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第011話 三本の斜線

 入口だった標柱を離れる前に、アルが旅の手控えとは別の紙を取り出した。

 アルは入口の異変と、俺たちが未帰還の三人を捜して採取路へ戻ることを書き留めた。朝の印と標柱は揃っているが、休憩所と街道が見当たらない、と。

 最後に人数を付け足す。


「三名、一匹、と」

「わたあめも入るんだな」

「置いていくわけにはいきませんからね」


 横から答えたゆうさんの向こうで、わたあめは木の根元へ首を伸ばしていた。人間が立ち止まれば、その間に草を食べている。

 あれくらい平然としていてくれる方が、今はありがたい。

 アルが紙を標柱の赤い布の内側へ留めるのを待ち、俺たちは再び採取路へ戻った。


 さっきの分岐で上り坂へ入れば、また同じ場所へ戻されるかもしれないが、それを確かめるのはあとでいい。今はセドたちの痕跡を追う方が先だった。

 分岐へ戻る途中の印は、朝と同じ場所にあった。枝で揺れる銀糸を見つけるたび、少しほっとする。

 二股の木へ着くと、ゆうさんの樹脂は幹に残り、アルの銀糸だけが消えたままだった。

 俺は一度だけ右の上り坂を見る。


「もう一回行ったら、またここへ戻ると思う?」

「どうでしょうね。でも、今は三人を捜す方を先にしたいです」

「だな」


 俺たちは小川へ向かって左へ折れた。

 小川沿いの採取路は右の坂より細く、木の根を避けながら水際へ沿うように続いていた。澄んだ流れは俺たちとは逆、森の外側へ向かっており、底へ沈んだ丸い小石まで見える。

 普段ならこの下流は別の沢と合流し、そのまま南側へ抜けるらしい。


「入口が駄目なら、この川を下れば外へ出られそうな気もするけどな」

「普段なら出られますよ。ただ、入口がああなっているので、この川も同じところへ流れているかどうか」

「そこはやっぱり保留か」

「ええ。川だけは大丈夫だと、言えればいいんですけど」


 水面を見たまま、ゆうさんが続ける。


「それでも、水の流れは見ておきましょう。道だけより、変化には気付きやすいですから」


 俺も岸の形へ目をやった。道がまた変わるなら、川が曲がる場所も覚えておきたい。

 アルも時折足を緩めて弦を鳴らしていた。今のところ反響は見えている木立へ素直に返り、小川も普通に低い方へ流れている。

 入口が消えた直後とは思えないほど、その先の森はまともだった。

 まともに見える、という言い方しかできなくなった辺りが面倒ではある。

 わたあめは道端に食えそうな草を見つけるたび、首を伸ばしていた。あいつまで落ち着きをなくすよりは、よほどいい。


 小川沿いをしばらく進んだところで、ゆうさんが足を止めた。

 いつものように植物でも見つけたのかと思ったが、視線は道端の岩へ落ちている。

 人の頭より少し大きな平たい岩が半分ほど土へ埋もれ、その表面へ三本の斜線が深く刻まれていた。自然に割れたなら傷の幅も向きも揃わないはずだが、三本ともほぼ同じ角度で走り、削れた溝の底にはまだ白っぽい石の粉が残っている。

 ゆうさんが岩の前へしゃがんだ。


「採取人が使う警告です。この先は危ないから戻れ、って意味ですね」

「新しい?」

「そう古くはなさそうです」


 傷へは触れず、溝へ入り込んだ泥や苔を見ている。


「セドたちは、この印を知ってる?」


 ゆうさんが岩から俺へ目を上げた。


「ええ。セドさんも使いますし、ミナさんとトルさんにも教えていたはずです」


 セドたちが刻んだのだろうか。三本の斜線は、俺たちが歩いてきた側からよく見える面にあった。


「……ここから引き返した跡はないのか」


 ゆうさんは立ち上がり、岩の先へ目を凝らした。さっきまでのように、道端の植物を見ることもない。

 俺たちも岩の周囲へ視線を散らした。

 採取路には古い足跡がいくつも重なっている。その中から一つずつ人を見分けるのは無理でも、雨のあとに付いたらしい比較的新しい跡ならいくつか拾えた。岩を越えた先では、そのうちの一つが妙に深く沈み、そこから土を横へ擦ったまま採取路の外へ逸れている。

 同じ方向へ低い枝が押し曲げられ、一つは途中から折れていた。

 アルが低木の隙間へ二歩ほど入り、足元から茶色い編み紐を拾う。


「これも関係があるかもしれません」


 片方の端が毛羽立ち、刃物で切ったというより、何かへ引っ掛けたまま強く引かれて千切れた形だった。

 ゆうさんが受け取る。


「採取籠の紐ですね。よく見かけるものなので、これだけでは誰のものか分かりませんけど」


 深い足跡と折れた枝の先へ、この紐が落ちていた。俺たちは同じ方向をもう少し探す。

 さらに数歩先では草が広く押し倒され、その葉へ赤黒い染みが付いていた。

 ゆうさんが細い棒で染みの端を取り、鼻先へ寄せる。近くの葉へ散った小さな点まで確かめてから、静かに口を開いた。


「……血のようです」


 声から、それまで残っていた柔らかさが消えた。


「量は多くありませんね。乾き具合からすると、三人が森へ入った頃のものでも、おかしくありません」


 血は、道を外れた足跡の先に付いていた。その向こうにも、押し分けられた枝が続いている。


「怪我して、道を外れたのか」


 俺が低木の奥を見ると、アルはすぐには頷かなかった。


「怪我をしたから道を外れたとは限りません。何かを避けた結果かもしれませんし、この森では当時この道が今と同じ形だったとも言い切れません」

「最後ので一気に面倒になるな」

「残念ながら、入口が消える森ですので」

「そうだったな」


 入口のことを忘れたわけではないが、今は葉に残った血が気になった。

 地図を開いても、小川沿いの採取路からここへ分かれる道は描かれていない。森の形そのものを信用できない以上、紙の線へ戻るより、実際に残っている人の動きを追う方がまだましだった。

 ゆうさんは折れた枝の向こうを見てから、地図を畳んだ。


「僕は、この先を追いたいです」

「俺も。そのために来たんだしな」


 アルも異論はなかったが、すぐには灌木へ入らず銀糸を取り出した。


「では、ここを分岐として残します。戻る時に、同じ場所へ出られたか確認できるようにしましょう」


 岩の近くと、採取路を外れる位置。その二か所へ二人が印を残す間に、俺は七本目と八本目の鉄杭を打つ。

 五本目が短時間で錆びたこともあるので、今度は頭の片面を鑢で平らに落としておく。表面の色だけ変えられても、形まで同じにするのは少し面倒になる。


「また削っているんですか」

「森が一個ややこしくするたび、こっちも一個増やしてんだよ」

「それで、見分けやすくなるんですね」

「それもある。何かやってないと落ち着かなくてさ」


 鑢を工具袋へ戻し、杭の頭をもう一度見た。

 採取路を外れると、歩く速度は目に見えて落ちた。

 誰かが通ったらしい隙間は残っているものの、低木の枝が肩や鞄へ引っ掛かり、草の下には根と石が隠れている。痕跡を追うために入ったのに、自分たちで枝を折り、土を踏み荒らしてしまえば、どこからが元の跡なのか分からなくなる。

 俺たち三人が足元の跡と折れた枝を拾いながら慎重に進む横で、わたあめだけは太い身体で枝を押し分けていた。


「こいつ連れてきて正解だったかもしれんな」

「ええ。頼りになるでしょう」


 ゆうさんがわたあめを見たので、俺は押し倒された枝の方を指した。


「捜索能力じゃなくて、今のところ開拓能力の話だけど」

「……そこは、少し加減してほしいんですけどね」


 当の本人は振り返りもせず、次の枝を肩で押し退けている。

 ただ、先頭へ出せば役に立つどころか追っている痕跡ごと地形を作り替えかねないので、そこから先はゆうさんの後ろへ回された。


 血は少量のまま、途切れながら奥へ続いていた。葉の端へ付き、少し先では土へ一滴落ち、見失ったと思ったところでまた別の枝へ残っている。

 柔らかい土へ出れば、大きさの違う靴跡も重なった。

 はっきり分かるのは二人分だった。三人目の跡も重なっているのかもしれないが、そこまでは読めない。

 血の量は増えていない。靴跡も複数ある。怪我をした誰かを置いていったわけではなさそうだった。


 さらに奥へ進んだところで、密集していた低木が急に途切れた。

 周囲より少し低くなった窪地の中央へ、灰白色の太い木が一本立っている。その根元に横倒しになった何かが見え、視界の端では一瞬、人が倒れているように見えた。

 足へ力が入り、二歩目を出しかけたところで、編み籠の輪郭が見えた。

 俺は足を止め、戦鎚の保持帯の金具へ掛けた手を緩めた。

 俺たちは窪地へ入る前に周囲を確かめた。木立の奥に動くものはなく、獣が潜んでいる様子もない。俺が先に数歩進み、死角になっていた木の裏まで見てから二人も続く。

 籠は横倒しになり、片方の肩紐が根元から千切れていた。

 さっきアルが拾った編み紐と同じ色だった。

 中身の大半はなく、底には乾いた葉と、小さな採取用の刃物、それから布に包まれた何かが残っている。

 俺が刃物へ目を向けた時、隣にいたゆうさんの足が止まった。


「知ってる?」

「……セドさんの刃物です」


 ゆうさんは籠の前へしゃがむ。

 木製の柄は長く使われて角が丸くなり、中央へ巻かれた細い金属板も端が少し不揃いだった。出来合いの道具へ最初から付いていた補強ではなく、使う人間が自分の手で足した物に見える。


「この柄、何度か修理の相談を受けたんです。金属板も、セドさんが自分で巻いたものですよ」

「新しいの買わなかったの?」

「勧めたんですけどね。手に馴染んでいるから、これでいいと」


 ゆうさんの指が柄へ触れる少し手前で止まった。

 ほんの少しだけ、いつもの穏やかな顔が困ったように緩む。


「こういうところは、頑固な人ですから」


 小さく息を吐き、その手を膝へ戻した。

 俺も、使い慣れた道具を買い替えたくない気持ちは分かる。

 その刃物を置いていったのだ。籠の底へ残った柄を、もう一度見た。


「じゃあ、セドはここまで来てる」

「ええ。この籠ごと、持って来たんだと思います」


 籠の周囲にも血の跡はあったが、地面へ倒れ込んだような量ではない。靴跡もここで途切れず、窪地の奥へ向かっている。

 俺は窪地の奥へ続く靴跡を目で追った。


「マスター。ゆうさん。こちらへ」


 先を見ていたアルに呼ばれた。

 木立の端まで行くと、そこには細い道が続いていた。

 さっきまで血を拾ってきた、灌木を押し分けた隙間とは違う。

 土は人が通れる幅で踏み固められ、両端の草も何度も擦られたように外へ倒れている。低い枝には一度や二度では付かない擦れが残っていた。

 ゆうさんが地図を開く。

 窪地ごと載っていなかった。


「セドたちしか知らない道って可能性は?」

「僕の知らない道があっても、おかしくはないんですが……」


 ゆうさんは地図から足元へ目を移した。

 踏み固められた土、外へ寄った草、低い枝の擦れ方を順に確かめ、首を横へ振る。


「ずっと使われていた道ですね。何人かが一度通っただけでは、ここまで踏み固まりません」


 俺も靴の先で土を押したが、ほとんど崩れなかった。さっきまで追っていた、草を踏み倒した跡とは違う。

 それなのに地図にはなく、何度も灰森へ来ているゆうさんも知らない。


 朝の杭は、短い間に錆びていた。この道の古さも、そのまま信じていいものか。

 アルが道の入口で弦を一度鳴らした。

 澄んだ音は細道の奥へ真っ直ぐ抜け、木々の間から少し遅れて弱く返ってくる。


「少なくとも、すぐ先で行き止まってはいません」


 その足元には、新しい靴跡が複数残っていた。

 途切れかけた血も、同じ方向へ続いている。


「行こう」


 戦鎚の保持具へ手を掛けてから、俺は木の根元の籠を振り返った。


「ただ、ここにも印を残す。籠も刃物もそのまま。戻った時に同じ場所へ出られたか確認できるようにしよう」


 アルが銀糸を二本並べ、ゆうさんは樹脂を縦長に引く。

 俺は九本目の杭を籠の脇へ打った。

 作業が終わる頃、わたあめが細道の入口へ鼻を向けた。

 帰る方角を見ていた時のように遠くへ鼻先を上げるのではなく、地面へ近づけ、何度か同じ場所の匂いを取っている。


「何か追えそう?」


 ゆうさんが少し様子を見る。


「人の匂いか、籠に入っていた植物か……そこまでは分かりません。ただ、先へ行くのを嫌がってはいないみたいです」

「それで十分」


 わたあめが大きく鼻を鳴らした。

 細道へ入る前に、俺は一度だけ後ろを振り返る。

 灰白色の木の根元に、籠と刃物が残っている。その脇の杭と二本の銀糸を目に留めてから、前へ向き直った。

 新しい靴跡と、途切れかけた血は細道の奥へ続いていた。

 俺たちは横倒しの籠を背後へ残し、地図の外へ続く道へ入った。


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