第020話 残る場所
翌朝、森の入口を出た荷車がミュリエへ着く頃には、通りのあちこちで店じまいの音がしていた。
ゆうさんの店先には、鉢がいつものように並んでいた。留守の間も水をやってくれていたらしく、土が湿っている。わたあめは俺たちを待たず、その鉢を避けて水桶へ直行した。
聞き慣れた水音に、俺も少し肩の力が抜けた。
戦鎚を壁際へ預け、店へ入ってすぐ椅子へ腰を下ろした。脇腹が鈍く疼く。布の下へ手をやり、少し座り直した。
「やっぱり座ると痛いな」
「傷を引っ張らないように、ゆっくり動いてください」
奥の作業台で容器を開けていたゆうさんが、振り返りもせず返した。
「歩いてる時は、そんなでもなかったんだけどな」
「動ける間は、気にしないんでしょうね。サクさんは」
「我慢してたわけじゃないぞ」
向かいへ座ったアルが手控えを置き、何も言わないままこちらを見た。
「お前までその顔やめろよ」
「何も申し上げていません」
「言ってるのと同じなんだよ」
床を見ると、わたあめはもう店の隅へ腹を下ろしていた。俺もあいつくらい堂々と寝転がっていればよかった。
それぞれがいつもの位置へ収まったところで、ゆうさんは持ち帰った物を作業台へ広げ始めた。
境界痕で採った土の小瓶と、白い花を土ごと収めた容器が並ぶ。生物の残骸から掬った透明な液は少し離して置かれ、店に残していた黒芯鋼の破片も小皿へ出された。最後に、月晶杖の調整環を包んだ布が置かれる。
灰森で数日かけて拾ったものが、一つの作業台へ集まっている。
花の根元の土と、あの生物の液には似た反応が出た。黒芯鋼はまた少し違う。環の包みに目が止まり、俺はそこから視線を外した。
俺が黒芯鋼の小皿へ手を伸ばすと、ゆうさんは花の容器との間を少し広げた。
「そちらへ置いてもらえますか。土や液とは、反応が少し違っていましたから」
「一まとめにしたくなるんだけどな」
「僕もです。しまう箱くらいは、分けておきましょう」
黒芯鋼の皿を置きながら、昨日の標石を思い出した。あそこへ着く前から方位がずれ、帰ろうとすればゆうさんが遠く見えた。あの森を、また普通に採取へ使える日は来るのだろうか。
協会が森への立ち入りを止めたのは妥当だろう。
帰れる方法が見つかるまでは、試しに誰かを入れるわけにもいかない。
アルは手控えを開き、協会で聞いてきたことを書き足した。
救助を終えた晩に聞いた、等間隔の四回の音。
あれ以降、同じ音を聞いたという報告はない。昨日も境界痕で耳を澄ませたが、空間がおかしくなった時にも、生物が現れた時にも、四回の音は鳴らなかった。
「合図だったんかな」
俺が呟くと、アルは記録した時刻を見たまま少し考えた。
「誰かに聞かせるつもりだったのかも、分かりません。あの時は、次を待っているうちに終わってしまいましたから」
「機械か何かが動いた音なら?」
「それならあり得ます。ただ、音源そのものを見ていません」
「じゃあ置いとくか」
アルは音の記録を閉じ、別の紙を取り出した。
ゆうさんが作業台の端を空けると、アルが地図を広げた。
昨日見た透明な液は、坂の下へ落ちず、花の根を伝って西へ集まっていた。地図では、その先にいくつか沢がある。外へ出ればミュリエ周辺の水路へ混ざり、やがてアーヴェル河へ繋がる。
ゆうさんの指が何本かの細い線を辿り、太い川筋へ出たところで止まった。
その先にレヴァンがある。
あの液がそこまで届くのかは分からない。森の中で消えているのかもしれなかった。
俺は、風もないのに西へ傾いた白い花を思い出した。
「レヴァン側で似た話が出てるか、こっちから聞ける?」
「協会から、聞いてもらえますよ。水路のことなら、向こうの河川管理所や船着場に話が来ているかもしれません」
ゆうさんは地図から顔を上げた。
「細かい記録までは送れませんから、詳しく聞くなら、向こうへ行くことになるでしょうけど」
「だよな」
俺はレヴァンと書かれた場所を見た。
調整環が見つかったのは灰森だ。くーちゃんがレヴァンへ向かったと分かったわけではない。
それでも、あちらで何か起きていないかは知りたかった。
「俺、レヴァン行くわ」
アルは驚かなかった。
手控えを閉じ、当然のように自分の荷物が置かれた方へ一度視線をやる。
「私も行きます」
「即答だな」
「考えた上です。マスターだけで行かせる方が、私には余計な心配が増えますので」
森で一人で先へ出ようとした時、腕を掴まれた感触がまだ残っている。
あのあとで、余計な心配などするなとは言えなかった。
「じゃあ、協会に照会だけ頼んどくか。返事が間に合えば、その内容も持っていけるし」
言いながら顔を上げると、作業台の向こうにゆうさんがいた。
何となく、次も三人で行くつもりになっていた。
ゆうさんの後ろには薬草が吊られ、棚には商品が並んでいる。わたあめも、いつの間にか寝息を立て始めていた。
「ゆうさんはどうする?」
作業台へ向けていた手が止まった。
ゆうさんは並べた容器を見てから、こちらを向いた。
「僕はここに残ります」
声に迷いはなかった。
「店を開けながら、灰森の様子を見ておこうと思います。新しいものが見つかれば、協会から話も来るでしょうし。町の水路に変化がないかも、気になりますから」
俺は頷いた。こちらで何か変わった時に、ゆうさんから知らせが来るなら助かる。
「分かった。そっちは頼む」
ゆうさんは月晶杖の調整環を包んでいた布の端を直しかけ、そのまま指を止めた。
「……そういう返事をするところは、変わりませんね」
「今の?」
「ええ。あっさり任せてくださるんだなと思って」
何かまずかったかとアルを見たが、口を挟む様子はなかった。
ゆうさんは少し困ったように笑い、布から手を離した。
「昔、皆さんのところへ、あまり顔を出せなくなったことがありましたよね」
言われて、俺にも覚えがあった。
ゲームをやっていた頃の終わりの方。いつもの場所へ行っても、ゆうさんがいない日は少しずつ増えていた。忙しいんだろうくらいに思って、それ以上気にした覚えはない。
「あの頃は、調合の仕事が増えていたんです。一緒に出掛ける予定を、何度か断ってしまって」
俺が「最近ゆうさん来ないな」と思っていた頃にも、こっちでは仕事があったのだ。
「自分で決めたことでしたし、あの時は、それでよかったんですけど」
ゆうさんは作業台へ視線を落とした。
「クロさんがいなくなって、そのあとサクさんとくるみさんまで帰らなくなって……もう少し顔を出していたら、何か気付けたのかなって。あとになって、そんなことを考えてしまって」
ゆうさんは布の端を折り直した。
俺は椅子へ座ったまま店の中を見回した。
壁際には乾かした花と薬草。窓辺には世話のされた鉢が並び、作業台には持ち帰った試料が増えている。わたあめは床へ横倒しになり、太い腹をゆっくり上下させていた。
「俺が来た時、ここにゆうさんがいて助かったよ」
眼鏡の向こうの目が上がる。
「それじゃ駄目か?」
しばらく返事はなかった。
アルも口を挟まず、店の外を誰かが通る足音と、床から聞こえるわたあめの鼻息だけが間へ入った。
やがて、ゆうさんが眼鏡を押し上げる。
「できれば、それをあの頃にも聞きたかったですね」
「昔の俺、何て言ったの」
「『来たくなったら来ればいいじゃん』と」
俺は一度考えた。
「……まあ、言いたいことは近くね?」
「ええ。でも、ずいぶんあっさりでしたよ」
「雑だなあ」
「自覚はあるんですね」
今の俺に言われても困る。
横を見ると、アルまで視線を逸らしていた。どうやら俺の知らない俺には、まだ掘れば出てくるものがありそうだった。
ゆうさんは小さく笑ったあと、もう一度作業台へ向き直った。
「灰森のことは、僕に任せてください。二人には、レヴァンをお願いします」
「了解」
「何か見つけたら、こちらにも知らせてくださいね。離れていても、手伝えることはあると思いますから」
「分かった。俺も連絡するよ」
「『あとでまとめて』と思って、忘れないでくださいね」
アルが静かに頷いた。
「私も覚えておきます」
「そこ俺を監視する側で結託すんなよ」
「念のためです」
結局、味方は増えなかった。
照会の文面を協会へ届けてもらうと、ゆうさんは試料の保存へ戻った。境界花を冷暗所へ移しながら透明な液の封を重ね、黒芯鋼も別の布へ包み直していく。
俺も椅子から立とうとしたが、脇腹へ力を入れたところを見られた。
「サクさんは、そのまま休んでいてください」
「これくらい手伝えるって」
「明日、出発するつもりでしょう。ここで傷を開かせたら、僕も送り出せませんよ」
反論を探している間に、アルが俺の鞄を持ち上げ、奥の部屋へ運んでいった。
俺もあっちへ行けということらしい。
「お前まで手際よく参加すんなよ」
「適材適所です」
仕方なく店の奥へ引っ込んだ。
開けた窓から、花と湿った土の匂いが入ってきた。少し離れた家で食器を片付ける音がしている。通りの声も次第に減っていく。
横になってしばらくしても、店側から物音が続いていた。
瓶を置く音に、木箱の蓋を閉じる音。ときどき、わたあめが寝返りを打ったらしい重い音もする。
扉の隙間から細い灯りが入っている。
水を取りに出ると、ゆうさんはまだ作業台へ向かっていた。容器の中を確かめ、手控えに何か書き付けている。
その少し手前では、アルが小さな卓へ地図を広げていた。
灰森から何本もの細い水路が西へ伸び、やがて一本の太い川へ集まっている。その流れを目で追えば、先にある都市の名は暗い部屋でも読めた。
レヴァン。
「照会で何も分からなくても、行くつもりだから」
俺が水差しを持ったまま言うと、アルは地図から顔を上げた。
「分かっています。私も準備しておきます」
それだけ確認すると、アルはまた地図へ視線を戻した。
奥では、ゆうさんが別の瓶を作業台へ置く。
瓶の横には、明日売るらしい薬の包みも並んでいた。
俺は水を一杯飲み、部屋へ戻った。
店側では、もう一度瓶を置く音がした。




