顔をすることがあったのだろうか。文字だけのやり取りでは、分からなかった。
「じゃあ、改めて」
俺は茶を一口飲んでから、向かいにいる男を見る。
「久しぶり、ゆうさん。今の俺が言っていいのか若干怪しいけど」
ゆうさんは一瞬だけ困ったように笑い、それからゆっくり頷いた。
「ええ。久しぶりです、サクさん」
窓の外では、店先の花の影が長く伸びていた。
俺はゆうさんの声を知らなかった。
けれど、話し方は知っていた。




