第010話 入口のない森
朝の灰森は、昨夜あれだけ警戒したのが馬鹿らしくなるほど普通の顔をしていた。
灰白色の幹には朝日が差し、濃い葉の間では鳥が鳴いている。湿った土には小動物の足跡が横切り、奥から流れてくる風にも昨日と同じ土と葉の匂いしかない。知らずに通り掛かったなら、採取地として人が出入りする森だと言われて、そのまま納得していたと思う。
休憩所の前では、協会の人間が広げた地図を囲んで今日の捜索範囲を分けていた。俺たちは昨日と同じ三人と一匹で、行方の分からなくなった採取人たちが最後に通った主要採取路へ入る。
地図脇の紙には、灰森へ長く通うセドと、彼から採取場所を教わっていた若い姉弟、ミナとトルの名が並んでいる。ゆうさんの言う通り、三人とも森には慣れていた。
「三人が最後に目撃されたのは、この道へ入るところだったんだよな」
地図へ指を置くと、ゆうさんがその先を目で追った。
「ええ。この道なら、いつもは二時間ほどで分岐に着きます。その先でどちらへ行ったかは分かりませんが、まずはそこまで辿りましょう」
昨日は別の班も途中まで入ったものの、帰りに予定していたものとは違う目印へ出たらしい。夕方で方角を取り違えた可能性も残っているとはいえ、今から同じ森へ入る側としては聞かなかったことにはできない。
昨日の話を聞いた以上、帰り道を目印一つに頼る気にはならなかった。
俺は休憩所の壁際へ腰を下ろし、協会から借りた鉄の小杭を膝の上へ一本ずつ並べた。安物の鉄へ鑢を当て、頭に斜めの刻みを増やしていく。一本目には一本、二本目には二本。
打つ位置と傾きまで決めておけば、戻った時に別の杭と見間違えたり、誰かに抜いて差し直されたりしても多少は分かる。
向かいでは、ゆうさんが小瓶から琥珀色の樹脂を細い棒へ絡めていた。木へ付ければ色が残り、近寄れば甘苦い匂いでも確かめられる。
アルは銀糸を短く切り分け、結ぶ高さと形を変えて順番を見分けられるようにしていた。
色だけでなく、匂いや結び方でも確かめられる。一つがなくなっていても、残り二つを探せばいい。
三人揃って「そんな気がした」で迷子になるよりは、よほどましだった。
「もう一つありますよ」
銀糸を束ねたアルの視線が、休憩所の横へ向いた。
わたあめは朝から人間が地図を囲んでいることに興味もなさそうに、道端の草を噛んでいる。
「測定器が朝飯食ってるぞ」
「家に帰る時だけは、方角にうるさいですよ」
ゆうさんが真面目に答えたところで、当の羊が草を噛んだまま一度だけ鼻を鳴らした。昨日も着いた直後にミュリエの方を確かめていたので、少なくとも俺より帰宅意識は高い。
森へ入る前に、入口の標柱へ目を留める。
腰ほどの高さの灰色の木柱には協会の印が焼かれ、その上へ赤い布が巻かれていた。布の端は小さく裂け、誰かが黒い糸で雑に縫っている。
右側の留め金も少し曲がっていて、その下の木には打ち直した傷が残っていた。
新しく何かを足すより、こういう元からある傷の方が動かしにくい。
標柱から数歩入った道端へ一本目の杭を打ち、頭を森の奥へ少し傾ける。ゆうさんは近くの幹へ樹脂を薄く塗り、アルは俺の肩より少し高い枝へ銀糸を結んだ。
「帰ってきて、柱もこいつらも同じなら、少なくともここまでは信用できるな」
「なくなっていても、まず周りを見てくださいね。人や動物が触ることもありますから」
「分かってる。杭が消えただけで森が鉄食ったとか騒がないよ」
「わたあめにも、よく言っておきます」
「鉄食うの?」
「杭を蹴らないように、ですよ」
わたあめは名前を呼ばれても顔を上げず、草を噛み続けていた。
* * *
森へ入ってしばらくは、警戒している方が間抜けに思えるほど何も起こらなかった。
踏み固められた採取路は灰色の根を避けながら奥へ続き、木々の間隔も広い。葉の隙間から朝日が斑に落ちているので、昨夕に外から眺めた時より中の方が明るく感じるくらいだった。
ゆうさんは道端の植物へ目をやりながら歩いていたが、昨日ほど足を止めない。
「外から見てた時の方が、よっぽど怪しかったな」
「季節外れの植物は、外縁の方でよく見かけましたね。でも、奥の方が安全かどうかは、別ですよ」
「原因が外にあるってわけでもないか」
ゆうさんがわずかに笑った。
「ええ。そこは、まだ分かりません」
昨日の枝も道迷いも、境界痕のせいだと思えば話は早い。くーちゃんのことまで結び付けたくなるが、その思い込みで探す場所を外すわけにはいかない。
一時間ほど歩いて水を飲むために足を止めた頃には、刻みを四本入れた杭まで使い終えていた。
アルが水筒をしまう前に楽器を取り出し、弦を軽く鳴らす。澄んだ音は正面へ抜け、木立の左右から弱く返ってきた。
「今のところ、見えている地形と大きな食い違いはありません」
「正常ってことでいい?」
「見えている地形と、音は合っているというだけです」
「二人とも、そこはきっちりしてるな」
隣で聞いていたゆうさんが笑った。
「間違った道を案内するよりは、いいでしょう」
わたあめはその横で、草の根に付いた土まで噛んでいた。
休憩を切り上げてさらに進むと、採取路が二つに分かれた。
右は緩やかな上り坂、左は細い小川に沿って木々の間へと続いている。中央の古い案内杭は雨風で文字が薄れていたが、薬草の採取区画を示す印だけは右へ向いていた。
地図でその区画を確かめ、まずは右を試すことにした。
分岐の脇には、根元が二股に割れ、片側の樹皮だけ大きく剥がれた木が立っていた。
目立つ傷を使わない手はないので、アルが剥げた樹皮の上へ五本目の銀糸を結び、ゆうさんは反対側へ樹脂を塗る。俺は五本の斜線を入れた杭を二股の根から靴一足分ほど離して打ち、頭を右の道へ傾け、そのまま上り坂へ入る。
傾斜は緩いが、歩くほど足元は確実に高くなる。何度か振り返れば分岐の辺りは少しずつ低くなり、木々の右から差す陽も大きく位置を変えていない。途中で道が曲がっても、元いた場所へ大きく回り込んでいる感覚はなかった。
だから二十分ほどして前を歩いていたアルが足を止めた時、最初は何を見ているのか分からなかった。
その肩越しに、根元が二股に割れた木が見えた。
「……これ、さっきのだよな」
剥がれた樹皮の形まで同じだ。
右の上り坂を進んだはずなのに、俺たちは同じ分岐の手前へ戻ってきている。
アルが枝を見上げた。
「私の糸がありません」
そこだけなら、人か動物が触った可能性で済ませられる。
ゆうさんが幹の反対側へ回ると、琥珀色の樹脂は残っていた。細い棒の先で表面を確かめ、鼻を近づける。
「匂いも同じです。僕が塗った樹脂だと思います。まだ乾いてもいませんね」
俺の杭は、打ったはずの場所から消えていた。
二股の根から右へ靴一足分。土を指で掻くと、すぐ下で爪が硬いものへ当たる。
浅く埋まっていた杭を引き抜けば、頭には五本の斜線が残っている。
「俺のだな」
刻みより先に、表面の色へ目が止まった。
森へ入る前には明るい鉄色だったはずの杭へ、薄い赤茶色が広がっている。土を払い、爪で錆を削れば、その下からすぐ生の鉄が出た。芯まで傷んでいるわけではない。それでも、朝借りたばかりの鉄が、土へ打ってから一時間も経たずにこんな色になる理由は思いつかない。
ゆうさんへ渡すと、布で軽く拭っていた指が途中で止まる。
「湿気だけで、ここまで錆びるとは思えません。何か付いたのかもしれませんし……ただ、これだけで時間が余計に経ったとは言えませんね」
「まあ、そうなるよな」
分岐へ戻るまで二十分ほど。その間に糸はなくなり、杭は錆び、樹脂だけが新しいまま残っている。
理由は分からないが、自分で刻んだ杭まで出てきた以上、似た木を見間違えただけではなさそうだった。
俺は右の上り坂と、まだ入っていない小川沿いの道を見比べた。
セドたちを追うなら奥へ進みたい。だが、帰り道の方が壊れているかもしれない状態で先へ突っ込むのは、調査というより賭けだ。
「一回、入口まで戻ろう。セドたちを探すのはそのあとだ。助けに来た側まで帰れなくなったら、手間を増やすだけだ」
アルはすぐ来た道へ向き直り、ゆうさんも錆びた杭を布へ包んだ。
「そうしましょう。途中の印も確かめながら」
それで普通に入口まで戻れるなら、一番ありがたい。
* * *
引き返してからの道は、拍子抜けするほど素直だった。
四つ目から二つ目までの印は、どれも朝のまま残っていた。銀糸も樹脂も動いておらず、杭にもさっきのような錆はない。
さっきの分岐だけが、同じ森の中から切り離されているように見える。
手前の印を拾いながら戻り、一つ目へ着くはずの距離が近づいた頃、道の左手に赤いものが見えた。
灰白色の幹の間から覗いているのは、朝、森と外の境に立っていた標柱と同じ高さの赤い布だ。
見つけたと思って足を向けかけたところで、アルの腕が前を塞ぐ。
「マスター。先に向こうを」
足を止め、標柱の先を見る。
朝までそこにあった休憩所も、水桶も、街道もなかった。
代わりに灰白色の幹が何列も重なり、低木がその隙間を埋めている。建物の屋根はどこにも見えず、人の通る道へ広がっていく気配すらない。
森の入口へ戻ったはずなのに、柱の向こう側まで森が続いていた。
「……中にも同じ柱がある、とか?」
口にしてみたが、自分でも期待はしていなかった。
三人で周囲を確かめてから標柱へ近づく。
赤い布の端には朝見た裂け目があり、黒い糸で雑に縫われている。右側の留め金も同じように曲がり、その下の木には打ち直した傷が残っていた。
根元には、最初に打った杭まである。一本の刻みを入れ、頭を森の奥へ向けて少し傾けたまま、位置も深さも変わっていない。ゆうさんの樹脂は近くの幹に残り、アルの銀糸も頭上の枝で揺れていた。
朝、三人で別々に残したものが、全部ここにある。
「別の柱って言い張る方が難しいな」
俺が曲がった留め金へ指を当てると、ゆうさんは森になっている向こう側を見たまま頷いた。
「朝、印を付けた柱だと思います。樹脂も、同じところに残っていますから」
柱も印も朝のままなのに、その向こうにあった休憩所も街道も見えない。
アルが少し離れて楽器を構えた。低い音が幹の間へ広がり、正面から思ったより早く返ってくる。音を変えてもう一度鳴らすと、今度は右だけでなく、俺たちの背後からも弱い返りがあった。
「見えている木の位置とも一致しません。それに、外があるなら聞こえるはずの開け方が、どの方向にもありません」
朝まで休憩所があった場所は、音の上でも森になっている。
その時、わたあめが低く鼻を鳴らした。
標柱の横へ出た白い巨体は、採取路ではなく木立の奥へ鼻先を向けている。太い幹と低木が重なり、人間ならわざわざ入ろうと思わない場所だ。
ゆうさんが羊の前へ回り、その向きを確かめた。
「家の方を向いているのかもしれません」
「道じゃないけど?」
「昨日も、ミュリエの方を見ていましたから。道がなくても、帰りたい方角は分かるのかもしれませんね」
わたあめの鼻先を追っても、木々が重なって見えるだけだった。
俺は戦鎚を地面へ下ろし、標柱の脇へ腰を落ろす。
曲がった留め金へもう一度目をやった。ここへ戻れたのに、なぜ外へ出られないのか。
「柱が同じなのは、もういいとして。何が変わったかは別か」
ゆうさんも、標柱の向こうの木立を見ていた。
「まだ、何が変わったのか分かりません。杭の錆も、今は別に考えた方がよさそうです」
「とにかく、今は出られないってことだな」
アルは地図を開き、入口を示す印へ筆先を置いた。ところが線を足さず、そのまま手が止まる。
「書けない?」
「柱の位置としてなら記録できます。ただ、ここを地図の入口と同じ場所として扱っていいかは分かりません」
地図の上では、柱のすぐ向こうに街道がある。アルの筆先がそこを避けて止まっているのを見て、背中が冷えた。
「わたあめの向いてる方へ、道無視して抜けるのは?」
「藪へ入るのは、今はやめておきませんか」
ゆうさんは密生した低木へ視線を移した。
「家の方角だとしても、真っ直ぐ出られるかは分かりません。戻れる道まで見失ったら、セドさんたちも捜せなくなります」
食料も水も残っていて、日はまだ高い。別の捜索班も森へ入っている以上、帰り道が消えたからといって、今すぐ藪へ突っ込むほど切羽詰まってはいない。
「じゃあ、ここを基準にするか。入口だった柱って呼ぶの、だいぶ気持ち悪いけど」
「ええ。ここに印を足しておきましょう」
アルは朝の銀糸を残したまま、別の高さへ新しい糸を結んだ。ゆうさんも古い樹脂の横へ少し間を空けて二つ目を塗る。
俺は標柱の反対側へ六本目の杭を打ち、頭へ六本の斜線を入れた。
次に戻れた時、一本目と六本目が両方あるか。それくらいは、この森にも答えてもらいたい。
立ち上がってわたあめを見ると、まだ同じ木立へ鼻先を向けていた。その先に帰る場所があるのかもしれないが、今そこへ突っ込んでも、セドたち三人へ近づけるとは限らない。
セドたちも、出口へ戻ろうとしてこうなったのだろうか。
「この道から、もう少し探そう。何か見つけても、追い過ぎないようにな」
アルが新しく結んだ糸から手を離した。
「珍しく、私から申し上げることがありません」
「褒めてる?」
「ええ。今の判断には」
「限定付きかよ」
アルの口元が僅かに緩んだ。
俺たちは再び主要採取路へ向かった。
背後には、赤い布を巻いた標柱が残っている。
朝なら、その向こうには休憩所と街道があり、辿ればミュリエへ帰れたはずだった。
ほんの数時間しか経っていないのに、今は灰白色の木々が立ち並び、帰るための入口だけが外へ繋がっていない。




