第021話 西へ行く船
昨夜まで作業台を照らしていた灯りは消え、朝食を食べ終える頃には、通りから人の声が聞こえていた。
卓の脇には俺とアルの荷物がまとめてある。乾かした外套と、道具を詰め直した鞄。それに戦鎚を背負えば、いつでも出られた。
最初は、この町に何日いるのかすら決めていなかった。
灰森の捜索に加わり、戻ってからも調べることが増えた。気付けば、次に向かう町まで決まっている。旅行だったら相当雑な日程だが、帰りの航空券を取り直す必要はない。困るとすれば、財布と身体くらいだった。
その身体も、立ち上がった時に脇腹が少し引きつる程度まで戻っている。
「昨日よりはマシだな」
服の上から傷の辺りを押さえると、食器を片付けていたゆうさんがすぐこちらを見た。
「少しよくなっても、今日は無茶をしないでくださいね」
「まだ何も言ってないだろ」
「ええ。先に言っておこうと思いまして」
「俺、そんな信用ない?」
返事を待っている間に、床で朝の草を食べていたわたあめまで顔を上げた。
「羊にまで見られるほど?」
「騒ぎになるかと思ったんじゃないですか。今、食べているところですし」
「飯の邪魔ってこと?」
わたあめはもう草へ戻っていた。違うとも言ってくれない。
アルはそのやり取りを聞きながら、昨夜まとめた手控えを見直している。
朝飯の前に協会へ人を出してもらっていた。レヴァンへ送った照会に返事が来ていれば、そのまま持って来てもらうことになっている。
返事がなくても行くつもりではいる。
花も、あの生物から流れ出した液も、西へ向かっていた。レヴァンに何かあるのか、一度自分で確かめたかった。
食器が棚へ戻されたところで、表の戸を叩く音がした。
開店を待つ客にしては早い。ゆうさんが表へ出ると、ほどなく協会の腕章を付けた若い男を連れて戻ってきた。
「返事が来ました」
男が差し出したのは、折り畳まれた薄い紙が二枚だった。
固定式の通信器では長い記録まで送れないため、こちらから伝えたのは、灰森周辺で境界に関係するかもしれない異常が起きていることと、西側の水系に似た報告がないかというところまでらしい。
返ってきたのは、境界とは書かれていない二つの異常だった。
「ここ数日で、アーヴェル河の下流側から流れについて二件報告が入っています。一つは夜間、係留中の船が短い時間だけ上流側へ引かれたというもの。もう一つは、水位標の記録が前後と合わない数値を一度だけ示したそうです」
「その辺で雨は?」
「増水するほどは降っていません。どちらもすぐ元へ戻っていますし、船の方は風や渦の可能性もあるため、事故として扱うほどではないと判断されたようですが」
川では、それくらいのことはあるのだろうか。
ゆうさんは受け取った紙へ目を落とし、地図を手元へ引き寄せた。
「どちらも、場所は分かっていますか」
「一件はレヴァン手前の中継船着場、もう一件はレヴァンの外縁水路です。詳しい記録は、現地の河川管理所へ確認してほしいとのことでした」
紙に書かれた二つの場所を、俺も覗き込んだ。
灰森と関係があるかは、まだ分からない。それでも、着いたら聞きに行ける相手はできた。
「まずは河川管理所だな」
ゆうさんから紙を受け取ったアルが、二つの場所を手控えの地図へ書き込んだ。
「ええ。そこで記録を確認してから、中継船着場ですね」
アルは河川管理所の名も書き添え、紙を手控えに挟んだ。
協会員が帰ったあとの支度は早かった。
灰森で使った鉄杭や長縄はゆうさんのところへ残し、着替えと野営用品、最低限の工具だけを鞄へ戻す。持ち帰った試料も基本的にはここへ預けることになったが、月晶杖の調整環だけは記録を取ったあと、俺が持っていくことにした。
布越しに小さな環を持ち上げても、一昨日のように指が勝手に動くことはない。
それでも、これは持っていきたかった。
鞄の内側にある革袋へ収め、口をきつく結ぶ。
「包みは、そのままにしておいてくださいね」
「分かってる。失くさないようにしとく」
「マスターは物を失くすというより、持ったまま自分ごといなくなる方ですから」
「朝から重いな、その言い方」
アルは平然と荷紐を締め直している。
一昨日、森で腕を掴んだ時の顔を思い出した。俺は革袋の口をもう一度確かめ、鞄を閉じた。
店を出る頃には、表の鉢植えに朝の光が当たっていた。
水差しが窓の下に置かれ、わたあめの通る分だけ鉢の間が空いている。初めて来た時には気にもしなかったものへ、いちいち目が留まった。
ゆうさんは表の札を確かめ、戸を閉めた。
「船着場までは、一緒に行きますよ」
「店は?」
「戻ってから開けます。少し遅れるだけですから」
「昨日こっち任せるって言ったばっかなのに、いきなり開店遅らせるのちょっと気まずいんだけど」
「見送りくらい、させてください。せっかく戻ってきてくださったんですし」
「ならいいか」
「そこは、あっさりなんですね」
ゆうさんが笑い、その横へわたあめまで当然のように並んだ。
結局、最後まで三人と一匹で町を出ることになった。
船着場は、町から西へ伸びる街道の先にある。そこで川船へ乗り、支流からアーヴェル河へ出て、何日かかけてレヴァンへ下る。
陸路の方が早い区間もあるというが、水路そのものを見ておきたかった。傷も残っているので、荷車を乗り継いで急ぐよりは船がよかった。
船着場へ向かう荷車に乗せてもらい、花畑の間を抜けていく。
花畑が続くのは灰森へ向かった道と似ているが、今はその間から西側の低地が見える。細い水筋が、陽を受けて光っていた。
あそこでも水が妙な流れ方をするのだろうか。荷台の縁へ少し身を寄せてみた。
ゲームだった頃、地図にまだ埋まっていない場所を見つければ、誰かが行ってみようと言い出した。効率のいい狩場でも強い装備が出る場所でもないのに、知らないというだけで深夜まで付き合ったこともある。
荷車が揺れて、脇腹が痛んだ。一昨日裂かれた傷が、まだ残っている。画面の中へ出掛けるつもりでは困る。
少し座り直してからも、俺は畑の先を見ていた。
昼前には船着場へ着いた。
港と呼ぶには小さいが、川沿いには荷を積み替える倉庫が並び、何本かの桟橋へ大小の船が繋がれている。花や香料を詰めた木箱が多いのはミュリエらしく、船員と荷運び人がその間を忙しく行き来していた。
俺たちが乗るのは、レヴァンまで下る中型の貨客船だった。
平たい船底の上に低い船室があり、甲板にはすでに木箱と樽が縄で固定されている。帆もあるが、川の流れや曳航を使う区間の方が多いらしい。
荷物を船員に見せ、戦鎚も持ち込めることを確かめた。乗船手続きを済ませると、ゆうさんは桟橋の手前で足を止めた。
ここから先は乗客だけだ。
わたあめも隣で止まり、その巨体を避けるため、後ろを通る人が少しずつ大回りしている。
「じゃあ、ここまでだな」
「ええ」
昨夜、必要な話はしたはずだった。
それでも何か言い残した気がして、俺はすぐには渡し板へ向かえなかった。
仕事が忙しくなったゆうさんに、昔の俺は「来たくなったら来ればいいじゃん」と言ったらしい。
「また来るわ」
ゆうさんが少しだけ目を細めた。
「灰森のこともあるし、たぶんまた聞きたいことも出る。何もなくても、この町は嫌いじゃないしな」
「今度は、お茶を飲んで帰るくらいにしてくださいね。森まで一緒となると、僕も店を閉めることになりますから」
「俺だって、最初はそのつもりだったんだけど」
「それで、何日いらっしゃいましたっけ」
「日数の話はやめようぜ」
ゆうさんは笑ったまま、今度はアルへ向いた。
「アルさんからも、時々知らせてくださいね。サクさんが忘れてしまったら、その分も」
「承知しました。その場合は、本人の分まで送ります」
「勝手に俺を連絡不精で確定させんなよ」
「前にも、そういうことがありましたので」
「それ俺の知らない実績なんだって」
「では、これからお願いしますね」
昨夜作業台の前で話した時より、その声は軽かった。
わたあめへ近づくと、鼻先を胸へ押し付けてきた。傷には当たらなかったが、少しよろけた。
首の横を撫でると、硬い毛の下から体温が返ってきた。
「もう森で人背負って突撃すんなよ」
「サクさんもですよ」
横からすぐゆうさんの声が飛んだ。
「俺、人背負ってないじゃん」
「そちらは、突っ込む方のお話です」
わたあめの首を撫でたまま、俺は目を逸らした。
出航を知らせる鐘が鳴り、桟橋の船員たちが乗客へ声を掛け始める。
俺とアルも渡し板を上がった。
甲板へ足を着けてから振り返ると、ゆうさんはまだ桟橋の手前にいる。その隣には、やたら目立つ白い塊も残っていた。
「ゆうさん!」
丸眼鏡の向こうから顔が上がる。
「またな!」
一瞬だけ間があり、ゆうさんが笑った。
「ええ、また!」
太い係留綱が外されると、岸と船腹の間へゆっくり水が広がった。流れを受けた船体が桟橋から離れ、人や積み荷の隙間に立つゆうさんの姿も少しずつ小さくなる。
わたあめだけは最後までやたら見つけやすかった。
「でかいな、あいつ」
「最後の感想がそれですか」
隣へ来たアルが呆れたように言う。
「感傷的になりすぎるのも違うだろ」
「別に構いませんよ。誰も笑いません」
「アルが言うと罠っぽいんだよな」
「失礼ですね」
そんなことを話しているうちに、船着場は川の曲がりへ隠れていった。
支流の幅が少しずつ広がり、岸辺の畑も遠くなる。朝から細かく揺れていた水面へ光が散り、船腹へ当たる音も、桟橋の近くにいた時より一定になっていた。
俺とアルはそのまま甲板に残った。
この先でアーヴェル河へ入り、何日か西へ下ればレヴァンへ着く。
「アル」
「はい」
呼んでから、少し言葉に詰まった。
一昨日、森で腕を掴まれてから、ずっと気になっていた。
「森で、俺が一人で行こうとした時のことなんだけど」
それだけで伝わったらしく、さっきまで残っていた笑みが僅かに引いた。
俺は川から目を離し、アルの方を向いた。
「俺、あの時までちゃんと分かってなかったと思う」
アルは何も言わず、続きを待った。
「俺の中じゃ、ゲームをやめたあとも向こうで普通に生活が続いて、気付いたらこっちにいたんだよ。だから、こっちで俺がいなくなったって話も、どこか別の奴の話みたいに聞いてた」
ゆうさんの方へ一人で踏み出そうとした時、アルは俺の腕を離さなかった。あの指の力は、今も覚えている。
「俺には覚えがないけど、アルには、俺たちを探してた日がちゃんとあるんだよな。全部分かったなんて、言えないけどさ」
そこで一度言葉を切った。
「覚えてないからって、俺には関係ないみたいにしてちゃ駄目だろ」
川風に、アルの濃紫の髪が少し揺れた。
「帰る方法は探すよ。向こうにも俺の生活がある。でも、くーちゃんがどうなったのか、俺自身に何があったのか、それを知らないまま帰るのは嫌なんだ」
鞄には、くーちゃんの物らしい小さな調整環が入っている。
背中の戦鎚も、服の下にある古い傷も、こっちで生きていた俺のものだった。
「だから、一緒に来てほしい」
口にしてから、少し違う気がした。
「いや、それだと俺が連れてくみたいだな」
アルの口元が僅かに緩む。
「違うのですか?」
「違うだろ。アルが行くって決めてんだから」
「はい」
「じゃあ、改めて。一緒に行こう。俺が勝手に先へ行かないように見張るのも込みで」
そこで初めて、アルがはっきり笑った。
「最後の条件だけで、かなり大変な旅になりそうですね」
「そんな頻繁に消えねえよ」
「昔のマスターも、おそらくそう思っていたでしょう」
「そのカード強すぎない?」
「実績がありますので」
勝てる気がしなかった。
笑みを残したまま、アルは一度川へ視線を戻した。
「マスター。昔のことを、無理に思い出そうとしなくても大丈夫です」
声は静かだった。
「でも、また何も知らないまま待つのは、嫌です」
俺は口を閉じたまま、頷いた。
「次に何かを決める時は、私にも教えてください。隣にいるのですから」
「分かった」
「本当に?」
「信用ねえな」
「一昨日、止めたばかりですので」
「じゃあ今から実績作るよ」
西へ続く川を顎で示す。
「レヴァンで何か見つけても、まずアルに話す。勝手に一人で突っ込まない」
「最後だけ少し怪しいですね」
「努力目標で」
「却下します」
「厳しいなあ」
支流を抜ける辺りで、船員の動きが慌ただしくなった。
帆と舵が調整され、左右に近かった岸が急に遠ざかっていく。いくつもの川筋が広い水面へ集まり、船底へ返ってくる水音まで少し低くなった。
アーヴェル河だった。
広い水面の先を見た。報告のあった船着場も、レヴァンの水路も、この川で繋がっている。
「マスター」
呼ばれて横を見ると、アルは俺が見ていた川の先へ目をやった。
川は西へ大きく曲がっていた。先の岸は、ここからは見通せない。
「レヴァンまでは数日あります。今日はまだ、かなり手前ですよ」
「分かってるよ」
「でしたら、今からそんなに遠くを見る必要もないかと」
「いいだろ別に。出発した感じするじゃん」
「そういうものですか」
「そういうもの」
納得したのかどうか、アルも結局同じ方向へ顔を向けた。
画面の向こうで「また明日」と別れたあと、俺はその次の日へ戻らなかった。
その言葉を思い出したのは、船着場もミュリエへ戻る道も、もう川の曲がりの向こうへ消えたあとだった。
船は流れに乗って西へ進み、アルも隣で同じ方向を見ている。
川が曲がる先では陽が水面へ落ち、その向こうを白く眩ませていた。




