第005話 手が覚えている
アルと別れたあと、俺はそのまま市場へ向かった。
明日の朝にはミュリエへ発つ。食料と補修用品を揃え、今持っている金でどの程度の旅ができるのか見当を付ける。それから背中の戦鎚も、一度まともに振っておきたい。
昨日までは自分が何者なのかという話だけで頭が埋まりそうだったが、旅へ出ると決まれば、そんな事情とは関係なく飯も水も要る。宿代だって払わなければならない。
そういうところだけ妙に現実的なのは、むしろ助かった。飯を食って、水を確保して、宿代を払う。自分が何者なのかより、よほど答えの出しやすい話だった。
市場へ近づくにつれて、朝の通りへ散っていた匂いと声が一か所へ集まってくる。
色の違う天幕が道の両側へ連なり、その下には野菜や果物、干した肉、革袋、布地、鍋まで並んでいた。
客を呼び込む声の上を荷車の車輪が通り、鉄板で脂の弾ける音に、値切っている女の声が重なる。隣の店へ釣り銭を借りに走る店主までいて、俺の記憶にある「市場」という名前の区画より、ずっと騒がしくて忙しい。
ゲームの頃にも、たぶん同じ場所を何度も歩いている。
けれど俺が見ていたのは店の位置や売っているアイテムであって、焼きすぎた肉を焦って裏返す店主や、籠から転がった果物を追いかける子供ではなかった。
「兄ちゃん、その鎚で腹は膨れねえぞ。食ってけ!」
人混みの向こうから飛んできた声に振り向くと、大きな鉄板の前に立った男が、串へ刺した肉を一本こちらへ掲げていた。表面には赤い香辛料がたっぷり振られ、落ちた脂が鉄板へ触れるたび、腹へ直接来るような匂いが流れてくる。
「武器持ってる奴には毎回それ言ってるのか?」
「腹減ってそうな顔で選んでる」
「余計なお世話だ」
「外れてるか?」
朝飯はちゃんと食べたはずなのに、匂いを嗅いだ腹は店主側へ付いた。
「一本」
「ほら当たった」
「うるせえな」
笑いながら告げられた値段を聞き、腰の革袋を開く。
中には大きさも色も違う硬貨が何種類か入っている。通貨がリルなのは分かるし、どれが大きな額なのかも見れば何となく分かる。ただ、肉串一本にその金額を出すのが高いのか安いのか、財布全部で何日暮らせるのかとなると、今の俺には判断材料がなかった。
少し見比べるつもりでいたのに、右手は迷わず二枚を拾い、店主の掌へ落としていた。
男は普通に受け取り、釣りを返すこともなく肉串を寄越す。
「毎度」
受け取った串より先に、自分の指先を一度見た。
「……合ってる?」
「何が?」
「いや、こっちの話」
少なくとも金額は合っていたらしい。
なら今はそれでいいか、と肉へ齧りついた直後、硬貨のことはしばらく頭から消えた。
「辛っ」
舌へ鋭い刺激が来たあと、肉の脂と焦げた香辛料の匂いが一気に広がる。見た目以上に容赦なく辛いが、まずいどころか二口目を食いたくなる味だった。
「赤椒焼きだからな」
「それ買う前に言えよ」
「札に書いてあるだろ」
店主が顎で示した木札には確かに商品名らしい文字がある。ただ、読むより先に匂いへ負けた。
「水は?」
「向かい」
「お前んとこで売れよ」
「向こう姉貴の店だからな。勝手に売ったら俺が怒られる」
「ちゃっかりしてんな。身内でうまく回してやがる」
口の中を燃やしたまま向かいへ行き、言われた通り水を買う。
今度は値段を聞いてから、硬貨の種類を考えず革袋へ手を入れてみた。指が選んだ分を出せば店の女は何も言わず受け取り、水の入った小瓶を渡してくる。
二度続けば偶然とは考えにくい。
だからといって、もう一軒探して試す気にはならなかった。合っているのなら、ひとまず生活には困らない。理由を知りたくなったら、その時に考えればいい。
水で舌の辛さを流しながら市場の奥へ入ると、今度は買い物そのものへ目が向いた。
本来の目的だった保存食は簡単に見つかった。干し肉と固焼きのパンに、豆を潰して板状に乾かしたものまで積まれている。
最後の品だけはどう見ても食事に見えなかったので、店主へ食べ方を聞くと、湯で戻してもいいし、そのまま齧ってもいいという。
試食に一欠け渡された。
噛んでみると、硬さはともかく、味まで板に寄せる必要はなかったんじゃないかと思うくらい素朴だった。
「……これ、長旅の途中で食ったら旅そのものが嫌にならない?」
「毎日食えば慣れる」
「毎日食う前提だから嫌なんだよ」
店主は笑いながら、腐りにくいし腹持ちもいいと実用面だけを押してくる。
味よりそちらが大事なのは分かる。結局何枚か買って袋へ入れてもらい、次へ向かおうとしたところで、隣の露店から甘い匂いが流れてきた。
薄く焼いた生地へ蜂蜜を塗り、何枚も重ねている。
旅には要らない。
少なくとも、さっき買った板状の何かより優先順位が低いのは間違いない。
「一枚いくら?」
そう判断できているのに、口は普通に値段を聞いていた。
「一枚三リル。五枚なら十二」
「五枚」
「毎度」
紙袋を受け取ってから、少しだけ自分を見失った気がした。
一枚食べるだけなら一枚でよかった。五枚の方が割安だったから五枚にしたのであって、別に浮かれて余計な買い物をしたわけではない。
たぶん。
一枚取り出して食べてみる。
蜂蜜の甘さに、生地の端へ残った薄い焦げが混じる。さっきの赤椒焼きの辛さがまだ舌に残っていたせいもあって、かなりうまかった。
「明日の分は残しときなよ」
売っていた婆さんが、紙袋を抱えたまま食べている俺へ声を掛ける。
「分かってるよ」
そう返して歩き出した時には、指が二枚目へ伸びていた。
今度の動きに、知らない三年間は何の関係もないと思う。
四十歳にもなって異世界の市場ではしゃいでいるような気がしないでもなかったが、昨日から自分の知らない人生についてばかり考えていたのだ。菓子を一枚余計に食ったところで、誰が困るでもない。
それに、少し楽しかった。
ここへ来てから目に入るものは、ずっと「俺の知らない十年」の証拠だった。変わった町も、俺を知る人間も、協会の記録も、全部が分からないものを増やしていく。
けれど市場に並んでいる知らない物の中には、ただ辛かったり、甘かったり、食い方が分からなかったりするだけのものもある。
知らないことが、全部面倒なわけでも、怖いわけでもないらしい。
そんなことを考えながら歩いていたら、今度は工具屋の前で足が止まった。
食い物に釣られた時とは、止まり方が違った。
軒下の木箱へ大小の金槌や鋏、細い棒状の道具が雑多に放り込まれている。何に使うのか分からない物まで混ざっているのに、視線は値札ではなく、柄と金属の接ぎ目や楔の入り方、木目へ沿った傷の方へ先に動いた。
使えば掌へ当たりそうな出っ張りや、刃の根元に残った削り跡まで勝手に拾っていく。
「兄ちゃん、鍛冶屋か?」
店の奥で金具を磨いていた白髪の男が、布を持ったままこちらを見ていた。
背中の戦鎚ではなく、俺が道具を見る目を見ていたように思う。
「……らしい」
「何だ、その返事」
「ちょっと事情がややこしい」
「そうか」
人の事情より商売を優先するらしい店主へ、旅装の補修に使える丈夫な革紐が欲しいと伝える。
出されたのは、見た目にはほとんど差のない二束だった。
「安い方ならこっち。荷物縛るくらいなら十分だ」
言われた方を手に取った途端、親指が編み目を押した。
柔らかい。
悪い品という感じではないが、強く締めた状態で使うには何となく落ち着かない。
「これ、濡れたあと締めると伸びる?」
店主が少しだけ目を細めた。
「よく分かったな。多少な。荷造りなら問題ないが、金具の補修へ使うなら勧めん」
そこで初めて、指先が嫌がった理由に言葉が付いた。
「じゃあ高い方」
「らしい、で済ます割には見るとこ見てんな」
「俺もそこが困ってんだよ」
高い方を受け取りながら苦笑する。
続けて補修用の金具をいくつか見せてもらった時にも、似たことが起きた。値段の安い方へ手を伸ばしたのに、持ち上げた途端、親指が縁をなぞって棚へ戻そうとする。
店主に違いを尋ねると、そちらは家具の固定用で、身体へ付けて動かす旅装には擦れが出やすいらしい。
「で、結局鍛冶屋なのか?」
「その質問、今日二回目なんだよな」
「一回目誰だよ」
「俺」
「面倒くせえ客だな」
「俺もそう思う」
今度は二人で笑った。
身体が勝手に正解を選ぶ気味の悪さが消えたわけではない。
何がどう違うのかという知識が突然頭へ戻ってくるわけでもなく、触った時には「こっちは違う」としか分からない。それでも店主の説明を聞けば、あとから理由は理解できる。
だったら、その順番でもいいのかもしれない。
知らない自分が残した答えを無条件で信用する必要はないが、役に立つものまで意地になって捨てる理由もない。今の俺が分かる理由を、あとから一つずつ足していけばいい。
* * *
宿へ戻った頃には、買うつもりだった物は一通り揃っていた。
もちろん、買うつもりのなかった蜂蜜菓子もある。
紙袋には三枚残っていた。
五枚買ったはずなのに数が合わない件は、今さら調査するほどの謎ではない。
アルはまだ帰っていなかったので、丸机へ買った物を広げ、腰の工具袋もその横へ置いた。
朝に一度中身を探ってはいるが、改めて旅道具として見れば印象が変わる。
砥石や糸、火打ち石のように用途の分かる物に混じって、細い金属棒や小さな留め具がいくつか入っている。何に使う道具なのかは相変わらず説明できなかった。
細い棒を一つ摘まんでみると、持ち上げた手が自然に位置を変えた。
先端近くをつまむのではなく、掌へ深く収め、必要な長さだけを外へ出す。そう持った方が狭い場所へ力を掛けやすいことは、実際に握ってみれば今の俺にも分かる。
ただ、その握り方をどこで覚えたのかは分からない。
「せめて使い道までセットで残せよ」
自分の手へ文句を言いながら道具を戻す。
買ってきた物を鞄へ収める時には、もう一つ一つ動きを気にするのをやめた。
保存食を背中側へ寄せ、補修用品は途中で取り出せる位置へ置き、金具同士が当たりそうなところだけ布を挟む。水を入れる余地を残して口を閉じ、肩へ掛けてみると、歩いても中身はほとんど動かなかった。
これも、多分何度もやったことがある。
協会で見た三年間は、紙の上では何度か届いた通信と、最後に途絶えた記録にしかならない。
けれど本当に三年を旅したなら、その時間の大半は記録へ残すほどでもない日だったはずだ。朝になれば荷物をまとめ、歩き、飯を食い、壊れた物があれば直し、夜になればまた荷を解く。
そういう一日を何百回も繰り返した結果が、記憶ではなく手癖として残っている。
丸机の上ではなく、壁際へ視線を移した。
戦鎚が立て掛けてある。
硬貨や荷造りなら、身体の方が知っていても困ることは少ない。
こいつは別だった。
持てることは、この世界へ来た直後に分かっている。それでも明日から旅へ持ち出す武器なのだから、実際に振った時にどうなるかは確認しておきたい。
戦鎚を背負い直したところで、廊下から足音が近づいてきた。
扉を開けて入ってきたアルは、まず床へまとめられた鞄を見て、それから俺の背中へ視線を上げた。支度が済んでいることを確認したらしいが、最後に丸机の紙袋を見つけたところで目が止まる。
「準備は終わったようですね」
「大体な。あと、こいつを一回まともに振っておきたい」
肩越しに戦鎚を示すと、アルはすぐ頷いた。
「南門の近くに共同訓練場があります。大型武器を使える区画もありますよ」
「ちょうどいい。そこ行こう」
話が決まったので部屋を出ようとしたが、アルはまだ動かなかった。
視線が紙袋に残っている。
「何?」
「そちらは旅の支度でしょうか」
「保存食」
アルは紙袋の口から見える蜂蜜菓子を一度確かめ、俺へ視線を戻した。
「三枚しかありませんが」
「保存食だからって永久に保存する必要はないだろ」
「購入された時は何枚だったのです?」
「戦鎚振りに行こうぜ」
あからさまに話を終わらせると、アルの口元が静かに緩んだ。
そのまま廊下へ出た俺の後ろから、小さな笑い声が付いてくる。
昨日までなら、知らない三年間について一人で考え込む方へすぐ戻っていた気がする。
今は、菓子を何枚食ったか追及されている方が随分楽だった。
* * *
南門へ近づくにつれて、家並みは低くなり、通りを歩く人より荷車や馬の姿が増えていった。
石畳へ残る鉄輪の傷も深くなり、門の向こうから吹き込む風には、街中では薄かった乾いた土の匂いが混じっている。
共同訓練場は、大門から少し離れた高い板塀の内側にあった。
中では剣や槍を使う者が何人か汗を流し、木製の標的へ武器が当たる乾いた音が途切れず響いている。端の一角だけは周囲から大きく距離を取り、太い木材を何本も束ねた打撃用の標的が置かれていた。
「あそこなら大丈夫そうだな」
「ええ。周囲だけ確認してください」
言いながら、アルの方が先に試打区画の周辺へ目を配っている。
「近くに人いたら振らんよ。俺を何だと思ってんの?」
「現在確認中です」
「俺と同じじゃねえか」
真面目な顔で返されると、否定しづらい。
試打区画へ入り、戦鎚を背中から外した。
今度は、身体が何をするのかを止めずに見るつもりでいた。
鎚頭の重さが肩から離れるのに合わせて左足が自然に前へ出て、腰が僅かに落ちる。腕だけで支えれば持っているだけでも疲れる重さが、脚と背中へ散っていくことで、柄を握る手には必要以上の力が入らない。
初日に持ち上げた時にも、たぶん同じことをしていた。
あの時は、どうしてこんな物を普通に持てるのかという驚きしかなかったが、今なら少し違う。
若い身体だから力がある、だけではない。
四十歳までの俺が同じ鉄塊を持ったとしても、腕と腰で無理に押さえ込めばすぐどこかを痛める。今の身体は最初から、重い武器を止めるより、その重さが動く場所を作る方を選んでいた。
「振るぞ」
アルが十分離れていることを確認し、最初は標的へ当てずに戦鎚を動かした。
踏み込みに合わせて腰を回すと、低く構えていた鎚頭が少し遅れて前へ走り始める。その重さを腕で引っ張るのではなく、脚から伝わった力を柄へ通し、軌道だけを外さないよう手を添えると、戦鎚の方が身体を追い越すように前へ出た。
鎚頭が横を抜けた時、押し出された空気が耳元で低く鳴る。
振り切った勢いにも引きずられない。身体が一歩先へ送られ、その動きの中へ鎚の重さまで収めることで、次へ移れる位置まで無理なく運べている。
肩にも腰にも痛みはない。
もう一度、今度は横から振ってみる。
二度目の方が明らかに滑らかだった。身体の方も一度目で重さの動き方を掴んだのか、踏み込みから振り抜きまで余計な力が入らない。
ただ、振り終えた戦鎚を構え直したところで、柄を握る右手に妙な収まりの悪さが残った。
持てないほど重いわけではない。
鎚頭側へ重さがあるのも、大型の戦鎚なら当然だ。
それでも、いま握っている位置だと、その重さが掌の中へ落ち着かず、ほんの少し手の先へ逃げようとするような癖がある。
何が気になっているのか自分でもまだ言葉にできないまま、三度目は標的へ当てた。
壊すつもりはないので力を抑えたが、それでも束ねられた木材は土台から揺れ、重い打撃音が板塀へぶつかって返ってくる。
柄を通して腕へ戻った衝撃も小さくはない。それでも肘を固めて受ける前に身体が僅かに沈み、腰と肩へ反動を逃がした。
その動きの途中で、掌の中を柄がわずかに滑った。
右手が鎚頭側へ少し寄る。
意識して動かしたわけではない。
それなのに、指が止まった途端、さっきまで手の先へ逃げていた重さが妙に素直に収まった。
「……ん?」
そのまま振らずに戦鎚を構えてみる。
重さそのものは変わらない。けれど、手と腕の一か所だけで鎚頭を引き留めている感じが薄くなり、脚から背中まで使って支えている身体の中へ、戦鎚の重さもきれいに入ってくる。
一度だけ右手を元の位置へ戻してみると、また鎚頭側へ引かれる感覚が強くなった。
もう一度、さっき身体が選んだところへずらす。
やはり、こっちの方が収まりがいい。
それでも、振り出した時に鎚頭がわずかに遅れて付いてくる感覚までは消えていなかった。
「何かありましたか」
離れて見ていたアルが声を掛けてきた。
「重心かな。普通に持つと、ちょっと前が重い」
答えながら柄へ目を落とし、右手を開いた。
「でも振ると、勝手にここへ手が動く。この位置だと収まりがいい」
そこで、今まで見ていなかったものに気付いた。
指が止まった場所だけ、巻かれた黒革が周囲より鈍く光っている。表面の細かな皺は長く擦られて潰れ、親指と人差し指の付け根が当たる辺りには、何度も同じ手が重なったと分かる摩耗が残っていた。
道具を長く使えば、持ち主の癖はこういうところへ出る。
包丁の柄でも金槌でも、同じ場所を何百回、何千回と握れば、木や革の方が先に手の形を覚える。
この戦鎚も同じらしい。
「ここだけ減ってるな」
今度はアルも近くへ来た。
摩耗した革へもう一度手を収めると、やはりその位置が一番自然だった。
アルも柄を覗き込み、周囲とは明らかに違う擦れ方をしばらく見ている。
「かなり長く使われていますね」
「だな。たまたま一回ここ持ったって跡じゃない」
この戦鎚を使っていたのが俺なら、知らない時間のどこかで、何度もこの位置を握っていたことになる。
理由はまだ分からない。
単に使ううちに手の位置が定まっただけかもしれないし、そこへ手を置く必要がある何かが武器の側にあるのかもしれない。
摩耗した革へ指を置いたまま戦鎚を少し持ち上げ、鎚頭側へ目を向ける。
重さの癖を感じた以上、確認するならそちらだ。
戦鎚を地面へ横たえ、鎚頭の根元へ視線を移した。
朝、冒険者協会で製作者印を確認した辺りだ。
あの時は刻印だけしか見ていなかったが、改めて明るい場所で接合部全体を追っていくと、軸と固定金具の間へ、周囲とは僅かに色の違う細い金属の縁が覗いている。
指を当てると薄い板が一枚、固定部へ噛ませてあった。
周囲へ合わせて加工されているので遠目にはほとんど分からないが、鎚頭や固定金具と最初から一体だった部品ではない。板の縁には加工した跡があり、後から形を合わせて隙間へ入れたものだと分かる。
「調整した跡ですか?」
「多分」
薄い板一枚で戦鎚の形が大きく変わるわけではない。
それでも軸と鎚頭の固定位置へ僅かな差を作れば、重さの掛かり方は変えられる。さっき身体が選んだ握り位置で妙に収まりが良くなったことと、この板が関係している可能性はある。
ただし、それ以上はまだ分からない。
板を入れた理由も、いつ入れたのかも、それによって何を狙ったのかも残っている。
工具があれば外すこと自体はできそうだった。
外して振れば、少なくとも何が変わるかは分かるかもしれない。
そこまで考えたところで、手を離した。
「触らないんですか」
「今はやめとく」
意外だったらしく、アルが僅かに目を瞬く。
「マスターなら、その場で分解されるかと思いました」
「お前の中の俺、だいぶ雑じゃない?」
「『面白そうだから行く』と言って未知領域へ向かわれた方ですので」
「……それ出されると弱いな」
俺の知らない俺を相手にすると、反論する材料が少なすぎる。
もう一度、戦鎚を見る。
もし壊れているなら直せばいい。
だが実際にはよく振れるし、身体も今の状態で問題なく扱えている。しかも、手が自然に収まる場所には長く使われた跡があり、鎚頭側の調整板も雑な応急処置には見えない。
理由を知らないだけで、誰かが必要もなく適当に弄ったと決める材料はなかった。
「普通に使えるんだよな。身体もこの状態で扱えてる。だったら今のところ、直す理由がない」
摩耗した革へ手を置くと、指はもう迷わずそこへ収まった。
「何でこうしたのか分かってから考えるよ。分からんまま弄って悪くしたら、ただの改悪だろ」
「その方がよいと思います」
ほとんど間を置かず返されたので、今度は俺がアルを見る。
「お前、止める準備してただろ」
「念のためです」
「信用ねえなあ」
「実績かと」
今日だけで何度目か分からない、知らない自分に足元を掬われたような感覚が来た。
ただ、市場で初めて硬貨を選ばれた時ほど嫌ではなかった。
戦鎚を起こし、背中へ戻す。
何かを思い出したわけではない。
それでも、記憶にないという理由だけで、この身体や道具に残った時間まで全部遠ざけなくてもいい。
少なくとも今日は、そう思えた。
* * *
宿へ戻る頃には、窓から差す光が赤みを帯び、朝から聞こえていた通りの喧騒も少しずつ夕方のものへ変わっていた。
明日の荷物はもうまとまっている。
アルも自分の鞄を床へ置き、必要な物を確認してから口を閉じる。俺の方は戦鎚をいつもの壁際へ立て掛け、昼に詰めた鞄をもう一度肩へ掛けてみた。
重さの偏りもなく、歩けば腰へ自然に収まる。
「これなら、朝には出られそうですね」
「荷物についてはな」
「マスターご本人は?」
「明日起きてみないと分からん」
自分で言ってから、少し笑った。
今日だけでも、財布の使い方から旅道具の選び方まで、知らない俺に先を越され続けている。戦鎚にも、今の身体が長く使ってきたらしい痕跡まで残っていたのだから、自分への信用が多少下がるのも仕方がない。
ただ、朝に市場へ向かった時ほど居心地は悪くなかった。
俺の知らない三年間は、今朝までは協会の紙の向こう側にあった。
今日一日歩いたことで、それがもう少し近いところにも残っていると分かった。硬貨を選ぶ指にも、道具を見る目にも、何度も握った戦鎚の革にもある。
だからといって、その三年を急に自分の記憶として受け入れられるわけではない。
知らないものは、今も知らない。
それでも、使える物をわざわざ捨てる必要まではないだろう。
結局そこへ落ち着く辺り、自分でも随分鍛冶屋らしい考え方だと思う。
鞄を床へ戻した時、丸机の端に置いていた紙袋が目に入った。
昼には三枚残っていた蜂蜜菓子が、一枚になっている。
アルも同じものを見たらしく、静かな視線だけが紙袋からこちらへ動いた。
「保存食でしたよね」
「保存してるだろ。一枚」
「明日の分ですか?」
「そのつもりで買った」
そこまでは間違いない。
市場の婆さんにも残しておけと言われたし、俺自身そうするつもりだった。
ただ、明日の保存食なら他にもある。せっかくなら、固い豆の板よりこっちを先に食いたいという気持ちもある。
そんなことを考えていたせいか、気づけば紙袋から最後の一枚を取り出していた。
アルの視線が、菓子を持つ手までついてくる。
「……食う?」
「私は結構です」
「じゃあ仕方ないな」
蜂蜜菓子を口へ放り込むと、昼間と同じ甘さが広がった。
明日の分へ一枚くらい残しておくつもりだった。
これは普通に俺が悪い。




