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第003話 ここじゃない場所

「……マスターも、知らないんですね」


 確認するような声だった。

 アルの視線は俺から外れない。責めているわけでも、疑っているわけでもない。ただ、それまで当然だと思っていた何かを、目の前でひっくり返された顔をしていた。


「ああ。俺の方じゃ、くーちゃんがどうなったのか分からない」


 しばらくして、アルは小さく息を吐いた。


「生きているかは、分かりません」


 それ以上は続かなかった。

 風見花壇を抜ける夕方の風が、さっきまでより冷たく感じる。

 聞きたかった答えではない。けれど、死んだとも言われていない。

 連絡がない。見つからない。確認できない。そういうものが、結論の出ないまま長く残り続けることはある。


「最後に消息が分かってるのは、いつだ?」


 今度は俺から聞いた。

 アルはすぐ答えず、花壇の向こうへ一度視線を逃がした。店じまいをしていた花売りが最後の鉢を木箱へ収め、その横を夕飯時らしい親子が通っていく。昼間の明るさを残していた広場へ、少しずつ夜の色が混じり始めていた。


「ここでは話しにくいです。宿まで歩きながら、話せるところから話します」

「話せないところもあんの?」

「あります」

「即答かよ」

「今のマスターへ、私の推測まで事実のように渡したくありませんので」


 それなら、今ここで全部吐けとは言えなかった。

 アルは嘘をつかない。ただ、分からないことを分からないまま置いておくのも、人へ話す必要がないと判断したことを黙っているのも昔から平気な奴だった。

 二十年前なら面倒に感じていた性格が、今はありがたい。


 俺たちは風見花壇を出た。

 一本南の通りへ入るだけで、周囲の音が変わる。露店の呼び込みは遠くなり、代わりに家の中から食器の触れ合う音や、窓を閉じる木枠の音が聞こえてきた。

 記憶では薬屋だった角の建物には染めた布が何枚も吊られ、二階の窓から顔を出した子供が俺たちへ何か叫んだあと、背後から伸びてきた大人の手にそのまま引っ込められる。

 路地の幅は覚えている。石畳の傾きも、曲がり角から魔導塔が見える角度も大きくは変わっていない。

 その景色の中で生活している人間だけが、全員知らなかった。


「十年か」

「はい」

「町って、十年で結構変わるな」

「変わらない方が困ります」

「俺の知ってるリュネールじゃ、店が入れ替わること自体なかったからな」


 アルがこちらを横目で見た。


「十年経っても?」

「少なくとも、俺の記憶じゃ」


 少し前まで知っていた道を歩くみたいに前を向いていたアルが、ほんのわずかに速度を落とした。


「では、変わらなかったのは町ではなく、マスターの記憶の中のリュネールだけですね」

「……痛いとこ刺すな」


 返すと、アルの口元が少しだけ緩んだ。

 ただ、花壇でくーちゃんの名前を出す前に見たものとは違う。

 笑ったというより、普段の形へ戻そうとしたように見えた。


 宿は北東区の外れに近い、古い三階建ての建物だった。

 扉を開けると、煮込んだ肉と香草、長く使われた木材の匂いが一緒に流れてくる。一階は食堂になっていて、仕事帰りらしい男たちが湯気の立つ皿を囲み、給仕が空いた杯をまとめて運んでいた。

 アルは受付の主人と二言三言話し、壁に並んだ鍵の一つを外してもらう。


「隣、空いてるのか」

「ええ。運が良かったですね」

「十年ぶりに戻ってきて最初の幸運が宿の空室か」

「寝床があるだけ上等です」

「まあ、それはそう」


 二階の突き当たりに用意された部屋は、寝るには十分だが、それ以上ではなかった。ベッドが一つと小さな丸机、椅子が二脚。壁際には水差しがあり、窓からはさっき歩いてきた通りの屋根が何枚も重なって見える。

 背中から戦鎚を外して壁際へ立て掛けると、その重さを受けた床板が低く鳴った。


「気を付けてください、そこは補強されています」

「何で分かる?」

「以前、マスターが同じ宿で床を壊しかけましたので」


 戦鎚から手を離しかけたところで止まった。


「俺が?」

「正確には、戦鎚を倒しました」

「……覚えてねえ」

「でしょうね」


 本来なら笑って済ませる話だった。

 なのに、足元の床へ視線が落ちる。

 知らない俺がこの町で鍛冶をしていた。その程度なら、まだどこか遠い話として聞けた。

 この部屋へ泊まり、同じ床へ戦鎚を置き、宿の人間に補強をさせるような失敗までしていたとなると、急に距離が近い。

 アルも余計なことを言わず、肩から革鞄を下ろし、使い込まれた小さな手帳を取り出す。角は丸く潰れ、革の表面には雨に濡れて乾いた跡が何度も重なっていた。


「何だ、それ」

「旅の手控えです。人、場所、依頼、聞いた話。忘れたくないものは書きます」


 留め具を外すと、細かな文字が頁の端まで埋まっている。


「十年前のことも?」

「全部ではありません。ですが、マスターとくるみさんのことは残しています」


 俺は丸机の前へ座った。

 アルも向かいの椅子へ荷物を置き、手帳だけ持って机の脇へ立つ。何枚か頁をめくったあと、書き込みの多いところで指が止まった。


「《夜航》に人が集まらなくなってから、半年ほど後です。マスターとくるみさんはリュネールを離れました」

「二人で?」

「最初は四人です。私とナギさんもいました」

「ナギコも?」


 アルの視線が手帳から上がった。ほんのわずかに目元が和らぎ、その呼び名を記憶の中で確かめるような間が落ちる。


「その呼び方を聞くのも久しぶりですね」

「本人には嫌がられてたっけ」

「諦められていました」

「じゃあセーフだな」

「その判定基準は昔から理解できません」


 その返しだけなら、二十年前のチャット欄とほとんど変わらない。聞き慣れた調子に、胸の奥がわずかに緩む。

 アルはもう一度頁へ目を戻し、日付の横に書かれた一行を指で辿った。


「四人で向かった先は、未知領域と呼ばれている場所です」

「未知領域?」


 知らない言葉だった。

 なのに、聞いた瞬間だけ胸の奥へ何かが引っ掛かった。


「国や都市の管理が届かず、地図も当てにならない地域の総称です。普通の未開地も含まれますが、奥へ行くほど、今いる場所の常識そのものが通じない地域が増えます」

「常識そのもの?」

「昨日通った道が同じ位置にあるとは限らない。周囲と季節が合わない。歩いた距離と地図上の距離が噛み合わない。そういった場所です」

「随分ふわっとした危険地帯だな」

「ふわっとしているから危険なんです」


 ごもっともだった。


「そんなとこへ何しに行ったんだ、俺ら」

「最初は、くるみさんが見つけた古い記録を確かめるためでした。治癒術と、境界に関係する記述です」

「くーちゃんが?」

「はい。ただ、私もナギさんも内容の全てを理解していたわけではありません」

「俺は?」


 聞くと、アルは一度だけ頁から俺へ目を上げた。


「面白そうだから行く、と」

「……俺だな」

「ええ。非常に」


 そこだけは、記憶がなくても昔と同じだと断言できそうだった。そんなところまで変わっていないのが妙に可笑しくて、口元が緩む。アルはそれを見ても何も言わず、わずかに目元だけを和らげて頁をめくった。


「最初の補給拠点までは四人で進みました。そこで私とナギさんは戻っています」

「何で?」

「私は別の仕事がありました。ナギさんにも戻る理由があった。それに、その先へ進むことを強く望んだのは二人でしたから」

「俺と、くーちゃんが……」

「はい」


 アルの指は頁の端に掛かったまま止まった。俺も、その先を急かす気にはならなかった。

 窓の下を馬車が通り過ぎ、車輪の音が石壁へ反響して遠ざかる。一階の食堂から笑い声が上がり、少し遅れて皿を重ねる音がした。

 ここは昔のゲーム画面に存在した宿ではない。

 それでも、十年前の俺もこうして旅の途中で装備を外し、飯を食い、明日の相談をした夜があったのだろう。

 くーちゃんと一緒に。


「俺の記憶でもさ」


 黙っていたアルが顔を上げる。


「その頃、俺はくーちゃんと別の場所へ移ってる」

「ここではない場所へ?」

「ああ。ただし俺の方じゃ、未知領域なんて名前じゃない。別の……遊び場みたいなもんだ」

「『げーむ』ですか」

「そう。それ」

「マスターとくるみさんが二人で?」

「最初から二人だったかは曖昧だ。でも、くーちゃんとはしばらく一緒にいた」


 あの頃から今までの記憶を辿る。

 アステリオンとは違うタイトル。違う町。違う画面。

 場所が変わっても、くるみっくすはくるみっくすだった。

 俺が先へ行きすぎれば追ってきて、無茶をすれば止める。止めたくせに、最後は自分まで一緒に無茶をする。

 そういうどうでもいい場面はいくつも思い出せる。

 なのに、二人の関係がいつ終わったのかだけは、何度探しても日付が出てこない。

 いつから毎日ではなくなったのか。最後に一緒に何をしたのか。どちらが先に連絡しなくなったのか。

 喧嘩もせず、何かを決めて別れたわけでもない関係には、「ここで終わった」と印を付ける日がない。


「俺の方でも、くーちゃんと二人でここじゃない場所へ行ってた」


 アルは手帳を閉じず、そのまま聞いている。


「そこまでは似てるってことか」

「少なくとも形は」

「形だけ、な」

「はい。中身まで同じだと考える根拠はありません」


 その言い方に少し救われた。

 今ある材料だけで「つまり同じ出来事です」とまとめられたら、たぶん俺は納得するより先に腹を立てていた。

 俺の記憶では別のゲームへ行き、この世界の俺はくーちゃんと未知領域へ進んだ。

 同じなのは、俺とくーちゃんが別の場所へ移ったという形だけだ。


「で、その先は?」


 アルの指が頁の下へ動く。


「最初の補給拠点を出たあとも、二人から連絡は届いていました。ただ、決まった周期ではありません。数週間で来る時もあれば、二か月以上空くこともあります」

「何を送ってきてた?」

「無事だという報告、見つけた場所、必要な物資。たまにマスターから、武器の素材について長い文章が」

「それだけで本人確認できるな」

「私もそう思います」


 一瞬だけ口元を緩めたあと、アルの指がさらに下へ進んだ。

 書き込みの間隔が少しずつ空き、最後の方では頁の余白そのものが広くなっている。


「二人から最後に連絡が届いたのは、およそ七年前です」


 十年前に出発し、最後の連絡が七年前。

 今度は数字を一つずつ並べなくても、その間が三年だと分かる。


「じゃあ俺は、ここを出てから少なくとも三年、くーちゃんと一緒にいたのか」

「私が確認できる範囲では」

「その三年を、俺は何も覚えてない」


 アルは頷きも否定もしなかった。

 できないことを、気休めのためだけに否定する奴ではない。


「その後は?」


 アルの指が手帳から離れた。


「分かりません。それ以降、二人から私たちへ連絡が届いた記録はありません」

「二人とも同じ頃に途絶えた?」

「正確に同じ日だったかまでは。もともと連絡の間隔が不規則でしたから、最後に受け取ったものが本当に最後の発信だったかも分かりません」


 そこでアルは手帳を閉じた。

 革表紙が机へ触れる小さな音が、妙にはっきり残る。

 部屋の外を誰かが歩き、床板を軋ませながら階段の方へ消えていった。

 手帳へ書かれているのは、せいぜい数頁分の記録だ。

 けれど、その短い記録の向こうで、俺とくーちゃんは少なくとも三年を過ごしている。

 その時間を俺は持っていない。

 さらにその先で二人とも消息を絶ち、今は俺だけが戻ってきた。


「アルは探したのか」

「探しました」

「ずっと?」

「いいえ」


 間を置かずに返ってきた。

 アルは閉じた手帳を持ったまま向かいの椅子へ座る。さっきまで俺へ記録を説明していた時より、少しだけ肩が下がった。


「私は旅をしています。仕事もします。食べなければ死にますし、寝なければ倒れます。十年間、二人だけを探して生きていたわけではありません」

「そりゃそうだろ」


 俺が普通に返すと、アルの目が僅かに動いた。


「……そう言っていただけるなら助かります」

「何で?」

「探すことをやめた時期もありました。別の町で半年暮らしたこともあります。演奏の仕事が面白くて、連絡を確認しないまま何週間も過ぎたことも」


 指先が、手帳の潰れた角をゆっくりなぞる。


「そういう時、少し後ろめたくなりました」

「待ってるって言ったから?」


 アルが俺を見る。


「……はい」


 窓の外で魔導灯が一つ灯り、向かいの屋根が淡く照らされた。


「でも、お前の十年だろ」


 アルの指が止まる。


「俺らが帰ってこなかったからって、お前まで十年間そこに立ってる必要はないよ」

「帰ってきた当日に言われると、随分勝手ですね」

「十年遅刻した奴にしか言えない説得力もあるだろ」

「ありません」

「ないか」

「ありません」


 喉の渇きを自覚して、壁際の水差しから杯へ水を注ぐ。口に含むと、冷たくて少し硬い味がした。

 俺の知らない三年だの、十年分の空白だのを聞かされたところで、水は何も変わらず水のままだった。そんな当たり前のことが、今は妙にありがたかった。


「俺の方じゃさ」


 杯を机へ戻した。


「くーちゃんとは、だんだん連絡しなくなった」


 アルは口を挟まず、俺を見る。


「喧嘩したわけでもないし、嫌いになったわけでもない。仕事とか生活とか、そういうのが増えてさ。今日じゃなくてもいい話を明日に回してるうちに、明日が来なくなった」


 言葉にしてしまえば、それだけだった。

 理由としては簡単すぎるくらいなのに、現実の二十年はそうやって過ぎた。


「だから俺の記憶じゃ、くーちゃんは死んでないし、消えてもない。多分今も、どこかで普通に生きてる」

「……そうですか」

「なのにこっちじゃ、俺と未知領域へ行って、三年くらい連絡を寄越して、それから二人ともいなくなった」

「はい」

「同じ二人の話とは思えんな」

「私もです」


 慰めるでもなく、何かの答えへまとめるでもなく返してくれたのがよかった。

 アルはしばらく閉じた手帳へ目を落としていたが、やがてそれを鞄へ戻した。


「明日、確認したいものがあります。冒険者協会に、マスターとくるみさんが未知領域へ入った時の申請と、その後の記録が残っています」

「俺の署名もあるのか」

「あるはずです」


 自分で書いたはずなのに、今の俺には覚えのない署名だ。


「……見るの、嫌だな」

「見ないという選択もできますよ」

「いや、見る」


 そこは迷わなかった。

 分からないものを頭の中だけで膨らませても、ろくな形にはならない。現物が残っているなら、自分の目で確かめた方が早い。


「では、朝に行きましょう」


 当然のように自分も含めた言い方をする。


「お前も来るんだな」

「もちろんです」

「まだ俺が消えると思ってる?」


 アルは少しも迷わず頷いた。


「思っています」

「信用ねえな」

「十年分ですので」


 その返しには、さっきまでの張り詰めたものが少しだけ薄れていた。

 皮肉まで昔と同じなら、悪くない。

 アルは立ち上がり、肩へ革鞄を掛ける。

 扉へ向かって二歩ほど進んだところで、一度振り返った。


「マスター」

「ん?」

「くるみさんが今どこにいるか、私は知りません」

「ああ」

「ですが、探すための痕跡までなくなったわけではありません」


 俺は頷いた。

 見つけるとも、絶対に生きているとも言わなかった。

 今はまだ、そういう言葉を使うには知らないものが多すぎる。


 アルが自分の部屋へ戻り、扉が閉まる。

 一人になった室内で、壁際の戦鎚へ目を向けた。

 俺が覚えていない十年前まで使っていた武器。掌には鍛冶だこが残り、身体はその重さを知っている。

 さらにその先には、俺の頭から丸ごと抜け落ちた三年間がある。

 現実の俺がくーちゃんと別のゲームへ移っていた頃、この世界の俺も、くーちゃんと一緒にここではない場所を歩いていた。

 それが偶然似ているだけなのか、それとも何か意味があるのかは分からない。

 今夜いくら考えても、材料が増えるわけでもない。

 四十歳まで生きた経験上、睡眠不足で急に解ける謎は大体ろくなものではないので、靴を脱いでベッドへ腰を下ろした。


 窓の向こうでは、リュネールの夜が続いている。

 建物も店も、そこで暮らす人間も俺の記憶とは変わっていた。

 それでも、この町は知っている。

 今いちばん知らないのは、その町で十年前まで生きていた俺自身だった。


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