第013話 川の音がする道
焚き火跡の空地へ戻る間、トルはわたあめの背中から何度も左右の木々を見ていた。
俺たちが残してきた銀糸や鉄杭が現れるたび、その先まで目で追っている。自分の記憶へ引っ掛かるものを探しているのだろうが、知っている場所だという反応は一度もなかった。
わたあめは行きより歩調を落とし、根が張った場所では前脚の置き場を選んでいた。
「こいつ、思ったより乗り心地いいな」
太い首の後ろへ手を置いたトルの声から、さっきまでの張り詰めた感じが少し抜けていた。
「褒めといた方がいいぞ。本人聞いてるかもしれん」
「言葉分かるの?」
「都合の悪いことほど覚えてそうな顔してる」
前を歩いていたゆうさんが振り返り、苦笑する。
「サクさん、運んでくれているんですから、少しくらい褒めてあげてください」
「聞かれてると思う?」
「さあ。ただ、よく覚える子ですよ」
そんなやり取りをしているうちに、木々の向こうへ俺たちが残した銀糸が見えてきた。
その奥には三つ組んだ石と、もう熱の残っていない黒い灰がある。
そこまで何を見ても首を傾げていたトルが、焚き火跡を目にした瞬間、わたあめの背中で身体を起こしかけた。
「あ、ここだ」
傷へ響いたらしくすぐ顔をしかめたので、ゆうさんが振り返る。
「慌てなくて大丈夫です。どこか、見覚えがありますか」
「悪い。でも、ここは知ってる。俺らが飯食ったところだよ」
トルが指したのは、焚き火の脇へ残してあった小さな木の器だった。
「あれ、姉ちゃんの。湯沸かして、ここで一回休んだんだ。道がおかしくなってから結構歩いてたから、セドさんが一回飯にしようって」
「足を怪我したのは?」
「そのあと。ここを出て、もう少し先」
焚き火跡へ来る手前でも、俺たちは血を見つけている。あれを全部トルのものだと思うのは、早かったらしい。
俺たちと戻った道には見覚えがないというのに、トルはこの空地をはっきり覚えていた。
「ここからは、どっちへ行った?」
トルは迷わず空地の奥を指した。
「向こう。右からずっと川の音がしてた。少し行くと真ん中が割れたでかい岩があって、その先が下りになってる。俺が滑ったのはもっと先だよ」
方向だけなら、俺たちがトルを見つけた斜面とも大きくは違わない。
問題は、その途中に川の音も、割れた大岩もなかったことだった。
「俺らが通ったのも、だいたいそっちなんだけどな」
「じゃあ、何で岩見てないんだよ」
「それを俺に聞かれても困る」
入口の向こうが森になったあとでは、こいつの記憶違いだと笑うわけにもいかなかった。
トルの感覚では、ミナとセドが助けを呼びに戻ってから長くても一刻か二刻ほどしか経っていない。
二人も、まだ助けを呼びに出て間もないつもりなのかもしれない。そうなら、二人が空地を出た跡もまだ拾えるはずだ。
アルは焚き火跡を横切る俺たち自身の足跡から少し外れ、空地の縁へ視線を移していった。
何人も行き来した場所では跡が重なっていたが、その先だけ細い草が二人分ほどの幅で倒れ、俺たちがトルを探した方向とは少し違う右奥へ続いている。
ゆうさんも同じ先を見たところで、葉陰へ隠れていた細い布へ気付いた。
「この布、さっきもありましたか」
枝へ結ばれていたのは、指二本ほどの幅しかない青灰色の布だった。
風で引っ掛かったにしては結び目がきれいに残り、端は誰かが引き裂いたようにほつれている。
「姉ちゃんのだ」
わたあめの上から覗き込んだトルが、ほとんど迷わず答えた。
「俺の脚に巻いたのと同じ服。袖の下を破ってたから、その残りだと思う」
「ミナさんは、服の布を目印にも使っていたんですか」
「うん。道分かんなくなってから、姉ちゃんは布。セドさんは木に傷付けてた」
セドたちも目印を残していたのか。それでも帰れず、トルを置いて助けを呼びに行くことになった。
布の結び目がある枝の先へ回ると、低木の隙間には新しく折れた枝と踏み跡が続いていた。
俺は空地へ残した鉄杭に新しい印を一つ足し、今度は形も手控えへ書き込んだ。
それを見ていたアルが僅かに眉を上げる。
「今回は書くのですね」
「学習したんだよ」
「ええ。それなら安心しました」
「何か含みない?」
「ありません」
俺は手控えをしまい、アルに続いて歩き出した。
空地を離れてからは、トルにも周囲を見てもらった。
最初のうちは「たぶんこっちだった」程度だった声が、幹から横へ太い枝を伸ばした一本の木を見つけたところで急に変わった。
「これだ。これ見た」
枝はちょうど人の額辺りを横切る高さへ伸び、その先だけ刃物で落とした新しい切り口が白く残っている。
「姉ちゃんが頭ぶつけそうになって文句言ったら、セドさんがそこ切ったんだよ」
そのやり取りまで覚えている場所の足元には、二人分らしい踏み跡が同じ先へ続いていた。
俺たちがトルのところへ向かった時には、この木を通っていない。
低い根を越えたあと右へ曲がったと言われれば、その先の土へ最近踏まれた跡が残っている。葉の大きな植物がまとまった場所を左へ避けたという記憶の先では、低い枝にまだ新しい擦れがあった。
トルの記憶が曖昧な場所では足跡を拾い、痕跡が薄くなれば、今度はわたあめの背中から見覚えのある景色を探してもらった。
トルが覚えている景色と、二人分らしい足跡が少しずつ合ってきた。
それなら、さっき俺たちが通った道は何だったのか。
空地まで戻る間にも、自分たちの杭や銀糸は残っていた。あちらも、俺たちが勝手に思い描いた道ではない。
しばらく進んだところで、耳へ入ってくる音の中に、葉擦れとは違う低い連続音が混じり始めた。
風が木々を揺らしている時には紛れていたものが、枝葉が静まっても途切れない。
右側へ顔を向けると、アルもすでに同じ方向を見ていた。
「水ですね」
「ああ。聞こえる」
「これだよ」
わたあめの背中からトルの声が重なった。
「俺が言ってた川。ここまで来ると、ずっと右からこんな音がしてた」
ゆうさんも少し耳を澄ませ、地図へ手を伸ばしかけたところで止めた。
「本当に聞こえますね。ただ、今いる場所が地図で分からないので、どの川かまでは……」
「今は聞こえてるだけで十分じゃね?」
「ええ。トルさんの話と合ってきました」
水音を右に聞いたまま歩くにつれ、足元には石が増えていった。
湿った土へ白っぽい砂利が混じり始め、やがて苔の付いた小石の方が目立つようになる。木々の向こうに流れそのものはまだ見えないが、低い音は少しずつ近づいていた。
次は大岩か。
俺はトルの言っていた亀裂を探して、前方へ目を凝らした。
しばらく進んだところで、トルがわたあめの首へ置いた手に力を入れた。
「止まって。あれ」
指された先では、灰白色の木々の隙間から、それより濃い大きな塊が覗いている。
近づくほど輪郭がはっきりし、高さは俺の胸より上、横幅はわたあめが二頭並んでも余りそうな岩だと分かった。上から入った深い亀裂が中央を縦に割り、片側だけが僅かに外へ傾いている。
「この岩だ」
トルは大岩を指したまま続けた。
「ここを過ぎてから下りになった。俺が足やったのは、その先だよ」
さっき通った時に、見落とすような大きさではない。
それが今は目の前にあり、右から川の音まで聞こえている。
ゆうさんは岩を見上げるより先に、その根元へ残った柔らかい土へ目を落とした。
「ここにも、二人分の足跡があります」
砂利の間へ溜まった土には、大きさの違う靴跡が重なっている。片方はトルの靴より明らかに大きく、もう片方は少し小さい。
「セドさんの方が俺よりでかい。姉ちゃんは小さいよ」
さらに足跡の続く先、岩の亀裂の横には、細い刃物で引いたような一本の傷が残っていた。
三本の警告とは違い、浅い線が斜め前へ伸び、その先を示しているように見える。
「これも印?」
俺が尋ねると、ゆうさんは傷の表面を確かめてから立ち上がった。
「進んだ方角を残す印です。付け方は人によりますけど、セドさんはこれを使います」
「なら、あの二人はこっちか」
「ええ。この跡を追いましょう」
俺は岩の横へ鉄杭を打ち、位置と特徴を手控えへ残した。
二本の道がどう繋がっているのかは、あとで整理すればいい。今は二人を追う方が先だ。
右手から続く川音を聞きながら戦鎚の保持具を一度確かめ、岩へ刻まれた浅い傷の先へ足を向ける。
トルが話していた大岩を背に、俺たちは川の音へ近づいていった。




