第012話 二晩を知らない
地図にない細道へ入ってみると、昨日今日できた抜け道ではないと、長く歩かなくても分かった。
土は人ひとりが通れる幅で固く踏まれ、肩や頭へ当たりそうな高さの枝だけが何度も払われている。
古い切り口には樹皮が回り込んでいる一方、そのすぐ隣では細い枝が最近落とされ、白い断面がまだ乾き切っていなかった。
「前からあった道を、最近も誰かが使ってるってこと?」
俺が新旧の切り口を見比べると、ゆうさんは古い方へ指を添えた。
「そうでしょうね。こちらの切り口は何年か経っていますが、隣のはまだ新しいです」
「なら、道が古いこと自体はおかしくないか」
「ええ。僕が知らなかっただけかもしれません」
最後だけ少し困ったように笑い、ゆうさんは先へ目を戻した。
地元の採取人だけが使う道なのだろうか。ゆうさんも、灰森のすべてを歩いたわけではない。
今は道の来歴より、セドたちだ。新しい足跡は途切れず、時々草に血が付いていた。
俺たちは自分たちの目印を残しながら、その痕跡を追った。
柔らかい地面へ出れば大きさの違う靴跡が重なり、土が固くなれば、代わりに折れた草や低い枝へ付いた血を拾う。痕跡はところどころ薄くなったものの完全には切れず、今のところは同じ方向へ続いていた。
しばらく進んだところで、ゆうさんが道端へしゃがんだ。
同じ場所だけ土が何度も踏まれて崩れ、その脇の枝には青灰色の布が細く引っ掛かっている。布の端には乾いた血が付き、足元へ目を移せば片膝を落としたような窪みもあった。
「ここで、しばらく止まったようですね」
ゆうさんは布へ触れず、その周囲へ重なった足跡を見た。
「誰かを座らせて、手当てしたのかもしれません。布も、急いで裂いたような端になっています」
「一人で歩いてたわけじゃなさそうだな」
「ええ。足跡も重なっていますから」
細道はやがて緩く下り始め、頭上で枝葉が重なるにつれて空が見えにくくなる。時折アルが鳴らす音も、今のところは目に見える木々の間へ素直に抜け、入口付近のように地形と反響が食い違う様子はなかった。
静かな道を歩いていると、入口へ戻れないことを忘れそうになる。俺は足元の跡を確かめ直した。
やがて前方の木々が開き、細道は小さな空地へ出た。
中央には三つの石を組んだ焚き火跡があり、周囲の草も何人かが座ったように寝ている。灰は完全に冷え切っていたが、食べ物を包んだらしい葉や小さな木の器がそのまま残り、空地の手前まで続いていた血だけが焚き火の近くで一度途切れていた。
周囲へ人や獣の気配がないことを確かめてから、ゆうさんが灰の前へしゃがむ。
細い棒で表面を崩し、燃え残りを見たあと、その脇へ落ちていた焦げた細棒へ目を留めた。先には植物の繊維が巻かれている。
「ミナさんの火口棒に、よく似ていますね」
「分かるの?」
「この繊維の巻き方を覚えています。似たものはあるでしょうけど、セドさんの籠から血を追って来た先ですから」
ゆうさんの視線が焚き火跡から空地の反対側へ移った。
そちらでは低い草が人の幅だけ倒れ、そのまま木々の間へ続いている。焚き火の周りへ荷物を広げて長く留まった様子もなく、血もここで増えた形跡はなかった。
「休んでから、また歩いたようです。この先にも草を踏んだ跡があります」
倒れて動けなくなったわけではなさそうだった。息を一つ吐き、焚き火跡の向こうを見る。
俺たちは空地にも三種類の印を残し、その先へ入った。
そこからは、さっきまでの古道すら消えた。
倒れた草や折れた枝を拾い、血が見えなくなれば、最後に確かだった場所を基準に周囲を見直す。真っ直ぐ進むだけならもっと速いが、道そのものが信用できない森では、一つ痕跡を見落として戻ったところで、同じ形で残っている保証もない。
急いで一つ見落とすくらいなら、その都度立ち止まる方がましだった。
最後に確認した血痕から少し進み、倒れた草の向きを拾い直していたところで、アルが不意に顔を上げた。
「少し待ってください。今、人の声がしませんでしたか」
その言葉で全員が足を止めると、それまで歩くために意識の外へ追いやっていた音が一度に戻ってきた。頭上では葉が擦れ、少し離れた木で鳥が鳴き、足元の乾いた葉の下では小さなものが動いている。
その中へ耳を澄ませたまま待っていると、木々の向こうから掠れた音がもう一度届いた。
今度は俺にも、鳥や獣の鳴き声とは違うと分かった。
「正面より少し右ですね」
アルが声のした方へ目を向ける横で、ゆうさんも足元を確かめる。
「足跡も、そちらへ向かっています」
俺たちはまだこちらから声を掛けず、木々を挟んだまま距離を詰めた。
声だけでは、誰がいるかまでは分からない。アルが示した右側を見ながら、周りの木立にも目を配った。
木々の間を右へ回り込もうとしたところで、それまでゆうさんの横を歩いていたわたあめが半歩だけ前へ出た。
走り出すでも、低く鳴くでもない。太い肩をゆうさんの前へ差し込むようにして立ち、その先から視線を外さなくなった。
ゆうさんも無理に追い越そうとはせず、白い首越しに木々の奥を見る。
「何か気になるようです。足元にも気を付けてください」
俺は背中の戦鎚へ手を掛け、アルもすぐに音を出せる位置まで楽器を上げる。
見える範囲に獣の姿はなかったが、さらに右へ二、三歩ずれて斜面の奥まで視界を通したところで、大きな倒木の根元から人間の脚が一本伸びているのが見えた。
駆け寄りかけた身体を、そこで止める。
倒れた人のそばに獣でもいたら、三人揃って駆け寄るわけにはいかない。
アルが短く弦を鳴らす間に、俺は斜面の横へ数歩回って倒木の裏まで視界へ入れた。
根元にいる人影以外、周囲に動くものは見えない。
「俺が先に行く。二人はそこで待ってて」
「ええ。すぐに手当てできるよう、ここで待っています」
戦鎚を抜く必要まではなさそうなので背中へ残し、足元の土を崩さないよう斜面を下りた。
倒木の根元には若い男が一人、背中を太い根へ預けて座っていた。片脚を投げ出すように伸ばし、膝から下へは青灰色の布が何重にも巻かれている。水筒と採取袋を手元へ置きながら、右手だけは短い鉈を離していなかった。
こちらの足音へ反応して顔が上がり、少し青ざめた頬の上で目だけが俺の動きを追う。意識はしっかりしているらしく、知らない俺の顔から背中の戦鎚へ視線を移したところで、鉈を握る手に力が入った。
「冒険者協会の捜索だ。ミュリエから来た。怪我してるなら、そのままでいい」
男はまだ鉈を下ろさず、俺の肩越しに後ろを確かめようとした。
その視線がゆうさんへ止まる。
「……ゆうさん?」
掠れた声と一緒に、それまで持ち上がっていた肩が目に見えて落ちた。
ゆうさんも斜面を下りてきた。
「トルさん……!」
ゆうさんはトルの顔を確かめてから、その足元へしゃがんだ。
「よかった。脚を見せてもらえますか」
そこでトルはようやく鉈を地面へ置いた。
俺も少し肩の力が抜けた。やっと、一人見つかった。
俺とアルは傷の周りには寄らず、周囲を見渡せる位置に残った。
ゆうさんは巻かれた布をいきなり外さず、まず足先の色と腫れを見て、痛みや痺れがどこまであるかを聞いた。それから結び目を緩め、乾いて張り付いた布を傷から少しずつ剥がしていく。
「怪我をしたのは、いつ頃ですか。どうやって傷めたかも、覚えていれば教えてください」
「昼前くらいだと思う。道がおかしくなって、姉ちゃんたちと戻ろうとして……斜面で滑った。枝抜いたら血が出たから、姉ちゃんが巻いてくれた」
トルの説明を聞きながら傷を確かめたゆうさんは、出血が続いていないことを見てから新しい布を用意した。
「深い傷ですが、血は止まっていますよ。布の当て方もよかったです。ミナさんが、ちゃんと手当てしてくれたんですね」
その言葉を聞いて、トルが長く息を吐いた。
「そのあと歩けなくなってさ。セドさんと姉ちゃんが、人呼びに戻ったんだ。まだそんな経ってないと思うけど……二人には会わなかった?」
「まだ見つけてない」
俺が答えると、せっかく落ちたトルの肩がまた僅かに固くなった。
「セドの籠から、血と足跡を追ってきた。焚き火の跡もあったよ。そこからお前に会えたんだから、二人の跡もまだ探せる」
ゆうさんはその間も処置を続け、持ってきた水で傷の周りを洗って新しい布へ替えた。熱や吐き気、途中で意識がなくなったことがないかまで一通り聞き、最後に足先へ触れて感覚を確かめる。
受け答えに不自然なところはなく、水筒を持ち上げればまだ中身の重さが残り、採取袋にはパンと乾燥果物も一食分ほど残っていた。唇は多少乾いているものの、何日も同じ場所で水や食料を使いながら耐えていた人間の状態には見えない。
「ここからは、脚に体重を掛けないでくださいね」
新しい布の結び目を確かめたゆうさんが、そのままトルの顔を見る。
「手当てはできました。けれど、自分で歩くと傷が開きかねません」
「でも姉ちゃんたちが――」
「置いてはいきませんよ。一緒に二人を捜しましょう。ただ、運び方は僕たちに任せてください」
声は柔らかいままだったが、そこだけは相談する余地を残さなかった。
俺が背負うことも考えたものの、鞄と戦鎚を持ったまま悪い足場を歩けば両手が使いにくくなる。二人へ装備を分けるより先に、少し離れて立っている白い巨体が目に入った。
「わたあめ、人乗せられる?」
「ええ。前にも運んでくれました。こういう時は、じっとしてくれますよ」
ゆうさんが首元へ手を添えると、わたあめは何を求められたのか分かっているらしく、自分から前脚を折って身体を低くした。
トルは目の前へ沈んできた巨体に一瞬だけ身を引いたものの、歩けない以上、自分から拒むつもりもないらしい。
俺とアルで傷のある脚を支えながら背中へ乗せると、わたあめは体勢が決まるまで動かず、トルの重みが背中の中央へ収まったところでゆっくり立ち上がった。
「……思ったより揺れないな」
「人が乗ると、気を付けて歩くんです」
ゆうさんが首筋を軽く撫でると、わたあめは何でもないことのように鼻を鳴らした。
そこまで確認したところで、処置道具を鞄へ戻していたゆうさんの手が止まった。
「トルさん、確認したいんですが。森へ入ったのは、今朝なんですよね」
トルは質問の意味を探すように眉を寄せた。
「そうだけど」
「じゃあ、今もその日の昼だと?」
「思ってるっていうか……そうだろ?」
そう答えながら、トル自身も頭上の枝葉を見上げる。隙間から差し込む光だけを見れば、確かに昼としか思えない。
「夜明けてから三人で入って、いつもの場所まで採りに行った。それで道がおかしくなって、昼前に俺が足やって……セドさんと姉ちゃんが戻ってからだって、そんな経ってないよ。ちょっと寝たかもしれないけど」
ゆうさんはすぐには何も返さず、さっき状態を見るために触れた水筒と採取袋へもう一度視線を落とした。
俺も同じ物を見る。
水も、一食分の食料も残っている。怪我をしたまま何日も待っていたにしては、トルの受け答えはしっかりしていた。
「ミュリエでは、三人が戻らないと捜索が始まっているんです」
ゆうさんの声が、さっき傷を説明していた時より少しゆっくりになる。
「三人が出掛けたのは、一昨日の朝です。僕たちは昨日ここまで来て、今朝、森へ入りました。外では、もう二日ほど経っているんですよ」
わたあめの背中で、トルの身体が固まった。
「……何言ってんの?」
「驚きますよね。僕にも、どうしてこんなに違うのかは分かりません。でも、外で二晩過ぎたのは確かです」
「いや、待ってくれ」
トルは否定する言葉を探すように周囲を見回したあと、自分の水筒へ視線を落とした。
「俺、ここで一晩も過ごしてないぞ。暗くなってないし、飯だって朝から何日も食ってない量じゃない。姉ちゃんたちが戻ってからだって、一刻か……長くても二刻くらいだと思ってた」
「夜になった記憶はありますか?」
アルの問いを聞き終えるより早く、トルは首を横へ振った。
「ない。ずっと明るいままだよ」
一度そこで口を閉じたものの、自分が何を否定しようとしているのか確かめるように、もう一度周囲の森を見た。
「森へ入ってから、ずっと今日だ」
朝の鉄杭は、二十分ほどの間に錆びた。あれを指で擦った時のことを思い出し、トルの脚を見た。布を巻き直したばかりの傷がある。
トルは、二晩を知らない。
記憶の方に何か起きているのかもしれない。それでも、道だけ気にしていればいい森ではなさそうだった。
「姉ちゃんたちは、どっちへ戻った?」
トルはすぐには答えず、水筒から顔を上げて、俺たちが下りてきた斜面を見た。
「この坂を上がって、来た道を戻るって。ずっと右で川の音がしてたし、ここへ下りる前に真ん中が割れた大きい岩があったから、そこまで戻れば分かるってセドさんが言ってた」
その説明を聞いて、アルと目が合った。
セドの籠からここへ来るまで、小川沿いの採取路を離れてから水音は一度も聞いていない。中央が割れた大岩も、痕跡を追った道のどこにもなかった。
「俺ら、その川も岩も見てないんだよ」
「そんなわけないだろ。ここへ来るなら――」
「お前が間違ってるって話じゃない」
声が強くなりかけたトルへ、先にそう伝える。
「俺らも、セドの籠から血と足跡を追ってここへ来た。焚き火跡もあった。でも、その間に川の音は聞かなかったし、大岩も見てない」
言い返そうとしていたトルの口が、そのまま閉じた。
どちらかが道を間違えたのなら、まだ話は簡単だった。だが、俺たちは入口の向こうが森に変わるのを見ている。トルの話だけを覚え違いだとも言えなかった。
「一回、さっきの空地まで戻ろう」
俺は来た斜面を見上げた。
「俺らが残した印と、トルの覚えてる場所を同じところで比べる。そこから二人を追った方がいい」
アルも斜面から周囲の木々へ視線を巡らせたあと、同じ判断らしく頷いた。
「ええ。まず、あの焚き火跡を覚えているか見てもらいましょう」
トルはまだ納得し切れない顔をしていたが、自分の記憶だけを疑われているわけではないと分かったのか、それ以上は反対しなかった。
ゆうさんがわたあめの背へ乗せた脚をもう一度確かめ、歩き出しても布が擦れないことを見てから立ち上がる。
俺たちも来た斜面へ向き直った。
わたあめが歩き始めると、トルは脚を庇いながら太い首の後ろへ手を置いた。生きて見つかり、一緒に動くこともできる。
ほっとしているはずなのに、何度も周囲を見回す横顔が気になった。
外で二晩が過ぎたことを、あいつは知らなかった。
トルには、まだ一日目だった。




