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第022話 川の先の街

 アーヴェル河へ出てから、船の上で過ごす時間の意味が少し変わった。

 ミュリエを出た直後の支流では、左右どちらを見ても岸が近く、畑や木立の向こうに人家まで見えていたから、水の上を進んでいても陸地の延長にいる感覚が残っていた。

 それが幾つもの川筋が合流した先では、対岸との距離が一気に広がり、木々は一本ずつの形を失って遠い緑の帯になる。船首が水を割るたび、陽を反した水面が崩れて船腹へ流れていくのを眺めていると、ようやく自分が大きな川そのものを旅しているのだと実感できた。


 昔のアステリオンにも川はあった。

 岸辺を走った記憶も、水路を使って町を移動した覚えもある。けれど、濡れた木材と油を染み込ませた縄の匂いや、船底を通して足裏へ伝わる細かな振動まで覚えているわけではない。

 風向きが変われば帆の張り方が変わり、それに合わせて船員が縄を緩めたり締めたりする。甲板へ積まれた樽や木箱も、ただ置かれているように見えて、よく見れば揺れる方向まで考えて固定されていた。

 画面越しに通り過ぎていた頃には、必要のなかった情報ばかりだった。


「兄ちゃん、その鉄の塊、夜までそこへ置くなら縛っといてくれ」


 声を掛けてきたのは、出航の時から荷の積み下ろしをしていた髭の濃い船員だった。男の視線を追うと、壁際へ寝かせた戦鎚へ向いている。


「これが動くほど揺れるのか?」

「動かなきゃ安全ってわけでもねえ。横から食らって倒れりゃ、人の足くらい簡単に潰すだろ。床板なら俺らで直せるが、客の骨までは直せん」


 言われてみれば当然だ。

 馬車では戦鎚を車体へ固定していたくせに、船では重さがあるから動かないだろうと油断していた。船員から短い縄を借り、船壁の金具へ柄を固定してみると、男は結び目を一度見ただけで、反対方向からもう一本回すよう指を差した。


「川じゃ、動かねえと思った物ほど動く。揺れが一方向じゃねえからな」


 教えられた通りに締め直せば、横から柄を押しても浮かなくなる。自分では問題なく留めたつもりだったものが、船乗りの目には足りていなかったらしい。


「なるほどな」

「武器は知らんが、船の上じゃ俺の方が先輩だ」

「そこは認める」


 男は満足した様子もなく次の荷へ向かい、俺がもう一度結び目を確かめていると、少し離れたところで見ていたアルが口元を緩めた。


「マスターが戦う前に、戦鎚だけで負傷者を出すところでしたね」

「出してないから。今まさに防いだから」

「船員さんが、ですが」

「細かいなあ」


 軽口を返しながら立ち上がると、船が大きな流れへ乗ったところだったらしく、足元がゆっくり横へ傾いた。陸なら無意識に重心を戻して終わる程度の変化なのに、床そのものが動くとなると微妙に勝手が違う。

 アルはそんな俺を見ても手を貸そうとはせず、少し先へ移動して川を眺めている。

 俺も結び目をもう一度確かめてから、その隣へ移った。


 その日の午後、船は大きく蛇行する川に沿って西へ下った。

 低い草地では牛に似た家畜が群れ、岸近くでは小舟に乗った漁師が水から網を引き上げている。

 向こうから来る渡し舟とすれ違えば、船頭同士が遠くから手を上げ、小さな集落の前を通れば、水際に積まれた穀物袋や木材の間を荷運び人が行き来していた。


 俺たちの船にも、ミュリエで積んだ花や香料が載っている。

 どこかの船着場でそれが降ろされ、別の荷が積まれ、さらに西へ運ばれていくのだろう。

 地図を見れば一本の線でしかない川が、実際には町と町を繋ぐ太い道になっている。

 そんな当たり前のことを、俺は今さら実感していた。

 陸の道なら、馬車の轍や踏まれた草を見れば、人がどこを通っているかは分かる。

 川にはそんな痕跡は残らないのに、船は途切れず行き交い、対岸へ渡る小舟もあれば、俺たちと同じように荷を積んで西へ下る船もある。上流へ向かう船の中には、岸辺を歩く人や家畜へ太い綱を引かせているものまであった。

 水面には何も残らない。

 それでも、ここで暮らしている人間には、進む場所も戻る場所も見えている。


「さっきから、ずいぶん熱心に見ていますね」


 アルに言われ、上流へ向かっていく船から視線を戻した。


「ちゃんと生活してんなと思って」

「……随分と大きな括りですね」

「自分でもそう思う」


 笑ってから、もう少しだけ言葉を足す。


「俺の知ってた頃は、町から町へ行く時間なんて、目的地までの途中だったんだよ。着いた先に何があるかは気にしても、途中で誰がどう暮らしてるかなんて、ほとんど見てなかった」


 新しい町へ着けば、最初に探すのは施設や店だった。素材が取れるなら採取地点を覚え、敵が出るなら狩場を確認する。仲間と寄り道して馬鹿なことをした記憶は幾らでもあるのに、名前も知らない人間が朝どこへ向かい、何を積んだ船でどこへ帰るのかまで考えた覚えはない。


「今は見える、と」

「三、四日も掛けて進んでりゃな。見たくなくても目に入る」

「もう少し感慨深い理由かと思いました」

「感慨はあるよ。でも景色見た途端に人生語り始めるほど、俺も若くない」


 アルがこちらを見て、今の俺の顔と発言を比べるように少し目を細めた。


「その姿で言われると、やはり不思議ですね」

「中身四十だから諦めろ」

「はい。それについては、もう諦めています」

「……それについては、って何だよ」


 聞いてもアルは答えず、川へ視線を戻した。


 その日の夜は流れの緩い岸へ船を寄せ、同じように西へ向かう二隻と並んで朝を待つことになった。

 暗くなってから無理に進むより、決まった係留地で休む方が安全らしい。岸辺には船乗りや旅人を相手にする小さな食事処まであり、船賃に含まれている豆と野菜の煮込みを食べ終える頃には、昼間ずっと働いていた船員の何人かがもう甲板の隅で横になっていた。


 周りにいる乗客も、誰かを探しに行くわけではない。

 東で仕入れた品を西へ運ぶ商人がいて、親類を訪ねるという親子がいて、仕事を終えれば明日に備えて眠る船員がいる。

 俺とアルも、その中へ混じっている。

 目を覚ましてからというもの、自分が何者なのかを調べ、記録を探し、ミュリエへ移動してゆうさんと再会し、そのまま灰森の異常へ踏み込んだ。

 何かを追っていない時間の方が珍しかったせいか、船を岸へ繋いで次の朝を待つだけの夜が妙に新鮮に感じられる。


 寝る前に戦鎚の固定を確認し、柄へ触れた時だけは、その穏やかさから意識が少し外れた。

 灰森で魔物を相手にした時の感触が、まだ手に残っている。

 武器そのものが壊れているわけではない。俺が覚えている振り方と、今の身体が自然に選ぶ動きが、ほんの少し噛み合っていない。

 訓練場では半拍ほどの違和感だったものが、動く相手を前にするともっと分かりやすく出た。

 今すぐ戦えないほど大きな問題ではないからこそ、放っておく気にはなれなかった。


「やはり、気になりますか」


 後ろから来たアルの声に、柄から手を離す。


「灰森で実際に振って、ひとつ分かった。遅れを消そうとしなければ戦える。昔の振り方へ合わせず、鎚頭が遅れて付いてくる前提で動けばいい」


 白い生物を相手にした時は、それで間に合った。


「でも、今の振り方が分かってきたなら、武器の方も一度合わせ直したい。握る位置や重心が今の身体に合えば、余計なズレは減らせる」

「調整できそうですか?」

「ちゃんとした工房があれば。柄をいきなり切る気はないけど、今の身体で一番楽に振れる位置は測り直したいな。必要なら金具も触る」


 自分の身体に合わせて道具を直す。

 言葉にしてしまえば、鍛冶師として特別なことではない。

 問題は、旅先でこの大きさの戦鎚を弄れる設備を借りられるかどうかだった。


「レヴァンなら、工房そのものには困らないと思います。造船も盛んな街ですし、金属を扱う職人も多いですから」

「武器屋もあるだろうしな」

「それに、バルさんが今もレヴァン周辺にいるはずです。職人を探すだけなら、あの方へ聞くのが早いかもしれません」

「バル?」


 名前を聞くと、顔より先に喋り方を思い出した。

 人の名前を呼ばず、何かあれば「ヘイヘイ」から話を始める男。元騎士で神官のくせに、神聖という言葉が似合わないことに関しては誰にも負けていなかった。


「ばるお、レヴァンにいるの?」

「少なくとも、私が最後に聞いた時には。今は金貸しや装備の売買もしていますので、街の職人にも顔は利くと思います」

「神官どこ行ったんだよ」

「本人に聞けば、辞めた覚えはないと言うと思いますよ」


 十年経って花屋になった錬金術師を見たばかりなので、金貸しを始めた神官くらいで驚くことはないのかもしれない。


「工房の当て聞いたら、口利き料とか言って金取られそうだな」

「取るかもしれませんね」

「そこは否定してくれよ」

「バルさんですから」


 アルの答えが妙に早くて、思わず笑った。


「ひでえ信頼関係だな」

「信頼はしていますよ。金銭については油断しないだけです」

「余計ひどいわ」


 その言い方ができる相手なのだということは分かった。

 ゆうさんの名前を聞いた時のように、その先へすぐ十年分の重さが付いてくるわけではない。

 俺は今のバルを知らないし、バルも今の俺を知らない。それでも、名前を聞いた時に最初に浮かんだのが深刻な心配ではなく、どうせ何か理由を付けて金を取ろうとするんだろうという昔と同じ雑な印象だったことに、少しだけ肩の力が抜けた。


「まあ、いたら顔出すか」

「ええ」

「工房は、その時に聞けばいい」


 まだ会ってもいない人間の十年間を、船の上から先回りして考えても仕方がない。

 その夜はそこで話を終えた。


 翌朝は、甲板へ出た途端に視界が白かった。

 川霧が水面から立ち上がり、対岸どころか少し先を進む船影さえ曖昧になっている。湿った空気は髪や外套へ細かな水滴を残し、船員たちは竿で水深を確かめながら、昨日よりずっと慎重に船を進めていた。

 霧の向こうで鐘が鳴ると、こちらの船員も回数を合わせて鐘を返す。


 しばらくして白い幕の中から上流へ向かう荷船が現れ、すれ違う頃には積まれた木材や甲板の人影まで見えたのに、船尾が遠ざかればまた輪郭から順に霧へ溶けていった。

 姿が見えなくても、川の上には同じように進んでいる人間がいる。


 そんな朝を抜け、陽が高くなれば霧は薄れ、船はまた昨日と同じように西へ下っていった。

 そこから先の数日には、事件と呼べるようなものは何も起きなかった。

 けれど、何も起きなかったからこそ、この世界を移動すること自体が少しずつ分かってきた気がする。


 昼になれば岸辺の町で荷を下ろし、空いた場所へ別の木箱や樽を積む。ミュリエから乗っていた親子が途中の小さな船着場で降りれば、その場所から今度は籠を三つ抱えた商人が乗り込んできた。

 籠の中身は塩漬けにして乾かした魚で、風向き次第では甲板の端までかなり匂ったが、夕方には商人本人がそれを炙って周囲へ分け始めたので、文句を言っていた船員まで結局一緒に食べていた。

 塩気の強い魚は酒が欲しくなる味だったが、脇腹の傷が完全に治ったわけでもない以上、わざわざ買ってまで飲む理由もない。何より、杯へ手を伸ばしたら丸眼鏡の向こうから無言で見てきそうなゆうさんの顔が簡単に想像できたので、茶で済ませることにした。

 本人が何百キロも離れてから効き始める辺り、医者の釘というのは厄介なものだ。


 船で三度目の夜を過ごす頃には、足元が揺れることにも少し慣れていた。

 最初の晩は船底へ水が当たる音が変わるたびに目を覚ましたのに、今では身体の方が揺れを前提にしている。朝になれば船員が動き始める音で起き、昼は甲板から岸を眺め、夜になれば次の係留地で飯を食って眠る。

 同じことを繰り返しているようで、西へ進むほど周囲の景色は確実に変わっていった。

 漁船や渡し舟だけだった川には、俺たちより大きな貨物船が混じるようになり、岸辺には荷揚げ用の桟橋と長い倉庫が増えていく。小さな集落ごとに別々だった水運が、どこか一つの大きな場所へ吸い寄せられているようだった。

 地図を見なくても、その先にレヴァンがあることが分かる。


 四日目の昼を過ぎた頃には、乗客より先に船員たちの動きが変わった。

 帆を畳み始め、積み荷を留めた縄を一本ずつ確かめ、船首では二人が川の先を見ながら舵を取っている。途中から乗ってきた商人も籠をまとめ始めたので、俺が近くを通った髭の船員へ目を向けると、男は聞かれる前に前方を顎で示した。


「次の大曲がりを抜けりゃレヴァンだ。降りる支度するなら今のうちにしとけ」


 数日前には教えられなければ固定の仕方も分からなかった戦鎚の縄を外し、背へ戻す。

 肩へ掛かる重さそのものは変わらない。それでも、船を降りたらこの武器を今の身体へ合わせ直したいという目的が、出航した時より具体的になっていた。

 その向こうには、バルもいるらしい。


 船が大きな曲がりへ近付くにつれて、両岸の様子は町外れというより港の一部に近くなった。

 水際へ張り出した荷揚げ場の後ろには大きな倉庫が続き、そこから細い水路へ入り込む小船も見える。川沿いに建物が並んでいるのではなく、水そのものが建物の間へ枝分かれして、人と荷物を奥まで運んでいるようだった。


「マスター」


 船首近くにいたアルが、曲がりの向こうへ視線を向けた。

 俺もその隣へ立つ。

 船が舵を切り、今まで岸に隠れていた西側の景色が少しずつ開いていった。


 最初に目へ入ったのは、街の屋根ではない。

 川面の向こうへ林立する帆柱だった。

 大小の船が何列も水際へ停まり、その間を小舟が縫うように行き交っている。

 船の向こうには何棟もの倉庫が連なり、さらに奥では石造りの建物が水路を挟んで重なっていた。

 場所によって水面の高さが違うのか、遠くには壁のような水門施設と、その上を跨ぐ橋まで見える。

 ここまで四日間、俺たちを運んできた川が、街の手前で終わるのではなく、そのまま中へ入り込むように続く。

 水の上を人が動き、荷が動き、その流れに合わせて街そのものが組み上がっている。

 リュネールの魔導具だらけの通りとも、花畑に囲まれたミュリエとも違った。


「レヴァンです」


 アルの声を聞きながら、目の前へ広がっていく街を見た。

 名前は知っているし、地図でも場所は確認していた。昔のアステリオンにも、同じ名の都市はあったはずだ。

 けれど、そのどれとも違う。

 ここへ来るまでに幾つもの船着場へ寄り、朝の霧の中ですれ違う船の鐘を聞き、荷を運ぶ人間や、知らない町で降りていく乗客を見た。その全部を四日掛けて辿った先に、今この街がある。

 地図の上で次に選んだ場所ではない。

 今の俺が、自分の身体で辿り着いた場所だった。


「でかいな」

「ええ。ローディア西部では、かなり大きな街です」

「この中からバル探すのか?」

「居場所が変わっていなければ、探す方法はありますよ」

「なら任せる」


 河川管理所へ行く予定もあるし、戦鎚を触れる工房も探したい。

 そのうえ十年ぶりになるのか、俺にとってはもっと長いのか分からない悪友まで、この街のどこかで金勘定をしているらしい。

 やることは多い。

 それでも、今は一つずつでいい。

 船は港へ入るため速度を落とし、周囲を行き交う船の間へゆっくり進んでいく。川岸から飛んでくる荷揚げ人の声や、木材同士がぶつかる音が次第にはっきり聞こえ始めた。

 甲板から見える水都レヴァンは、遠い地名ではなくなっていた。


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