第006話 四日ぶんの距離
宿を出る前、俺は昨夜まとめた鞄を背負い、肩紐を引いて重さの偏りがないことを確かめた。
考えずに詰めた方が収まりがよく、考えずに結んだ方が緩まないというのは未だに少し腹立たしいが、だからといって朝から自分の身体と荷造り勝負をやり直すほど暇でもない。
壁際に立ててあった戦鎚を持ち上げると、右手は昨日と同じく、俺の記憶より少し前にある革の窪みへ自然に収まった。
鎚頭の固定部に挟まれた薄い板もそのままで、理由が分かるまでは触らないと決めた以上、今日のところはこの戦鎚と今の身体を信用するしかない。
「朝から難しい顔をされていますが、何か忘れましたか」
荷物をまとめ終えたアルが扉のそばでこちらを見ていたので、俺は鞄と戦鎚を順番に軽く揺すってから首を振った。
「忘れ物があるかどうかを判断する記憶が足りないだけで、荷物そのものは昨日の俺がかなり真面目に詰めたらしい」
「昨日のマスターを信用するのですか」
「一晩前なら、今いる俺より事情に詳しいからな」
アルは口元だけで小さく笑い、俺が扉を閉めるのを待ってから階段へ向かった。
二日ほど使っただけの部屋だったが、鍵を返してしまえばもう戻る理由はなく、そうして宿の外へ出た時、ようやくリュネールを離れるのだという実感が少しだけ湧いた。
朝の通りには荷車の車輪が石畳を噛む音が響き、開店前の店先では水を撒く者や品物を運び込む者が忙しく動いている。
ここへ来た最初の日には、目に入るものすべてが知っているゲームの街と知らない現実の街を同時に主張していたのに、数日歩いただけで、宿から市場までの道や冒険者協会の角くらいなら今の俺自身の記憶として辿れるようになっていた。
昔の朔來が知っていた街と、ここへ来てから俺が覚えた街が、頭の中でまだ綺麗には重ならない。
それでも全部を身体任せに歩いていた最初の日よりは、ほんの少しだけ自分の足でこの町に立っている気がした。
「今度戻ってきたら、もう少し迷わず歩けそうだな」
何となく口にすると、隣を歩いていたアルが俺の顔を見る。
「今でもほとんど迷っていないように見えますよ」
「あれは昔の俺が勝手に案内してるだけだ。今の俺が覚えた道とは、まだ別物なんだよ」
俺がそう答えると、アルはしばらく考えるように視線を前へ戻してから、「では、次に戻った時にはどちらのマスターが道を選ぶのか楽しみにしておきます」と静かに言った。
他人事だと思ってずいぶん気楽なことを言う。
ただ、その言葉の中に「戻った時」が当たり前のように入っていたことは、妙に胸に残った。自分ではまだそこまで先を信じていないのに、アルはもう、俺が戻ってくる前提で話している。
ミュリエへ向かう乗合馬車は、南西側の街道口にある発着場から出ていた。
屋根付きの車体が何台も並ぶ広場には、積み荷を運ぶ人間と馬の臭い、それに乾いた土埃が混ざり、行き先を告げる御者たちの声が絶えず飛び交っている。
アルが手配していた馬車は六人ほどが向かい合って座れる箱型で、屋根には荷物を縛る枠、後部には槍や長剣を固定するための金具まで付いていた。
問題は、俺の戦鎚が長剣や槍の仲間として扱っていい形をしていないことだった。
「兄ちゃん、それを中へ持ち込む気じゃないだろうな」
御者の男は俺の顔より先に背中の戦鎚を見て、露骨に嫌そうな顔をした。
「俺だって四日間こいつと相席したくないから、どっか縛れる場所を貸してくれ」
「後ろへ付けられりゃいいが、その頭の重さだと普通に締めただけじゃ傾くぞ。途中で外れて後続の馬車へ飛んでいったら、洒落じゃ済まん」
確かに、用意されている革帯をそのまま柄へ巻けば固定自体はできるものの、鎚頭側へ荷重が寄って走行中に揺さぶられ続ける。
どうしたものかと金具を眺めているうちに、俺の手は勝手に動いていた。御者から予備の革帯を一本受け取ると、それを鎚頭のすぐ下へ回し、重さを支えるように輪を作っていく。
柄の上下を別々に押さえ、最後に車体側の金具へ引き付けると、戦鎚は重心を下へ預けたまま、揺すってもほとんど動かなくなった。
やってから自分でも固定の理屈は理解できるのだが、最初の一手をなぜそこへ通したのかと聞かれれば、昨日までと同じく答えはない。
御者は革帯を順に確かめ、最後に戦鎚を二、三度揺らした。
「これなら大丈夫だな」
「助かる」
「自分でほとんどやっといて何言ってんだ」
そう言って御者はさっさと御者台へ戻っていく。
向こうからすれば、自分の武器を固定できることなど何も不思議ではないのだろう。
俺が馬車へ乗り込むと、先に座っていたアルが窓の外から固定された戦鎚へ目を向けている。
「昨日から、手が覚えていることを随分便利に使うようになりましたね」
「使えるものを毎回気味悪がっててもしょうがねえだろ。何で使えるのかは分からんけど、使ったら駄目な理由も今のところない」
「昨日より少し前向きになりましたか」
「諦めがよくなっただけかもしれん」
俺の答えにアルは反論せず、その代わり、膝の上に置いていた旅の手控えを閉じた。
馬車が発着場を出てしばらくすると、家並みの隙間が少しずつ広がり、やがて石畳は踏み固められた土の街道へ変わった。
リュネールの南西へ伸びる花牧街道は、名前だけなら昔の俺も知っている。
アステリオンではミュリエ方面へ抜けるための道で、俺にとってはただの移動区間だった。途中の景色なんて、ろくに覚えていない。
今は車輪が小石を踏むたびに座面から細かい振動が尻へ伝わり、窓から入り込む土埃が口の中をざらつかせるので、移動中という時間を無視しようにも向こうから存在を主張してくる。
向かいには薬草を買い付けに行くという年配の商人が座り、その隣では大きな籠を抱えた女が早くも眠そうに舟を漕いでいた。
俺たちを含めて四人しか乗っていないため窮屈ではないが、これを朝から夕方まで、途中で宿場へ泊まりながら四日続けるらしい。
「昔の俺は、ミュリエまでどのくらい掛かるか気にしたことあったかな」
窓の外へ流れる畑を眺めながら聞くと、アルは少し記憶を探るように目を伏せた。
「少なくとも私の覚えている範囲では、目的地へ着いてから何をするかの話はよくされていましたが、そこまで何日掛かるかを気にされていた印象はあまりありませんね。移動中は装備を弄るか、眠るか、珍しい素材を見つけて降りようとするかでした」
「最後だけろくでもないな」
「止めても、『すぐ戻る』と言って降りていましたよ」
「戻った?」
「大抵は、予定より遅れて」
俺は窓枠へ頭を預け、二十年前の自分へ心の中で低い評価を付け直した。
ゲームの中では移動も攻略の前に挟まる手順の一つで、早く目的地へ着けるならそれに越したことはなかったが、実際に土の上を馬が歩く世界では、百六十キロという距離を都合よく消す方法はないらしい。
地図なら指先で一瞬の距離なのに、実際に進めば朝が四回来て、夜も四回来る。
その当たり前が、俺には妙に新しかった。
「四日って聞いた時は長いと思ったけど、こうして見ると本当に四日必要なんだな」
「街道は比較的安全ですが、馬を休ませる必要がありますし、暗くなってから無理に進む方が時間を失いますから」
「昔の俺に聞かせたい話だわ」
「聞いていたと思いますよ。守らなかっただけで」
「我ながらしょうもねえな」
アルの口元が少し緩み、その程度の話をしながら馬車に揺られているうちに、背後に見えていたリュネールの建物は丘の向こうへ完全に消えた。
最初の夜に泊まった宿場は、街道を行き交う馬車と商人を泊めるための場所らしく、宿の裏手には客室より広いのではないかと思うほどの厩があった。
豆と肉を煮込んだ濃い味の夕食を食べ、部屋へ上がる前に外へ出ると、夕方まで熱を持っていた土から湿った匂いが上がっている。
預けた戦鎚は他の旅人の武器や大きな荷物と一緒に、厩の脇にある鍵付きの保管庫へ入れられていた。
この世界へ来たばかりの夜なら、自分が朔來であることを証明する数少ない物として、手元から離すだけでも落ち着かなかったかもしれない。
盗まれたら困るのは間違いないが、感覚としては旅先の駐車場に車を置いているのと大差なかった。明日の朝になれば、またそこから持っていくだけだ。
「お前、こういう旅をずっとしてたんだよな」
隣で明日の発車時刻を確認していたアルへ声を掛けると、彼女は手控えから顔を上げた。
「ずっと、というほどではありませんが、リュネールを離れてからは町から町へ移ることが多かったですね。馬車で行けない場所なら歩きますし、同じ町に数か月いることもあります」
「十年って言われても実感なかったけど、これを何度も繰り返したと思うと、ちょっと分かる気がする」
俺が朝から痛くなり始めた腰を叩くと、アルは珍しく声を立てずに笑った。
「そこから実感されるとは思いませんでした」
「時間って、年数より尻に来るんだな」
「それはマスターの座り方にも問題があると思います」
もっと深い話をしているつもりだったのに、妙なところへ着地してしまった。
ただ、アルが過ごした十年を「待っていた時間」としてしか考えていなかった自分には、これくらいの方がちょうどよかったのかもしれない。
彼女にも俺を知らない朝があり、俺とは関係なく馬車へ乗り、宿を探し、飯を食い、知らない町で眠った夜がいくつもあった。
それを十年分まとめて「待たせた」と呼ぶのは、たぶん違う。
二日目の午後、街道が低い丘の間へ入り始めた頃、馬車の後ろから耳障りな金属音が混じるようになった。
車輪が石を弾く音とは違い、大きく車体が沈んだ時だけ何かが一度ぶつかるような乾いた響きで、何度か聞いているうちに音の出どころが右後方の車輪より少し内側だと分かった。
御者へ伝えて街道脇の広い場所へ止めてもらい、車体の下へ身体を屈めると、板状のばねを固定している太い金具の一つがわずかに浮いていた。
指で押せば小さく動き、そのたびにさっきと同じ音がする。
「昨日締め直したばっかなんだがな。ここで見つかって助かった、このまま走れば次の宿場までは持たなかったかもしれん」
御者はそう言いながら車体の下へ工具箱を引き寄せ、奥側の金具を固定する物が欲しいと手を伸ばした。
その言葉を聞いた瞬間、俺は腰の工具袋を開き、昨日まで用途の分からなかった細い金属棒を取り出していた。
留め具の奥へ差し込むと、先端が溝へぴたりと収まった。そのまま押さえていると、御者が反対側から力を掛けても金具が一緒に動かない。
どうやら、狭い場所で部品を押さえるための道具だったらしい。
「そこを押さえられるなら十分だ。締めるから、動かさないでくれ」
御者に言われるまでもなく、工具へ掛かる力が増すにつれて俺の手首は少しずつ角度を変え、留め具へ無理な力が掛からない位置を保っていた。
修理を終えて馬車を少し走らせてもらうと、さっきまで聞こえていた金属音は消えている。
「助かった。おかげで締めやすかった」
「こっちもな。こいつ、何に使うのかずっと分からなかったんだ」
手にした金属棒を見せると、御者が眉を上げた。
「自分の道具だろ?」
「まあ、ちょっと事情がある」
御者は眉を上げたものの、それ以上は聞かず、そのまま御者台へ戻っていった。
俺が馬車へ乗り込むと、アルの視線が手にした金属棒へ向いた。
「それは?」
「出発前、工具袋の中を漁った時には使い道が分からなかったやつ。今のでやっと分かった」
金属棒を掌の上で転がす。
「思い出したわけじゃないんだよ。必要になったら、手の方が先に動いただけだ」
「それなら、その知識を今のマスターが一つずつ自分のものにしていけばよいのではありませんか」
「簡単に言うな」
「簡単ではありませんよ。ただ、知らないまま使えることと、使った理由を今日のマスターが知ったことは、少し違うでしょう」
言われてみれば、確かに違う。
昨日までは身体から答えだけを渡されるたび、自分の知らない誰かに肩越しから手を出されているような気分だった。今なら、この棒を取り出した理由も、どう使えば役に立つのかも、自分の経験として説明できる。
ほんの一つ分ではあるが、借り物だったものを自分の手へ取り戻したような感覚が残った。
旅の三日目になると、街道の周囲には牧草地や薬草畑が増え、すれ違う荷車にも木材や鉱石より花や乾燥前の葉が目立つようになった。
窓を開けていれば、風向きが変わるたびに青臭い薬草や甘い花の香りが入り込み、看板を読まなくても目的地へ近づいていることが分かる。
途中の宿場で年配の商人が降り、車内が俺とアルだけになった頃、ずっと頭の片隅にあった名前を口にした。
「ゆうさんって、今も昔みたいな感じなのか」
アルは問いの意味を測るように少し考えてから、窓の向こうへ流れていく畑を見た。
「変わっていないところはありますよ。話し方は今も穏やかですし、確かなことと推測を混同することを嫌います。綺麗な花を見て最初に『毒性は低そうです』と言うところも、おそらく昔のままです」
「最後のは褒めてんのか?」
「ゆうさん本人は褒めているつもりだと思います」
そこまで聞けば、文字の中にいた男の輪郭はかなり戻ってくる。
何か質問すると必要な答えの前後まで丁寧に説明し、素材や錬金の話になれば長いのに、本人には長話をしている自覚があまりない。
ゲームのキャラクターなら覚えているし、チャットに並んだ文章も思い出せる。
けれど、明日会うのはそのどちらでもなく、この世界で十年を生き、花屋を持ち、自分の家へ帰る人間だった。
「店まで持ってるってことは、ちゃんとこの町の人なんだな」
「ええ。常連のお客さんもいますし、ご近所の方には普通に名前を呼ばれています。錬金術の相談を持ち込まれることもありますし、わたあめのことで苦情を言われることもあります」
「最後に知らん生き物混ぜるなよ」
「以前お話しした、大きな羊です」
「あいつ、わたあめって名前なの?」
「ええ」
「名前だけ急に可愛いな」
「その感想は、実物を見てからもう一度お願いします」
「その言い方、絶対ろくなもんじゃないだろ」
アルは否定せず、むしろ少し楽しそうにしている。
それからしばらく外を眺めていた俺は、ふと思い出して彼女へ顔を向けた。
「そういや、ゆうさんには俺が行くって伝えてないんだよな」
「伝えていません。今のマスターを、私もうまく説明できませんので。それに、ゆうさんが会って何を思うかは、本人に任せたかったので」
そこまで一息で聞いて、俺はようやくアルが何を気にしているのか分かった。
俺を見て喜ぶかもしれない。
怒るかもしれないし、怖がるかもしれない。
そもそも俺を朔來だと思わない可能性だってある。
アルが風見花壇で俺を「マスター」と呼んだからといって、他の全員が同じ答えへ辿り着く保証などどこにもない。
「そうか。お前も、あの日までは俺がどうなってるかなんて知らなかったんだもんな」
俺がそう言うと、アルは窓の外からこちらへ視線を戻した。
「ええ。ですから、ゆうさんにも同じように見てもらいたいのです。私が何を思ったかではなく、自分の目で」
そこで話を終えてもよかったのだが、風見花壇で弦を鳴らしていたアルの指を思い出した。
あの時の俺は状況を理解するだけで精一杯だったが、十年ぶりに俺が突然目の前へ現れた側も、平気でいられたはずがない。
「……お前は、怖くなかったのか」
聞いてから、今さらずいぶん遅い質問だと思った。
アルはすぐには答えず、膝の上に置いた手控えの表紙を指先で一度だけ撫でた。
「怖かったですよ。姿はマスターなのに、私を見ても何も分からない顔をされたらどうしようとは思いましたし、声を掛けて違う人だったら、その後どうすればよいのかも考えられませんでした」
静かな声だったが、その言葉を聞いて初めて、風見花壇で俺を呼んだ一言にどれだけの不安や迷いが混じっていたのか、少し分かった。
俺の方には、そんな覚悟は何もなかった。
聞いたことのない弦の音に足を止め、その先にいたアルへ目を向けた。ただそれだけだ。
「……まあ、お前が一番心配してたことにはならなくてよかったな」
アルは少し目を丸くしたあと、穏やかに笑った。
「はい。今のところは、それで十分です」
「今のところって付ける辺りが厳しいんだよな」
「これから何をされるか分かりませんので、評価を確定するには早すぎます」
「十年ぶりに戻ってきた人間への信用が薄すぎるだろ」
「十年前までの実績を加味しています」
そこまで言われると反論材料がなく、俺は窓の外へ逃げることにした。
少し遠くなったアルの笑い声が、馬車の車輪の音へ混じっていた。
三日目の宿で眠り、翌朝また同じ馬車へ乗ると、昼を過ぎた頃から景色の色が目に見えて変わり始めた。
丘の斜面に広がる畑の一部が白や黄、薄紫の花で埋まり、その間には背の低い薬草が列を作っている。
道沿いの農家では摘んだ花を木枠へ広げ、すれ違う荷車からは乾燥させる前の草の匂いが強く流れてきた。
リュネールが石と鉄と人の気配を先に感じる町だったとすれば、ミュリエはまだ町の屋根すらよく見えないうちから匂いで近づいてくる。
四日前、宿の部屋で荷物を結んでいた時には、ミュリエという名前も、そこにいるゆうさんも、まだ話の中にしかいなかった。
それが朝を四回またぎ、尻を痛め、壊れかけた馬車を一度直した頃には、この街道の先に実際の町があり、そこへ自分が近づいているという当たり前のことが妙に重く感じられる。
「見えてきましたよ」
アルが窓の外を示した先で、丘の向こうに淡い色の屋根が重なっていた。
リュネールのような大きな城壁はなく、町の外まで花畑と牧草地が続いているため、どこからが町なのか遠目には曖昧に見える。
その曖昧な境目へ馬車が近づくにつれ、道を歩く人の籠にも花が増え、家々の軒先には乾かした草束や植木鉢が並び始めた。
ゲームの頃にも、この町へ来たことはあるはずだった。
それでも画面の中のミュリエと、四日掛けて辿り着いた町が同じ場所だとは、まだうまく思えなかった。
発着場へ着いたのは、陽が西へ傾き始めた頃だった。
四日間世話になった御者へ礼を言い、後部の固定具から戦鎚を外していると、男は俺の工具袋を顎で示した。
「帰りも俺の馬車に乗るなら、それ持って前へ座れよ。途中で何か壊れたら使う」
「それ、客じゃなくて整備員扱いじゃねえか。運賃安くなるなら考える」
「ならねえよ」
「じゃあ普通に客やるわ」
男は笑いながら馬を引いていき、俺たちは荷物を背負って町の通りへ入った。
アルによれば、ゆうさんの店まではここからそれほど離れていないらしい。
四日間ずっと馬車へ座っていたせいか、歩けること自体が思った以上に気持ちよく、狭い道を曲がるたびに変わる花や薬草の匂いを嗅ぎながら進んでいると、十数分程度の距離は本当に短く感じた。
町には花屋が何軒もあり、どこも似たような鉢や苗を店先へ並べているのに、アルは一度も迷わず細い脇道へ入っていく。
「この辺りまで来たら、俺一人じゃ絶対分からんな」
「覚える必要があれば、マスターならすぐ覚えると思いますよ。少なくとも、昔は一度行った工房の場所だけは妙に正確に覚えていましたから」
「それ、たぶん興味ある場所しか覚えてなかったんだろ」
「その通りです」
即座に返され、昔の俺への評価がまた一段下がった。
そんな話をしながら角を曲がったところで、アルの歩調が少し緩んだ。
「見えました。あそこです」
通りの先にあるのは、二階建ての小さな木造家屋だった。
一階部分が店になっているらしく、広い窓辺には鉢植えがいくつも並び、入口の横には白い花を描いた木の看板が吊られている。
いかにも花屋らしい穏やかな店構えなのだが、その正面だけ妙に圧迫感があった。
最初は大きな白い荷物でも置いてあるのかと思ったものの、近づくにつれて毛に覆われた塊がゆっくりと首を持ち上げ、立派な角と、羊という生き物には少々過剰に見える太い前脚が現れた。
どう見ても羊ではある。
ただし、俺の知っている牧歌的な羊から、どこかで育成方針を大きく間違えている。
「アル、昨日言ってたわたあめって、まさかあれか?」
「ええ。ゆうさんと暮らしている羊です」
「名前だけ聞いて、もうちょい柔らかい生き物を想像してたわ」
「毛は柔らかいですよ」
「そういう問題じゃねえ」
わたあめは俺たちを見つけると、座っていた身体をゆっくり起こした。
立ち上がったことで分かったが、寝ている時よりさらに大きく、太い首から肩にかけての厚みは、羊というより小型の魔物と説明された方が納得しやすい。
しかも俺の背中にある戦鎚が気になるのか、鼻を鳴らしながら真っ直ぐこちらを見ている。
俺も見返したが、初対面の羊と視線で張り合う意味を考えたところで、店の扉についた鈴が軽く鳴った。
「わたあめ、お店の前でお客さんを睨んでは駄目ですよ。怖がってしまうでしょう」
中から聞こえてきたのは、穏やかで、少しゆっくりした男の声だった。
当然ながら、聞き覚えはない。
俺はゆうさんの本当の声なんて一度も聞いたことがない。
それでも、その妙に丁寧で、羊へ注意しているのに少しも慌てていない言い方を聞いた瞬間、扉の向こうから誰が出てくるのかだけは分かった。




