第004話 記録の中の俺
目を覚まして最初に探したのは、枕元にあるはずのスマートフォンだった。
当然ない。
手だけが習慣でしばらく布団の脇を探り、そこでようやく昨日から置かれている状況を思い出した。
窓の隙間から差し込む光はもう十分明るく、下の通りからは荷車の車輪と人の声が絶えず上がってくる。時計がなくても朝なのは分かるが、何時なのかまではさっぱり分からない。
四十年も生きてきて、起きる時間を日の高さだけで判断した記憶はほとんどなかった。便利な物というのは、なくなった時になって初めて、自分の生活のどこまで入り込んでいたのか分かるらしい。
上体を起こして首と肩を回す。
昨日は巨大な戦鎚を背負ったまま石畳を歩き回ったのに、腰にも脚にも筋肉痛らしいものはない。寝起きの重さすら、四十歳だった昨日までより軽いくらいだった。
「若いって雑に強いな……」
壁際の戦鎚へ目をやる。
もちろん、若さだけでは説明できない。その重さを身体が知っていることも、俺の手に鍛冶だこがあることも、昨日アルから聞いた三年間も、今の俺には覚えがない。
考える材料は増えたのに、答えは一個も増えていなかった。
昨夜さっさと寝た判断だけは正しかったらしい。睡眠で謎は解けなかったが、少なくとも寝不足の頭で悩むよりはましだ。
着替えらしいものを探しているところで、扉が三度叩かれた。
「起きていますか、マスター」
「今起きた」
枕元に放っていた上着を拾い、袖へ腕を通しながら扉へ向かう。
「では、十五分ほど前から聞こえていた物音は何でしょう」
「起床の準備だよ」
扉を開けると、アルが紙包みと小さな木の器を両手に持っていた。昨日と同じ灰色の外套に、寝癖一つない暗紫色の髪だ。
アルの目が俺の寝起きの顔から、まだ乱れているベッドへ一度移る。
「随分長い準備ですね」
「四十になると朝は起動に時間がかかるんだ」
「今の身体を見る限り、その言い訳は通りにくそうですが」
こっちはまだ顔も洗っていない。再会して二日目にして生活力で負けている。
「朝食です。協会へ行く前に食べてください」
「助かる」
紙包みと器を受け取ると、豆を煮た匂いが鼻へ届いた。
「空腹のマスターは判断が雑になりますので」
「昨日から俺の評価低くない?」
アルは空いた手で扉を閉めながら、何でもないことのように答えた。
「昨日からではありません」
「昔からだった」
包みを開くと、焼いた平たいパンに薄切りの肉、酸味の強そうな果実が入っていた。木の器には豆の煮込みがまだ湯気を残している。
昨日から分からないことだらけだというのに、肉の匂いを嗅げば腹は普通に減った。身体というのは、持ち主の事情をあまり待ってくれない。
椅子へ座ってパンをちぎる俺の横で、アルは壁際の戦鎚や腰から外しておいた工具袋へ目を向けた。
「そういえば、冒険者札はお持ちですか」
「札?」
「身分登録の札です。協会で記録を見るなら、あった方が話は早いでしょう」
言われて、ゲーム画面の端に表示されていた等級をぼんやり思い出す。
「黒曜とか、あれ?」
「それです」
パンを持ったまま自分の服を見る。
「実物あんの?」
アルも同じところへ視線を落とした。何も言わない。
「……俺に聞くなって顔だな」
「ご理解が早くて助かります」
食べかけのパンを皿へ戻し、昨日ろくに確認していなかった荷物をひっくり返した。
工具袋には小さな砥石と細い金属棒、用途の分からない留め具がいくつか入っている。反対側の革袋からは火打ち石と糸、折り畳んだ布、それに硬貨らしい物が数枚出てきた。
どれも俺が用意した覚えはない。それでも、旅先で暮らす人間が持っていそうな物として妙にまとまりがいい。
「生活してんなあ、こいつ」
「誰のお話です?」
留め具を一つ元へ戻しながら答える。
「俺の話らしい」
最後に上着の内側を探ると、指先へ薄く硬い物が触れた。
引き出したのは、手のひらより少し小さな黒い札だった。石とも金属ともつかない表面を朝の光へ傾けると、細かな粒が鈍く浮かび、その中央へ名前と紋章が刻まれている。
朔來。《月灯り》。黒曜。
「普通に持ってたわ」
アルが札と俺の顔を見比べる。
「普通は自分の身分証の場所くらい把握しているものです」
「昨日まで存在自体知らなかった奴に無茶言うな」
掌へ載せると、見た目より少し重い。
俺の記憶にある黒曜という言葉は、ゲーム内で条件を満たした結果付く等級でしかなかった。今は、それを示す札に手触りがある。
昨日の床や戦鎚と同じで、知らない俺がこの世界で生活していたことだけが、やたら物として残っていた。
* * *
朝食を終えて宿を出る頃には、通りを行き交う人間も荷車も増えていた。
冒険者協会リュネール支部は、俺の記憶と同じ区画にあったが、建物そのものは別物に近かった。
昔なら依頼の掲示板と受付があれば用が済んだ場所に、今は石造りの二階建てが立っている。正面には三つの入口があり、荷を運び込む人間、武器を預ける冒険者、書類を抱えた職員が自然に別々の扉へ流れていた。
「でかくなったな」
「登録者が増えましたので。数年前に増築されています」
荷物を積んだ二人組を避けて入口へ寄る。
「俺の知らないうちに公共施設まで育ってる」
「町ですから」
昨日、似たようなことを言われた。
中へ入れば、さらに俺の知っている冒険者協会から遠ざかる。
壁一面の掲示板には依頼票が重なり、受付の一つでは革鎧の男が報酬額について職員と揉めている。反対側では片腕を吊った若い冒険者が、治療費の申請らしい紙と長いこと睨み合っていた。
濡れた外套と金属、紙とインク、それに朝から働いている人間の汗の匂いが混ざっている。
ゲームでは「依頼を受ける場所」だったが、ここでは普通に仕事場だ。怪物を殴る人間が本当に生活しているなら、剣を振るより書類を書いている時間の方が長い日だってあるのだろう。
「夢がないな」
「何か?」
アルが足を止める。
「いや。多分こっちの方が正しいんだろうなって」
空いていた窓口へ並ぶと、アルが昨夜話していた記録の閲覧を申し出た。
「十年前の未知領域進出申請です。申請者は朔來、くるみっくす、アルシェ、夜凪。私は当時の同行者として記録されています」
若い受付係が名簿でアルの名前を確認する。
「古い記録ですので、保管室から取り寄せます。少々お時間を――」
「ついでに、こっちも頼める?」
俺は朝見つけた黒曜札を窓口へ置いた。
受付係の手が途中で止まった。札の中央に刻まれた名前を読み、俺の顔を見る。それからもう一度札へ目を落とした。
「……こちらは、どちらで入手されましたか」
「俺が持ってた」
受付係の眉間に薄く皺が寄る。
「いえ、そうではなく……」
「本人だと言いたいらしいです」
横からアルが余計な補足を入れた。
「らしいじゃなくて本人だよ」
俺が抗議している間にも、受付係は札をどう扱うべきか迷うように指先を止めたままだ。アルがその手元を見て、声だけは真面目に戻す。
「その件も含めて確認をお願いできますか」
「お前ちょっと楽しんでるだろ」
「少しだけ」
あっさり認めたアルを横目で見ているうちに、受付係は完全に困った顔になり、札を持って奥へ引っ込んだ。
代わって出てきたのは、四十代くらいの女だった。
濃紺の上着の袖を肘まで捲り、後ろで束ねた髪にも飾り気はない。札を受け取った右手を見ると、中指と薬指に黒いインクの染みが残っていた。
女は俺たちへ名乗るより先に札の表裏と縁を確かめ、中央の登録番号を手元の帳簿と照らし合わせた。
「札は本物です。登録も残っています」
一枚頁を戻し、指がそこで止まる。
「朔來。黒曜札。《月灯り》所属。七年前から消息不明扱い」
「まあ、そうなるよな」
昨夜アルから聞いた最後の連絡と時期が合う。
女はようやく俺の顔へ目を上げた。
「帰還届を作ることはできます。ただし、札を持っていることと本人であることは別です。確認が済むまでは本人申告の帰還者として扱います」
「そんな普通の手続きがあるんだな」
「失踪者が戻ること自体はあります」
言われてみれば当然だった。俺の戻り方がおかしいだけで、失踪者が帰ってくることまで珍しいわけじゃない。
普通の仕組みが普通に用意されていることに、なぜか少し安心した。
女は帰還届を一枚出し、俺の前へ置いた。
「書けるところだけで構いません」
紙を引き寄せて眺めてみたが、現在の住所以外はまともに答えられない欄が多い。
年齢のところだけは迷わなかった。
「四十」
俺が口にするより半拍早く、横からアルも同じ数字を言ったので、思わずそちらを見る。
「俺が書く前に言うなよ」
「たまには、先を越してみたかったものですから」
記録担当は俺たちのやり取りには触れず、顔だけを改めて確認した。
「四十歳」
「記憶はな」
「外見とは一致しませんので、その旨を注記します」
ペン先が年齢欄の脇を走る。
「俺も昨日からそれ言ってる」
そこから先は、さらに書けなかった。
昨日から泊まっている宿は答えられる。だが、失踪中にどこへいたのかと聞かれても、それを知るために今ここへ来ている。連絡が途絶えた理由も同じだった。
二つ目の空欄で、記録担当のペンが止まる。
「先に過去の記録を確認しましょう。分からないことを想像で埋めても意味がありません」
「話が早くて助かる」
隣で帰還届を見ていたアルも小さく頷いた。
「私も同意見です」
俺たちは受付の脇にある小部屋へ通された。
壁際には背丈ほどの書棚が並び、中央の机には何度も拭かれた跡が残っている。記録担当は椅子へ座るより先に、保管室から運ばれてきた横長の箱を机へ置いた。
「アルシェさんには当時の同行者として閲覧資格があります。そちらは先ほど申し上げた通り、現在は本人申告の帰還者です」
「長いな」
記録担当は箱の紐を解きながら答えた。
「確認が終われば短くなります」
「ごもっとも」
中から出てきたのは、薄い冊子と何枚もの紙だった。端は黄ばみ、何度か開かれた紙には中央へ弱い折り癖が残っている。
昨夜見たアルの手帳とは違う。
これは誰かが覚えておくために書いた物ではなく、この世界が仕事として俺たちを記録した紙だった。
一番上の申請書を開いたところで、四つの名前が目に入った。
朔來。くるみっくす。アルシェ。夜凪。
並びまで、昨日アルから聞いた通りだ。
「覚えはありますか」
記録担当に聞かれ、紙をもう一度見る。
全員知っている。俺自身の名前も、くーちゃんも、アルもナギコも。
なのに、この一枚を前にして思い出す場面が何もなかった。
「これを書いた覚えはない。未知領域へ行ったことも」
「現在のマスターには、その時期の記憶がありません」
アルが補足する。
記録担当の目が俺へ戻ったので、自分でも付け足した。
「正確には、俺の記憶じゃ同じ頃に別の場所へ行ってる」
女は少しだけ眉を寄せたが、それ以上こちらの事情を理解しようとはしなかった。
「意味は分かりませんが、構いません。私は記録と現在の申告が一致するかだけ確認します」
「割り切るなあ」
記録担当は次の紙を取り出す。
「その方が仕事は進みます」
ちょっと好きになりそうな仕事ぶりだった。
申請書の次には、最初の補給地点で作られた記録が綴じられていた。
出発した四人のうち、アルシェと夜凪がそこで帰還し、朔來とくるみっくすは先へ進んでいる。
昨夜アルの手帳で見た話が、今度は別の筆跡と協会印で残っていた。
その紙をめくると、次は何行もの日付が続く。
最初は二十数日後。次は一か月以上空き、その次はもっと早い。中には二か月近く間の空いたところもあった。
間隔はばらばらなのに、受信を示す印だけは三年近く先まで途切れず続いている。
昨夜は「三年間、連絡があった」と聞いた。
こうして紙をめくると、その三年が一つの数字ではなくなる。一枚先にも俺たちがいて、さらに何週間か先にもいる。
俺の知らない俺から、この世界へ何度も連絡が届いていた。
「内容も残ってる?」
「要点だけです」
記録担当が別紙を一枚引き寄せた。
「未知領域からの長距離通信は中継所を通ります。正式な受信については、日時と概要を残す決まりです」
日付の横には短い言葉が並んでいる。
無事の報告。進路の変更。補給は不要。軽い負傷。さらに先へ進むという連絡。
その中に一つだけ、武器の素材について照会した記録が混ざっていた。
「発信者まで分かる?」
記録担当が該当する欄を示すより先に、アルの視線が一行で止まる。
「残っているものは。こちらはマスターですね」
「……そこだけ妙に信用できるな」
アルの口元が僅かに緩む。
「私もです」
「もうちょい疑えよ」
口ではそう返したが、笑いはすぐ消えた。
素材について問い合わせる俺なら想像できる。けれど、想像できることと覚えていることは別だった。
同じ紙には、くーちゃんと行動していることも、軽い怪我をしながら先へ進んだことも残っている。
読めば読むほど「俺ならやりそうだ」と思う部分は増えるのに、肝心の場面だけが一つも戻ってこない。
昔の写真を見て、忘れていた出来事を思い出すのとはまるで違った。
俺の人生らしい記録を、俺だけが初めて読んでいる。
指で日付を追っていた記録担当の手が、最後の頁で止まった。
そこから先には受信の印がない。何度か再送された記録があり、応答なし。帰還も確認されず、最後に朔來とくるみっくすの二名が消息不明として処理されている。
昨夜、アルから聞いた内容と変わらない。
なのに、目の前へ協会印の押された紙が置かれると重さが違った。
アルが十年の間に取り違えたのかもしれない。記憶が混ざったのかもしれない。そんな逃げ道が、紙を一枚めくるたび少しずつ狭くなっていく。
この世界では、俺は確かにくーちゃんと旅へ出た。三年近く先へ進み、その途中で何度も外へ連絡を送り、最後に二人とも消えた。
そして今、俺だけがここにいる。
「証拠が増えたな」
俺が紙から顔を上げると、アルもこちらを見た。
「喜ばしくありませんか」
「普通ならな。今回は証拠が増えるほど分からんことも増える」
記録担当は返却する紙の角を揃えながら、淡々と口を挟んだ。
「珍しい案件です。前例が欲しいくらいには」
「担当したくなかった?」
女は紙束を箱へ戻す手を止めなかった。
「できれば別の窓口へ回したかったですね」
「正直だな、この人」
今度は返事もなく、記録担当の目が壁際へ立て掛けていた戦鎚へ向いた。
「帰還届の確認材料にできます。登録装備も照合しましょう」
ここまで来ると、確認できる物は全部見た方が早い。
戦鎚を机の横まで運ぶと、記録担当は古い登録票を開いた。
全金属製の戦鎚。中核材には黒芯鋼。本人製作。
そこまでは文字だったが、製作者印の位置だけは簡単な図で残されている。
「この辺か」
鎚頭と軸の境目へ巻かれた黒い革を親指で押し、端を少しずらした。
その下にある金属へ、浅い刻みが三本入っている。一本目を長く、二本目を短く、最後だけ斜めに切る。
ここは覚えていた。
ゲームの頃から、俺が自分で作った武器へ入れていた印だ。
知らない十年の中の物ばかり見せられてきたせいか、自分の記憶と現物が初めて同じ場所で重なったことに、少しだけ肩の力が抜けた。
「登録と一致します」
記録担当は図と印を見比べ、帰還届へ一行追加する。
「札と携行装備については確認できました」
「これで俺が俺ってことになる?」
女は登録票を閉じる。
「なりません」
「厳しいな」
「本人しか持ち得ない物を二つ持っている、という確認が増えただけです」
言われて戦鎚へもう一度目を落とす。
「まあ、そりゃそうか」
むしろ、そのくらいで人一人を確定される方が怖い。
正式な登録復帰には、まだ支部内で追加の確認が必要らしい。今すぐ依頼を受ける予定はないと伝えると、記録担当も急ぐ必要はないと言った。
俺が今日ここへ来た目的は、冒険者として復帰することではない。昨夜アルから聞いた話が、この世界の記録にも存在するのか。
その答えなら、もう十分すぎるほど目の前に積まれていた。
アルが必要な記録の写しを頼むと、記録担当は該当部分を書き写し、最後に協会印を押した。
黒曜札も返ってくる。
「帰還確認が終わるまでは、札を使った際に照会が入る場合があります」
「了解」
受け取った札を上着の内側へ戻し、今度は入れた場所を指先で一度確かめてから手を離した。
* * *
協会を出る頃には、朝の冷たさは消えていた。
通りには荷車が増え、店先では昼に向けて野菜や肉を運び込んでいる。俺たちも人の流れを避けて道の端へ寄ったところで、アルから記録の写しを受け取った。
開けば、さっき見た日付と受信記録が同じ順番で並んでいる。
昨日まで俺の中になかった三年間が、薄い紙数枚になって手の中へ収まっていた。
「これで少なくとも、私一人の記憶違いではなくなりましたね」
「最初から疑ってたわけじゃないよ」
写しを折らないよう端を揃えながら返すと、アルは素直に受け取った。
「知っています」
「ただ、記録まで残ってると逃げ道はなくなるな」
アルが紙を鞄へしまう手を止める。
「逃げますか?」
「逃げてもこいつらが付いてくるだろ」
歩きながら右手を開く。
指の付け根には鍛冶だこがある。背中には、登録票と同じ印を持つ戦鎚。上着の内側には七年前から消息不明だった男の黒曜札が入っている。
どれか一つなら偶然で済ませたくなるところだが、もう数が多すぎた。
「それで、次は?」
アルは鞄の留め具を掛け直しながら、通りの西側へ目を向けた。
「私は元々、リュネールを出る予定でした」
「どこ行くつもりだったの?」
「ミュリエです」
地名には覚えがあった。アステリオンにもあった町のはずだが、今のミュリエがどんな町なのかまでは知らない。
「ミュリエに何かあんの?」
人混みを避けるため、アルが一度俺の横へ寄る。
「ゆうさんがいます」
「ゆうさん?」
名前より先に呼び方が耳へ残り、一瞬遅れて二十年前のチャット欄にいた名前が繋がった。
「……ゆうきゅう?」
「はい」
ゆうきゅう。《星の標》の錬金術師。昔から説明が長く、素材を拾わせれば大体ろくでもない物を持って帰ってきた男だ。
「元気なの?」
「花屋をしています」
歩いていた足がほんの少し遅くなる。
「……錬金術師が?」
「花屋です」
聞き間違いではなかったらしい。
俺が知っているのは、素材だの調合だのでやたら長い文章を打っていた男だ。それが今は花屋をやっていると言われても、二十年ぶんの記憶を探して当然答えが出るはずもない。
「生活って変わるもんだな」
「会えば、もう少し驚くと思います」
その言い方と僅かに動いた口元で、嫌な予感がした。
「まだ何かあんの?」
「羊がいます」
「花屋に?」
「ええ。かなり大きな」
「かなりってどのくらいだよ?」
アルは少しだけ間を置いた。
「会えば分かります」
「そういう言い方が一番嫌なんだよ」
今度はちゃんと笑った。
俺が知っているのは二十年前のゆうさんだ。今はミュリエで花屋をやっていて、どうやら普通に「大きい」で済ませていいのか怪しい羊までいるらしい。
昨日から「十年」という数字ばかり聞いていたが、こういう話の方が、その長さを妙に実感させた。
しばらく並んで歩いていると、アルの笑みが自然に消えた。
「もう一つ。ゆうさんから、灰森について連絡が来ています」
「灰森?」
「ミュリエ近郊の森です。最近、季節と合わない植物が増えているそうです」
季節が合わない。
昨夜アルから聞いた未知領域の話が、そこで引っ掛かった。道や距離だけでなく、周囲と季節が噛み合わない場所もあると言っていた。
「……昨日の話と、何か繋がってるのか?」
「似た異常が、境界の近くで確認されることはあります」
「境界って、くーちゃんが調べてたってやつか」
「ええ。ただ、灰森の件が同じものとはまだ分かりません」
アルの足取りは変わらないが、声はさっきまでより落ち着いている。
「でも気になってる」
「ええ」
昨夜聞いた未知領域と、くーちゃんが見つけたという境界の記録。その二つを聞いた翌日に似た言葉が出てくれば気にはなるが、全部同じ原因だと決める材料もない。
道の先を荷車が横切り、俺たちはその場で足を止めた。
「ゆうさんも、こっちでずっと暮らしてるんだよな」
「ええ」
二十年前まで画面越しに話していた相手が、この世界ではその後も暮らし続け、今は花屋をやっている。
そこまで聞けば、顔を見てみたいと思うのに大した理由はいらなかった。
「じゃあ俺も、ミュリエ行くわ」
「そう言われると思っていました」
「いつ出る?」
「早ければ明日の朝です」
荷車が抜けたところでまた歩き出す。背中の戦鎚が保持具の中で一度揺れ、その重さを肩へ返してきた。
「じゃあ今日は、手持ちとできること一回整理しとくか」
「賛成です。特に所持金を」
冗談かと思ってアルを見たが、本人は通りの先を見たまま普通に続けた。
「宿代も食費も必要です」
「急に現実で殴ってくるな」
「現実ですので」
反論できなかった。
昨日は自分が何者なのかを聞き、今日はその記録まで見た。それでも腹は減るし、宿代は掛かるし、明日町を出るなら金も荷物も要る。
だったら、そっちから片付けるしかない。
「とりあえず飯代からだな」
腰の革袋を外から触ると、硬貨同士が小さく鳴った。
「そこへ着地しますか」
「飯食わなきゃ何も始まらんだろ」
アルの視線が一度だけ革袋へ落ち、それから俺の顔へ戻る。
「マスターが現実的で安心しました」
「俺だって四十年生きてんだぞ」
言った直後、今度は上着の内側へ視線を向けられた。何を言われるか分かったので、口を開かれる前に先回りする。
「身分証の話は別件」
アルは一度だけ口を閉じ、それから小さく笑った。その声が、人の増えた朝の通りへ混じった。昨日初めて聞いたばかりの声なのに、もう少しだけ聞き慣れた気がした。




