第002話 十年ぶんの呼吸
弦の音は、もう一度だけ鳴った。
最初に聞こえたものより短く、誰かがそこにいることを確かめるような一音だった。花の匂いを追って角を曲がると、石造りの家に挟まれていた道が開け、その先に小さな広場が現れる。
風見花壇。
名前はすぐに出てきたのに、目の前の景色と記憶が重なるまでには少し時間がかかった。
魔導塔から見た位置も、広場へ入る三本の道も覚えている。
ただ、二十年前のスクリーンショットに残っていた花壇は、こんな姿ではなかった。
縁を囲っていた赤茶けた煉瓦は白い石へ替わり、木製だったベンチも背の低い石造りになっている。植えられているのは名前も分からない細長い花で、夕方の風が通るたび、淡い色の花弁が同じ方向へ揺れていた。
昔の形を残したまま、俺の知らないところだけ普通に時間が進んだような場所だった。
その花壇の奥にある白いベンチへ、一人の人物が座っている。
膝の上には細身の弦楽器。暗い紫の短髪は片側だけ長く、前髪が目元へ落ちている。灰色の外套も、楽器へ添えた細い指も、俺の知っている数十ドットの立ち絵より当たり前に情報が多い。
それでも、顔を知っているとは思わなかった。
こいつを知っている、と思った。
ほとんど同時に、弦へ触れていた指が止まった。
相手が顔を上げ、俺も広場へ踏み込む直前で足を止める。脇の通りを荷車が抜けていき、車輪が石畳を噛む音だけが、妙にはっきり耳へ残った。
「……マスター?」
声を聞くのは初めてだった。
それなのに、その呼び方を聞いた瞬間、目の前にいる人物へ別の名前を当てる余地がなくなる。
「アル」
口にした自分の声で、喉が乾いていることに気づいた。
Arshe。《月灯り》の副マスター。俺が面倒になって放り投げた連絡や調整を、気づけばだいたい拾っていた奴だ。
二十年前、俺が知っていたのは画面へ打ち込まれた文字だけだった。現実の顔も、本名も、住んでいる場所も知らない。まして声なんて一度も聞いたことがない。
そのアルが、楽器を抱えてベンチから立ち上がった。
一歩こちらへ踏み出したところで、足が止まる。
普段なら、その慎重さを一言くらいからかったと思う。けれど俺の方も動けていなかったので、今回は人のことを言えない。
知っている顔ではない。知っている声でもない。
なのにアルだと思う。
その事実の方が、この町へ来てから見た知らない景色より、よほど気味が悪かった。
「……本物か?」
口から出してから、自分でも馬鹿な質問だと思った。
アルの眉がほんの少し上がる。
「それはこちらの台詞です」
「ああ、まあ、そうなるか」
「少なくとも、その返しは非常にマスターらしいですね」
穏やかな声で普通に刺してくる。
文章だった頃もだいたいこんな調子だった。丁寧で落ち着いていて、読み終わった頃には何となくこちらが負けている。
それが妙に懐かしくて、肩へ入っていた力が少し抜けた。
アルも同じものを見つけたのか、張り詰めていた口元がわずかに緩む。
「本人確認をしても?」
「どうぞ」
「では――私が《月灯り》へ加わった日の夜、最初に何を言ったか覚えていますか」
「覚えてねえ」
「即答ですね」
「二十年も前だぞ。そんなもん覚えてたら逆に怖いだろ」
返した途端、アルの表情から薄い笑みが消えた。
分かりやすく驚く奴ではない。だからこそ、楽器の縁へ置かれた指へ少し力が入ったのが目についた。
「……二十年?」
「何だよ」
「今、二十年と仰いましたか」
「言った。正確な日付までは怪しいけど、それくらい前だ」
アルは俺を見たまま何か言いかけ、結局それを飲み込んだ。
「……分かりました。続けます」
どう考えても分かっていない言い方だったが、本人確認を始めたのは向こうだ。俺もひとまず黙って続きを待つ。
アルは楽器を肩へ掛け直すと、今度は俺をゆっくり観察した。顔から服装へ視線が下り、腰に提げた工具を拾い、背中の戦鎚で一度止まる。そこからさらに下りた目が、最後に俺の右手へ向いた。
「手を」
「ん?」
「右手です。見せてください」
差し出すと、アルは俺の手首を取って掌を返した。
指先が冷たい。
チャット欄には当然、相手の体温なんてなかった。今さらそんな当たり前のことを実感しただけなのに、二十年前の文字列が突然人間の形を持ったようで落ち着かない。
アルの親指が、俺の指の付け根を順になぞる。
「……鍛冶だこがあります」
「らしいな」
「らしい?」
「俺の記憶じゃ、鍛冶なんてゲーム画面でボタン押してただけだよ。こんな手になるようなことはしてない」
手首を持つ指が止まった。
「げーむ?」
通じなかった。
しまった、と思ったものの、何を失敗したのか自分でもよく分からない。この世界が何なのかすら分かっていない段階で、使う言葉だけ器用に合わせられるはずもなかった。
「俺がいた場所での話だ。ここじゃない方」
「……なるほど」
「今ので分かったのか?」
「いいえ」
「だよな」
「ですが、分からないものを分かった顔で聞くよりは、その方がよろしいかと」
「そういうところは昔から変わらんな」
「マスターも」
返事をしながらも、アルは俺の手を離さなかった。
今度は指先を手首へ当てている。脈を取っているらしいが、本人確認としてどこまで必要なのかは分からない。
文句を言おうとして、やめた。
俺の手首へ触れている指が、ほんのわずかに震えている。
顔を見直しても、表情はほとんど変わっていなかった。声だって最初から落ち着いている。俺の脈を確かめる指だけが、その声とはまるで違うものを伝えていた。
こいつ、緊張してるのか。
「アル」
「はい」
「そんなに掴まなくても、いなくならねえよ」
震えが止まった。
アルがゆっくり顔を上げる。
「……そういう意味で掴んでいるわけではありません」
「じゃあ離せよ」
「脈を見ています」
「もう十分だろ」
「少し速いですね」
「誰のせいだと思ってんだ」
そこでようやく手が離れた。
アルは何か言い返す代わりに視線を落とし、細く息を吐いた。それだけでは足りなかったらしく、今度は長く吸って、ゆっくり吐く。もう一度同じように呼吸してから、ずれてもいない楽器の肩紐を指で直した。
俺がここへ来てから何分経ったのかは分からない。
アルの方は、もっと長い間まともに息をしていなかったように見えた。
「……お帰りなさい、マスター」
今度の声には、皮肉がなかった。
返事が喉まで来て、止まる。
帰ってきたと言われても、俺には帰った実感なんてない。一時間ほど前まで自宅の床へ座って焼きおにぎりを食い、その前には普通に仕事をしていた。明日だって出勤するつもりだった。
リュネールへ戻る準備なんて一秒もしていない。
けれど、どうやらアルにとっては違うらしい。目の前にいる相手は、昨日別れた人間へ向けるような顔をしていなかった。
「……どれくらいだ」
「はい?」
「俺がいなくなってから。どれくらい経ってる」
アルの表情が静かになった。
広場の向こうでは花売りが店じまいを始め、鉢を一つずつ木箱へ収めている。花壇の縁を走っていた子供が母親に捕まり、文句を言いながら通りの方へ連れていかれた。
俺たちが立ち止まっている間にも、この町の夕方だけは何事もなく進んでいる。
「十年です」
一度、意味を取り損ねた。
「何年?」
「十年」
「……十?」
「細かく言えば、十年と少しです」
「増やすな」
反射で返したものの、頭は笑いについてこなかった。
俺の記憶では二十年近い時間が過ぎている。俺自身は四十歳まで生きた。なのに今の身体はどう見ても二十代半ばで、目の前のアルは俺がいなくなってから十年だと言っている。
数字を並べても、一つの時間にならない。
「待て。俺の方じゃ――」
そこで言葉が詰まった。
どこから話せばいい。
俺にとってアステリオンはゲームだった。十五の頃から遊び始め、《夜航》が散った後もしばらくくーちゃんとは別のゲームで一緒に遊んだ。そのうち生活の方が忙しくなり、連絡する間隔が延びて、最後がどこだったのかも思い出せないまま二十年近く経った。
その二十年を、ゲームという言葉すら知らないらしい相手へどう渡せばいいのか分からない。
「マスター?」
「俺は四十歳だ」
ひとまず、一番分かりやすそうなところから出した。
アルが黙り、俺の顔を改めて見る。目が胸元まで下り、もう一度顔へ戻ってきた。
「……見えませんが」
「俺もそう思う」
「二十五歳前後に見えます」
「鏡で確認した。腹も引っ込んでた」
「それは何よりです」
「そこ喜ぶ話じゃねえだろ」
小さく笑ったアルだったが、その表情はすぐ元へ戻った。
「つまり、記憶は四十歳まである、という意味ですね」
「ああ。ただ、こっちのことは二十年くらい前の……」
また言葉を探す。
ゲーム。画面。ログアウト。
俺には説明する必要すらなかった単語が、この相手の前では一つずつ引っ掛かる。
「とにかく、俺の中じゃここを離れてから二十年近く経ってる。さっきまで、この町が本当にあるとも思ってなかった」
アルの目が僅かに細くなった。
「こちらでは十年です」
「それは今聞いた」
「いいえ。そうではなく」
アルは俺から視線を外し、夕方の風に揺れる花壇へ向けた。
「マスターは、十年前までここにいました」
今度は言葉の意味を取り損ねたわけではない。
意味が分かったから、返せなかった。
「……俺が?」
「はい。リュネールにもいました。《月灯り》にもいました。私たちと話して、食事をして、戦っていました」
「いや、待て。俺の記憶じゃ――」
否定しようとして、右手が目に入った。
アルが触れていた指の付け根には、俺が作った覚えのない鍛冶だこがある。背中では、自宅なら持ち上げる以前に扱い方すら知らないはずの戦鎚が、歩いてきた時からほとんど邪魔になっていない。
ここまで来る途中もそうだった。
頭では変わっていると思った道を、脚は何度も正しい方へ選んだ。
俺が知らないだけで、この身体には知っていることがある。
戦鎚の重さも、町の道も、鍛冶をしてきた手の使い方も。
その全部を、目の前のアルの「十年前までここにいた」という言葉へ重ねると、さっきまで別々に気味が悪かったものが一つの方向を向いた。
「……そういうことかよ」
口にしたところで、何が起きたのかまで分かったわけじゃない。
ただ、この身体は昔のゲームキャラクターの姿を再現しただけの物ではない。
俺が覚えていない時間を、こいつはここで生きた。
そう考えた瞬間、背中へ冷たいものが走った。
「マスター」
「ん?」
「今日は、そこまでにしましょう」
「無理だろ……」
「無理でもです」
「十年分の知らん話ぶら下げられて、はい寝ますってなるか?」
「二十年分の知らない話を今聞かされた側もおりますので」
「……ああ。それ言われると弱いな」
俺が黙ると、アルはほんの少し首を傾けた。
「それに、記憶の確認は慎重にした方がよさそうです」
「何で?」
「一つ、試しても?」
「まだ本人確認あんのかよ」
「別件です」
嫌な予感がした。
こういう時のアルは昔からろくでもない。本人は大真面目な顔をしているから余計に質が悪い。
「私が女だとお伝えしたことは、覚えていますか」
「……は?」
予想していた方向と違いすぎて、まともな声が出なかった。
アルは俺の反応を見ても驚かず、小さく頷く。
「やはり」
「待て。今なんつった?」
「私は女です。私たちが最後に別れる前にも、一度お伝えしました」
「初耳だぞ」
「二度目です」
反射的に顔を見る。
暗紫色の短髪。細身の身体。昔のキャラクターも中性的な見た目ではあったが、俺は普通に男だと思っていた。
だからといって、今さら目の前の外見をじろじろ確認するのも違う気がして視線を戻す。
「他の連中は?」
「知りません。少なくとも、私から伝えたのはマスターだけです」
「何で俺だけなんだよ」
「前回も同じことを聞かれました」
「俺、何て返された?」
「説明しました」
「じゃあ何で覚えてねえんだよ」
「それを今、私も考えています」
平然と返されると、笑えばいいのか怖がればいいのか分からなくなる。
「ちなみに、前回の俺はちゃんと理解した?」
「いいえ」
「じゃあ記憶関係なく俺が悪い可能性あるな」
「非常に高いですね」
「そこは否定しろ」
「事実と仮説は分けるべきかと」
「お前、十年経って性格悪くなってねえ?」
「十年前からです」
たぶん、そうだった。
怖い話をしているはずなのに、気づけば肩へ入っていた力が抜けている。
俺には知らない十年がある。アルが女だったことさえ、その時間のどこかで一度聞いて、丸ごと忘れているらしい。
それだけ考えれば気味の悪い材料しかない。
なのに、丁寧な言葉で平然と人を刺してくるアルとこうしてやり合っている間だけは、二十年前のチャット欄と今の広場が不思議なくらい自然に繋がった。
あの頃は文字でしか知らなかった相手が、今は目の前で息をしている。
さっき手首へ触れていた指の震えまで含めて。
それを意識したところで、ようやく自分の呼吸も少し深くなった。
アルは楽器の位置を直し、広場の出口へ身体を向ける。
「宿を取っています。まず移動しましょう」
「お前、ここに住んでんじゃないの?」
「今は旅が多いので。リュネールへ戻った時だけ同じ宿を使っています」
「そういや昔から、じっとしてるタイプじゃなかったな」
「十年あれば、さらに落ち着きがなくなります」
「自分で言うのか」
アルの後を追って歩き出す。
一歩進んだところで、ずっと聞かずにいた名前が喉へ引っ掛かった。
忘れていたわけではない。
むしろ逆だ。
この町へ来る直前まで画面で見ていたからこそ、アルを見つけた瞬間から頭のどこかにはあった。
ただ、答えを聞くのが怖くて後ろへ回していた。
「アル」
呼ぶと、少し先へ出ていたアルが振り返った。
「くーちゃんは?」
さっきまで残っていた笑みが消えた。
ほんの一瞬前まで十年前と今を行き来していた顔から、冗談に使えるものだけがきれいに抜け落ちる。
答えは返ってこない。
それでも、その沈黙が向いている先は、くるみの行方ではなかった。
問いを投げた、俺のほうだった。




