第014話 戻ってきた川
割れた大岩へ残された一本の傷は、右手の水音とほぼ同じ方向を指していた。
青灰色の布から、二人分らしい足跡がここまで続いている。俺たちはセドの印の先へ入った。
ほどなく木々の隙間から水面が見え始めた。白い石の間を澄んだ流れが抜ける、十歩にも満たない川だった。
「あれだよ」
わたあめの背中からトルが流れを見た。
「焚き火した辺りから、ずっとあれを右に見たり、音だけ聞いたりしてた。姉ちゃんたちも、川へ戻れれば何とかなるって言ってたし」
岸へ近づくと、木に付けた浅い傷や、青灰色の布がまた現れた。俺たちも一定の間隔で印を残し、足跡が薄くなったところだけ立ち止まって確かめた。
川が大きく左へ曲がる場所では、砂利と土の境にいくつもの足跡が重なっていた。
真っ直ぐ通り抜けた跡だけではない。岸へ寄ったもの、森側へ戻ったもの、同じ場所を何度か歩いたような跡まで混じり、低い枝には青灰色の布が二本、少し離して結ばれている。
「ここ、何回か通ったと思う」
トルが周囲を見回した。
「道が分かんなくなってから、セドさんたちも川へ戻ろうとしてたから。姉ちゃん、同じ場所って分かるように布増やしてた」
なら、ここは戻る時にも使える。
曲がり角から少し森側へ入った木の根元に、鉄杭を打った。刻みと位置を手控えへ残し、目を上げれば二本の布も見えることを確かめた。
足跡が重なりすぎて、二人の進んだ先を絞れない。俺は顔を上げ、休めそうな場所を探した。
川岸は水を取るには困らないが、白い石が多く、風も抜ける。反対の森側には緩い斜面があり、少し上へ行けば灰色の岩壁が木々の間から覗いていた。怪我人を置いて人を呼びに戻った二人が、道を見失ったあとで一度腰を落ち着けるなら、俺でもあちらを選ぶ。
そう考えて斜面へ目を向けたところで、木の葉の向こうを薄い煙が流れた。
煙は細く、風に流されても同じ辺りから上がってくる。誰かが火を焚いているのかもしれない。
煙を見た途端、それまで抑えていた足が速くなった。
斜面を上がり、岩壁の手前へ回り込むと、小さな焚き火があった。
焚き火の傍に、二人いた。
一人は岩へ背を預け、もう一人の若い女は、足音に気付いて短い刃物を手に立ち上がった。
女の視線が、先頭の俺と背中の戦鎚を捉えた。
俺が声を掛けるより先に、後ろからトルの声が飛んだ。
「姉ちゃん!」
女の視線が俺たちの間を抜け、わたあめの背中へ止まった。
一瞬で顔つきが変わる。
「トル!」
刃物を下げたまま駆け出し、数歩で弟のところまで来かけたところで、布を巻かれた脚に気付いた。伸ばしかけた手が途中で止まり、そのままわたあめの背へ添えられた。
「脚、大丈夫なの。何でここまで来てるの!」
「俺は動いてないって。ゆうさんたちが見つけてくれて、こいつに乗せてもらった」
「こいつって……」
そこで初めて、弟を乗せている白い巨体へまともに目が行ったらしい。
けれど驚いたのも一瞬で、すぐ視線は包帯へ戻った。
ゆうさんが横へ入り、トルの脚を彼女にも見えるよう少し位置を変える。
「血は止まっていますよ。巻いてくれた布も、きちんと当たっていました。まだ歩かせられませんが、今は落ち着いています」
「よかった……。私が巻いた時、かなり血が出てたから」
吐き出された息と一緒に肩が下がった。
ミナはそれでも安心し切れないらしく、視線を弟の顔から包帯へ落とし、また顔へ戻した。そのたび、わたあめの背へ置かれた指が僅かに震えていた。
岩へ座っていた男も、こちらのやり取りを見ながら立ち上がっていた。
灰色の髪には白いものが混じり、左腕へ巻かれた布へ少し血が滲んでいる。立つ動きに大きな問題はないものの、俺たちを確かめる目にはまだ警戒が残っている。
先に反応したのはゆうさんだった。
「セドさん」
名前を呼ばれた男の顔から、張っていたものが少し抜けた。
「ゆうさん……。捜しに来てくれたんですか」
「ええ。お二人とも、見つかってよかった」
柔らかく返しながらも、ゆうさんの目はすでに左腕の包帯へ向いている。
「腕を見せてもらえますか。布に血が滲んでいますよ」
「これは枝で切っただけです。もう血もほとんど――」
「念のため、確かめさせてください」
声は穏やかなままだったが、セドも逆らうつもりはないらしく、そのまま焚き火の横へ腰を下ろした。
包帯へ手を掛けられる前に、セドは一度トルへ目を向けた。
「無事だったか」
「セドさんも無事だったんだな」
「ああ」
それだけ答えたセドは、目を閉じて長く息を吐いた。
ミナはまだ弟のそばを離れず、トルも話すたびに姉の顔を見ていた。
紙に書かれていた三つの名前を思い出す。
トルはわたあめの背にいて、ミナがその脚を気遣い、セドはゆうさんに腕を差し出している。
三人ともいた。
アルも急かすことなく少し離れた場所から周囲を見ている。俺は背負った戦鎚の帯を緩め、岩壁へ身体を預けた。
ミナは何度か弟へ話しかけ、トルもさっきまでより明らかに軽い声で応じている。ゆうさんに包帯を外されたセドの腕も、傷は浅くないものの、歩けないほどではなさそうだった。
ゆうさんがセドの腕を洗い、新しい布を巻き終えるまで、俺たちはそこで少し休んだ。
水と食料を出すと、ミナがこちらの荷物を見て首を傾げる。
「ずいぶん持ってきてるんですね」
「捜索だからな。何日掛かるか分からなかったし」
「何日って……」
そこで言葉が止まった。
俺は食料の包みを置いた。トルだけが、時間の話を聞いていた。
「ミナ。セドさん。二人は今、森へ入ってからどのくらい経ったと思ってる?」
質問の意味が分からないらしく、ミナは俺と弟を見比べた。
「朝からだから……半日くらいじゃないですか? まだ夕方にもなってないですよね」
ゆうさんの隣にいるセドも少し考え、それから頷いた。
「正確な時刻までは分かりませんが、そのくらいです。少なくとも夜は一度も来ていません」
トル一人の感覚ではなかった。
トルと別れて帰り道を探していた二人にも、夜は来ていないという。
「外では、もう二日ほど経ってる」
そう伝えると、ミナは一度こちらを見たまま動かなくなった。
「……二日?」
「一昨日の朝から、三人は戻ってない。俺らは昨日、森の入口に着いて一晩泊まった。森へ入ったのは今朝だよ」
ミナの手が、トルの膝へ置かれたまま止まる。
「でも、夜になってないです。私たち、ここで一回も夜を過ごしてません」
「トルさんも、夜は来なかったと言っていましたね」
ゆうさんはセドの腕から手を離し、三人の荷物へ目を向けた。
「日帰りの食料も、まだ残っていますね。水は川で足せても、食べ物までは増えません。それに、三人とも二晩ここで過ごしたような状態には見えないんです」
怪我をしたトルだけなら、眠っている間に時間が過ぎたとも考えられた。だが、二人とも同じことを言い、持ってきた食料も残っている。
セドが自分の荷物へ視線を落とす。
「それなら、俺たちが森にいる間に外だけ時間が進んだ、と?」
「そこまではまだ分かりません」
アルは三人を順に見ながら、言葉を選ぶように続けた。
「外では二晩が過ぎていますが、皆さんには夜を過ごした記憶がない。今分かっているのは、そこまでです」
「三人が入った時と、僕たちが入った時で、森の様子が違っていたのかもしれません。原因を調べるのは、外へ出てからにしましょう」
ゆうさんがそう続けると、セドは困ったように頭を掻いた。
「二人はトルと別れたあと、ここへ真っ直ぐ来たの?」
「いえ」
セドが首を横へ振った。
「人を呼ぶために川を下りました。ただ、歩いているうちに、さっきの布を二本結んだ曲がり角へ戻ってしまって」
「森側へ入ったり、太陽見て方向変えたりもしたよ」
ミナが弟の膝へ手を置いたまま続ける。
「でも、結局あそこへ戻ってくるの。歩き続けるほど分からなくなってきたから、一回ここで休んで、もう一度考えようって話してたところ」
俺たちも、上り坂を進んで同じ分岐へ戻った。あれと似たことが、この川でも起きているらしい。
入口までなら、俺たちが残した印を逆に辿れる。トルはわたあめが運べるし、セドとミナも歩ける。帰れなかった川を無理に下るより、まず標柱まで戻る方がいい。
荷物をまとめ始めたところで、岩壁の根元へしゃがんでいたゆうさんが動かなくなった。
落とし物を探しているのとは違い、岩の割れ目へ沿って生えた小さな白い花を見ている。
五枚ほどの花弁に細い茎。俺なら知らずに通れば、この辺りにも花が生えるのかと思うだけだった。
「何かある?」
「……境界花のようです」
「名前からして嫌な感じするな」
「この花に危険はありませんよ。境界痕の近くで見かける植物なんです」
ゆうさんは葉や茎へ触れず、同じ花が岩壁のどこまで続いているかを目で追った。
「でも、灰森のこの辺りで、こんなに咲いているのは見たことがありません」
話を聞いていたセドも近づき、白い花を見下ろす。
「俺もここでは見たことがありません」
「最近も来てる?」
「十日ほど前に。この辺りまで採取に来ましたが、その時にはありませんでしたね」
ゆうさんは眼鏡の位置を直し、花の根元と周囲の土を見比べた。
「十日で、ここまで育ったんでしょうか。古い株もないし、前から少しずつ増えていた様子もありませんね」
また、育ち方のおかしい植物だ。ゆうさんが株を見比べている間、俺も岩の割れ目へ目を近づけた。
ゆうさんは一株だけを周囲の土ごと丁寧に採り、小さな容器へ収めた。
容器へ収まった花は小さかった。ゆうさんとセドが立ち止まらなければ、俺は通り過ぎていたと思う。
花の位置を手控えへ残し、俺たちは来た方向へ戻り始めた。
今度は六人と一匹になる。
トルはわたあめに乗り、ミナとセドも歩いてついてくる。帰りは、行きに付けた印を逆の順番で辿った。
岩壁の斜面を下ると、二本の布を結んだ川の曲がり角へ戻った。木の根元には俺の杭もある。そこを離れ、行きと逆に進むと、割れた大岩が見えてきた。根元の杭を確かめ、そのまま焚き火跡の空地へ向かう。
目印は揃っていた。来た時より人は増えたが、道を探すために立ち止まることは少ない。
しばらく歩くと、左手に聞こえていた水音が、少しずつ前へ回り始めた。
流れそのものが曲がっているのだと思い、最初は気にしなかった。
ただ、木々の並びまで見覚えのある形になり始めると、前を歩いていたアルの歩幅も徐々に狭くなった。
「マスター」
「ああ」
言われる前に、俺も気付いていた。
前方で川が大きく曲がり、その岸から離れた木の枝に、青灰色の布が二本見えた。
岩壁を離れたあと、一度通り過ぎたばかりの場所だ。
その根元へ近づくにつれ、土の間から鉄の頭が見えてくる。
捜しに行く前に、俺が打った杭だった。
刻みも、位置も、手控えへ残した通りだった。
曲がり角を離れ、大岩を過ぎ、空地へ向かっていた。それなのに、またここへ出てしまった。
誰もすぐには口を開かなかった。
ミナは枝へ残した二本の布を見上げ、セドは川と俺たちが歩いてきた森の奥を交互に確かめている。わたあめの背中にいるトルも、今度は「ここを知っている」と言う必要すらなかった。
俺は鉄杭の前へしゃがみ、指で刻みをなぞった。
手控えを開く。間違いない。
セドとミナが戻されていた川の曲がり角へ、今度は俺たちも揃って戻ってきた。
探していた三人は、全員いる。杭から顔を上げ、来た方の木立を見る。
俺は杭を抜かず、頭へ残した刻みの横へ短い傷を一本だけ加えた。
ここへ来たのは三度目だ。手控えにも、短い傷を足したことを書き込む。
鉄を削る小さな感触を指先へ残したまま立ち上がると、川はさっきまでと変わらない音を立て、二本の布も風に揺れていた。
六人と一匹で、同じ川の音を聞いている。外へ出る道は、まだ見つからなかった。




