第001話 削除できないフォルダ
古いデスクトップPCは、電源を入れるたびに「まだ使うのか」と文句を言うようになった。
低く唸るファンの音に、数秒おきで乾いた擦過音が混じる。ローテーブルの端に置いた麦茶の表面が、そのたびにわずかに震えた。機械は言葉を喋らないが、壊れる寸前の機械ほど態度に出るものもない。
四十歳にもなると、そういう兆候には妙に敏感になる。
家電も、身体も、人間関係も、昨日まで普通に動いていたものが、ある日きっぱり止まる。止まったあとで考えてみれば前兆はいくつもあったのに、動いているうちは面倒で見ないふりをする。
このPCについて言えば、見ないふりをして三年目だった。
「さすがに今回は、お前が死ぬ前にやるぞ」
床に胡坐をかき、新しく買ったノートPCとの間にケーブルを這わせる。仕事なら期限の一週間前に終わらせるくせに、自分のデータとなると壊れる直前まで放置する。この辺は十五の頃から大して進歩していない。
移行ソフトに古いドライブを丸ごと指定すると、画面の中央で青い棒が伸び始めた。
残り時間、五時間四十七分。
「……長ぇな」
声に出したところで速くなるはずもない。
電子レンジが鳴ったので、台所から冷凍の焼きおにぎりを持ってきた。二個入りを買ったはずなのに一個しか残っていない。昨日の俺が食ったのだろうが、その昨日の俺にまるで心当たりがない。
最近はこういうことが増えた。
物忘れというほど大層な話ではない。平日の輪郭が薄いだけだ。朝起きて、働いて、帰って、飯を食って寝る。同じ手順を何度も繰り返していると、昨日の火曜日と先週の火曜日が同じ棚へ突っ込まれる。
別に不幸ではない。
ただ、何かを待っていた記憶が、ずいぶん長いことない。
焼きおにぎりを齧りながら、移行対象の一覧を眺めた。写真、仕事の古い資料、今では開けないソフトの設定ファイル、何のために保存したか分からない圧縮ファイル。PCを替えるたびに引き継いできた、消しても困らないものが二十年分きっちり残っている。
人間、捨てる判断より残す判断の方が雑らしい。
その中に、妙に容量の大きなフォルダが一つあった。
名前は《AO_SS》。
「……AO?」
意味を思い出すより先に、指がダブルクリックしていた。
最初に開いた画像は、夜の街だった。
石造りの通り。青白い魔導灯。画面下には今見ると笑えるほど大きなショートカット欄が並び、右端のチャット窓を半透明にする設定まで、そのまま残っている。
そこに映っていた自分のキャラクターを見て、焼きおにぎりを持つ手が止まった。
黒っぽい髪に、やたら重そうな戦鎚。
名前は朔來。
「……ああ」
記憶は、思い出そうとすると出てこないくせに、勝手に開く時だけ速い。
アステリオン・オンライン。
俺が十五歳の頃、学校から帰るなりPCを起動していた古いMMORPGだ。
ログイン画面の音楽。パッチが長い日の苛立ち。人の多い街で露店を出すとフレームレートが落ちたこと。回線が不安定な夜に限って難しい場所へ行きたがる馬鹿がいたこと。
その馬鹿の筆頭が、だいたい俺だった。
画像を送る。
朔來が鍛冶場の前で、完成したばかりの戦鎚を掲げている。
次の画像では、その戦鎚が何か巨大な獣の額へめり込んでいた。さらに次では朔來本人が壁へめり込んでいる。
「順当だな」
昔の自分へ、四十歳の俺は妥当な評価を下した。
チャット欄には、当時の連中の文字が残っていた。
『Kuro:サク、それ新作?』
『朔來:昨日できた』
『バルトグレイン:ヘイヘイ 、昨日できた割に既に傷だらけじゃねーか』
『Arshe:マスターの場合、完成と破壊は同じ工程なのでしょう』
『夜凪:壊れる前に倒せば問題ねーっすよ』
『朔來:ナギコは話が分かる』
『Kuro:そこ二人を同意させたらまずい気がするんだけどなぁ?』
思わず鼻で笑った。
文章だけで、誰が打ったか分かる。
声は知らない。本名も知らない。住んでいた県すら知らない奴がいた。
それでも、文字の間だけは知っていた。
Kuroは打つのが速くて、会話が止まりそうになるとすぐ別の話題を投げた。アルは丁寧な文章で平然と人を刺した。ナギコは速度の話になると長かった。ばるおは誤字なのか仕様なのか最後まで分からない半角文字を使い続けた。
そして、くーちゃんは俺が無茶をすると、少しだけ返信が遅くなった。
次の画像で、その名前が出てきた。
『くるみっくす:さっくん』
『朔來:ん』
『くるみっくす:さっくん、めっ』
「……何したんだ、俺」
画像の奥では、ボス部屋の床が半分ほど燃えていた。
「だいたい分かったわ」
焼きおにぎりの残りを口へ放り込み、次へ送る。
当時のスクリーンショットは、驚くほどどうでもいい場面ばかりだった。
攻略に成功した瞬間より、待ち時間に並んで座っている画像の方が多い。誰かが離席している間に装備を脱いで囲んだり、露店看板でしりとりをしたり、用もないのに同じ場所へ集まっていたりする。
若い頃の俺は、こういうものを何千枚も保存していた。
四十になった俺は、先月の旅行写真すら十枚撮っていない。
何がそんなに楽しかったのかと考えて、すぐにやめた。
特別な場面だから残したわけじゃない。
次の日も同じ連中がいると思っていたから、残すものを選ぶ必要がなかったのだ。
画面の中で、季節イベントの花びらが舞っている。
場所はリュネールの北東区。町の機能から少し外れた、小さな花壇の前だった。攻略へ出る前も、終わったあとも、特に何もすることがない時も、なぜか皆そこへ戻ってきた。
風見花壇。
名前まで思い出した瞬間、胸の奥で何かが小さく引っ掛かった。
ベンチに朔來とくーちゃんが座っている。少し離れたところでKuroが立ち、アルは楽器を構え演奏し、ナギコは勢い余って花壇に突き刺さっている。ばるおは画面の端で金勘定をしていた。
その一枚だけなら、何でもない画像だった。
問題は、チャット欄だった。
『Kuro:今日は終わるべ。明日もここ集合な』
『Arshe:では、私は先に失礼します。おやすみなさい』
『夜凪:明日こそ神速の向こう側に行ってみせるっすよ』
『バルトグレイン:勝手ニイッテコイ』
『くるみっくす:さっくんも寝るんだよ?』
『朔來:分かった分かった。また明日な』
右手がマウスの上で止まっていた。
悲しい文章ではない。
誰も別れを惜しんでいないし、誰も何かを誓っていない。明日も会うのだから、今夜の会話を丁寧に終わらせる必要すらなかった。
たぶん、だから残った。
「……これ、いつだ」
画像のプロパティを開いた。
二十年前の日付だった。
その頃には《夜航》はもう以前ほど集まらなくなっていたはずだ。誰が先だったかは覚えていない。仕事、進学、別のゲーム、家庭、単純な飽き。理由はいくつもあったし、どれも人が消えるには十分だった。
俺もその一人だ。
くーちゃんとは、その後もしばらく一緒にいた。別のゲームにも行った。連絡だって取っていた。
なのに最後がどこだったのか、思い出せない。
画面の中の昔の俺は、そんな未来を知らない顔で「また明日な」と打っている。
「気楽でいいな、お前」
悪口のつもりで言ったのに、少し羨ましかった。
時計を見ると、日付が変わる少し前だった。
データ移行は三十一パーセント。
古いPCのファンは相変わらず苦しそうに回っている。俺はマウスから手を離し、背中をソファへ預けた。画像を閉じる気にはなれず、かといって続きを見るほど元気でもない。
画面の中では、風見花壇の花びらが止まったまま空に浮いていた。
静止画なのだから当然だ。
それなのに、しばらく見ていると、葉の擦れる音が聞こえた気がした。
古いPCのファンだろうと思った。
次は、水の音がした。
どこかで流しを閉め忘れたかと台所を見る。蛇口は閉まっている。冷蔵庫の低い駆動音の向こうから、一定の間隔で水が跳ねる音が続いていた。
噴水。
そう考えた瞬間、今度は鉄を叩く音がした。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
高く澄んだ、金属の音。
鍛冶場の音だ、と俺は思った。
なぜ分かるのかを考える前に、瞼が重くなった。
疲れていたのだろう。
最後に見えたのは、進捗三十二パーセントの青い棒と、二十年前の花壇だった。
* * *
最初に戻ってきたのは、痛みだった。
左の頬が硬いものへ押しつけられている。次に肩、膝、指先。身体の各所から順番に「床で寝る年齢じゃない」と抗議が届いた。
「……最悪だな」
目を開ける。
床ではなかった。
目の前に、細かな砂の入り込んだ石畳がある。
しばらく動かなかった。
寝ぼけて起き上がるとろくなことにならない。四十年も生きていれば、転んだ直後に勢いで立つより、どこが痛いか確認してから動いた方がいいくらいは学習する。
指を握る。開く。手首を回す。肘、肩。脚にも力は入る。吐き気はない。視界も二重になっていない。
そこまで確認してから、ようやく上体を起こした。
知らないはずの景色が、知っている形で広がっていた。
夕暮れの石造りの町。屋根の向こうへ伸びる細い煙。荷車の車輪が石を噛む音。少し離れた屋台から、焼いた肉と香草の匂いが流れてくる。通りの端では子供が木の輪を転がして走り、その後ろを母親らしい女が何か怒鳴りながら追っていた。
画面ではない。
まず匂いが多すぎる。
次に音が近すぎる。
そして、石畳が普通に痛い。
「……リュネール」
口から出た名前に、自分で黙った。
知っている。
俺はこの町を知っている。
けれど、俺の知っているリュネールに、洗濯物の石鹸臭さも、馬とも鹿ともつかない獣の糞の匂いもなかった。
視界の隅を探す。
体力表示はない。技能欄も、チャット窓も、マウスカーソルもない。
「ログアウト」
小声で言ってみるが、何も起きなかった。
通りすがりの男がこちらを見たので、それ以上はやめた。四十歳にもなって往来で「メニュー」「ステータス」と連呼するところまで落ちたくはない。
立ち上がろうとして、背中に重さが掛かった。
反射的に左脚が半歩引く。
腰が落ち、肩が重みの下へ入る。
考えるより前に身体が、背負った何かの重心を処理していた。
「……は?」
振り返る。
黒い金属の柄が肩越しに伸びている。
手を回して握ると、掌へ馴染んだ。
あり得ない。
画面の中で何千回も振った武器でも、現実の俺が握ったことは一度もない。
なのに指は、どこへ掛ければ一番抜きやすいか知っている。
肩も、腰も、その重さを知っていた。
ゆっくりと戦鎚を背から外す。
全金属製の巨大な頭部が夕日を鈍く返した。普通なら腕だけで持ち上げようとした時点で腰をやる重さに見える。それを俺の身体は、脚から腰、背中へ荷重を逃がしながら、当たり前のように構えてしまった。
「いやいやいや」
声まで若い。
近くの店先に、磨いた金属板が立て掛けてあった。
映った顔を見て、今度こそ言葉が止まる。
皺がない。
頬も落ちていない。髪も、白いものが混じる前の色をしている。
十五歳ではない。
だが、四十歳の俺でもない。
画面越しに、ずっと昔まで見慣れていた顔が、そこにあった。
朔來。
そう認識した途端、背中を冷たいものが這った。
夢なら、出来が良すぎる。
ゲームなら、雑すぎる。UIくらい出せ。
現実だとしたら――考える材料が足りなさすぎた。
考えても分からないものは後回しだ。今分かることから確かめる。
俺は戦鎚を背負い直した。
町の形は記憶と少し違う。建物が増え、看板も知らないものがある。それでも遠くに立つ魔導塔の位置は変わっていない。
あれを基準にすれば、自分の場所は割り出せる。
そして、この町で一つだけ、真っ先に確認したい場所があった。
北東区。
風見花壇。
もし本当にここがリュネールなら、あそこへ行けばいい。
理由は、自分でもよく分からなかった。
仲間がいると思ったわけじゃない。二十年も前のゲームだ。さっきまで画面にいた連中が、都合よくベンチへ座っていると期待するほど若くもない。
ただ、あの場所が存在するかどうかだけは見たかった。
歩き出そうと石畳を踏む一歩目で、歩幅に違和感があった。
身体が軽い。
二歩目で、背中の戦鎚がほとんど揺れないことに気づいた。
三歩目には、俺はもう考えずに角を曲がっていた。
頭では、ひどく久しぶりの町のはずなのに、脚は昨日もここを歩いたみたいに道を選ぶ。
そのことが、リュネールの景色より少しだけ怖かった。
知らない店を二軒通り過ぎ、昔はなかった細い水路を跨ぐ。道そのものは変わっているのに、身体は何度も迷いかけては別の道へ修正した。
やがて、風が花の匂いを運んできた。
俺は足を止めた。
その匂いの向こうから、弦を爪弾く音が一つだけ聞こえた。
古いPCのスピーカーからは、絶対に聞いたことのない音だった。




