第019話 西へ傾く花
月晶杖の調整環をゆうさんの容器へ収めたあとも、右手にはしばらく違和感が残っていた。
空いた右手を何度か握って開く。細い軸を受け取るように動いた感覚だけは、まだ指に残っている気がした。
そんなことを考えながら標石の周囲を見ていたせいで、最初は自分が見間違えたのだと思った。
風はないのに、足元の境界花が揃って西へ傾いている。
白い花だけではなく、その間に生えた細い草まで同じ方向へ伏せているのに、頭上の葉はほとんど動かず、頬にも風は感じない。ここまで来る途中に見てきた方位の狂いや音の反響とも違う、初めて見る変化だった。
「アル」
名前を呼ぶと、彼女もすでに足元を見ていた。
閉じかけていた手控えを開き直す横で、ゆうさんが境界花の上へ手をかざす。袖口さえ揺れないことを確かめたあと、茎には触れずに立ち上がった。
「風は来ていませんね。上の葉も、ほとんど動いていません」
何が花を引いているのかは分からないが、答えが出るまでここへ居座る理由もなかった。
標石から外へ向かえば、帰路の最初の鉄杭が見える。その先の銀糸も、幹に塗った樹脂も残っていた。
「戻ろう。これ、眺めてたら分かる類じゃなさそうだ」
ゆうさんが頷き、わたあめの首元へ軽く手を置く。アルも楽器を背へ戻さず、片手で抱えたまま標石へ背を向けた。
ゆうさんが容器の入った鞄を抱え直したのを見て、俺は先に立った。
ところが最初の鉄杭へ向かって歩き出して間もなく、背後から石が割れたような乾いた音が響いた。
振り返っても標石に変化はない。
おかしいのは、その向こうにある森だった。
灰白色の木々が倒れたり動いたりしたわけではないのに、手前にある細い幹より、その奥に立つ太い木の方が近く見える。
さらに奥の地面だけが不自然に大きく迫り、ひとつの景色の中へ違う距離で見たものを重ねたように、奥行きの辻褄が合わなくなっていた。
どこが狂っているのか確かめようと目を凝らしたところで、アルの声が横から入った。
「目を離してください。見続けると、こちらの距離感まで合わなくなります」
「経験ある?」
「似た現象ならあります。ただ、ここまで露骨ではありません」
なら余計に帰った方がいい。
俺たちは歩みを速めたが、一つ目の鉄杭を越えたところで、今度は後ろから続いていた足音が途切れた。
ゆうさんとわたあめが躓いた気配はない。振り返ればどちらも立っているのに、さっきまで十歩ほどだった距離が、木々を何本も挟むほど遠くなっていた。
「ゆうさん!」
声を張ると、返事だけはすぐ近くから聞こえた。
「聞こえてます! でも、サクさんたちが急に遠くに……!」
声と見える距離が一致していない。
わたあめがこちらへ一歩出ようとしたものの、何もない空間へ鼻先を近づけたところで動きを止め、耳を伏せた。人間には見えない何かを、向こうに感じているらしい。
俺は近くの鉄杭を一本抜き、二人との間へ差し出してみた。
握っている杭の太さは変わらないのに、突き出した先端だけが細く遠のいていく。手元へ戻せば、さっきまでと同じ長さに見えた。
距離そのものが伸びているのか、見え方だけがおかしいのか、それすら判断できなかった。
「一度、音を送ります」
アルが弦を短く鳴らした。
俺には正面から薄く返ってきたように聞こえたが、遠くに見えるゆうさんは森の右奥へ顔を向ける。
「今の音、こちらでは後ろから聞こえました」
ゆうさんが振り向いた方には、木々しか見えない。
俺が向こうへ行って、足場を確かめるか。わたあめに無理をさせるよりは――。
杭を元の穴へ戻し、戦鎚を背から外した。足を出しかけたところで、腕を掴まれた。
「マスター」
「先に向こう見てくる。アルはここで――」
「それです」
普段より少し低い声で遮られた。
「今、何も言わずに一人で行くところでした」
「今言ったじゃん」
「私が止めたあとに、です」
返す言葉がなくなった。
アルは俺の腕を掴んだまま、顔を見ていた。掴まれた場所が、少し痛かった。
「……今度は、何も言わずにいなくならないでください」
俺は、踏み出しかけていた足を戻した。
「……分かった。アルもすぐ後ろに来てくれ。ゆうさん、そっちは少し待ってて。通れるところを探すから」
ようやく腕から指が離れた。
「最初からそうしてください」
「昔の俺にも言っといて」
「何度も言いました」
「前科多いな、俺」
それ以上を聞く暇はなかった。
遠くに見えるゆうさんの背後で、白い塊が持ち上がった。
最初は地面から岩でも迫り出したのかと思ったが、その塊の下から太い脚が伸び、落ち葉を押し退けながら身体を起こしたことで、生き物だと分かった。
「ゆうさん、後ろ!」
叫びに反応したのは、ゆうさんよりわたあめの方が早かった。
巨体を反転させ、その肩でゆうさんを押し退けるように横へ動かす。直後、白い生物の前脚がさっきまで二人のいた場所へ振り下ろされ、地面を深く抉った。
舞い上がった土の向こうで姿を起こしたそれは、四本の脚で胴を支え、その前方にもう一対、異様に長い腕のような肢を持っていた。全身は岩に似た白い殻で覆われているが、胸から腹へ走る亀裂だけが黒く、その隙間から見えるはずの肉や骨の代わりに、別の場所の灰森が覗いている。
動くたび、胴の輪郭が半歩ほど横へずれて見えた。
裂け目の向こうに別の景色が見えるような生き物を、俺は知らない。
だが、ゆうさんたちへ振り下ろす肢がある。それだけは、はっきり見えた。
「アル、向こうまで通れる場所探せる?」
すでに楽器へ手を置いていたアルが、間隔を変えながら三度音を送った。
返り方を聞き分けるように目を閉じ、数秒後、俺たちとゆうさんの間へ指を向ける。
「正面は駄目です。右へ三歩、その先からゆうさんへ向かってください。見た目より短く繋がっています」
「了解」
アルを見ると頷きが返り、楽器を抱えたまますぐ後ろへ付いた。
指示された通り右へ三歩ずれ、そこからゆうさんへ身体を向ける。
目にはまだ何十歩も離れて見えた。
それでも一歩踏み込むと、途中の距離が抜け落ちたように景色が近づいた。三歩目で白い生物の横腹が戦鎚の間合いへ入る。アルも続き、わたあめのそばへ抜けた。
間合いに入った途端、白い生物の長い前脚が横へ払われた。岩を束ねたような肢が木々をなぎ、折れた枝が俺たちの頭上を飛んでいく。
ゆうさんとわたあめは、まだそのすぐ後ろだ。
「アル、二人を頼む!」
「ええ。マスターは遠慮なくどうぞ」
穏やかな返事と一緒に弦が鳴った。重い旋律が背中を押し、踏み込んだ脚へ力が通る。
白い前脚が戦鎚を迎え撃とうと軌道を変えたが、俺はそのまま鎚頭をぶつけた。
衝撃が森に響いた。頑丈そうな殻が付け根から割れ、太い肢が根元を残して折れ曲がる。そのまま振り抜くと、破片と一緒に敵の巨体まで横へ押し出された。
四本の脚が土を削り、白い胴が木の幹へ激突する。
訓練場でも灰森でも気になっていた半拍の遅れは今もある。それでも、まともに受ければ肢を砕く威力は出る。相手は折れた前脚を引きずりながら、なおもこちらへ向き直った。
「まだ動くか」
「見た目以上に頑丈ですね。ですが、動きは鈍っています」
「十分だ。続けるぞ」
「ええ。こちらで拍子を合わせます」
アルの曲が変わった。先ほどまで背中を支えていた重い拍子が軽く跳ね、俺の次の踏み込みを早める。
一方、白い生物は残った長い前脚を振り上げかけて、わずかに動きを鈍らせた。間延びした音が、その大振りな動作へ薄くまとわりついている。
俺が横から胸を打つと、白い殻が大きく陥没した。支えの四脚が踏ん張るより早く、引き戻した戦鎚をもう一度叩き込む。
岩のような外殻が砕け、巨体が倒れかけたところで、胸から腹へ走る黒い亀裂が大きく開いた。
覗いたのは、肉でも骨でもない。今いる場所とは違う灰森の景色だった。
そこから黒い影が束になって飛び出す。
「マスター、右は見た目より近いです」
遠くに浮いているように見えた影が、アルの声とほとんど同時に目の前へ迫った。一本は戦鎚で叩き潰せたが、次の影の先が脇腹を掠め、服の下へ熱い線を残す。
「サクさん、血が!」
「浅い! ゆうさん、そっちは動かずに!」
傷へ手をやる暇はない。残った影は胴の脇をすり抜け、わたあめの方へ伸びようとしていた。
そこへ、細い銀色の線が斜めに走った。
アルの手元から伸びたワイヤーが、影を生み出す亀裂の脇、張り出した殻に絡む。
彼女は近くの木を支点に一度だけ引き、敵がこちらへ向き直ろうとした瞬間に張力を抜いた。
倒せるほどの力ではない。ただ、もともと鈍っていた大きな動きから、狙いを少し外すには十分だった。黒い影がわたあめの手前の地面へ突き刺さる。
その間も演奏は止まらない。低く乱れた旋律が、今度は敵の踏み直す間を奪っていた。
「相変わらず、嫌なところを突くな」
「相手に親切にする理由はありませんから」
「そりゃそうだ」
その返事がいかにもアルらしくて、昔の戦場を少し思い出した。彼女の音に乗せて動けば、俺は目の前の敵へ集中できる。
こちらが押し込んで生まれた隙を、アルは見逃さない。
白い生物が残った長い前脚を振り上げる。
アルのワイヤーを引きちぎろうと身体をよじったところへ、俺は正面から踏み込んだ。
回り込む必要なんかない。振り下ろされた肢へ、今度は戦鎚を下から叩きつける。骨とも石ともつかない音がして、最後の長い前脚が根元から砕けた。
支える四脚はまだ残っているが、敵は大きく頭を下げる形になった。
俺は戦鎚を引き戻さず、そのまま横へ回して胸を打つ。ひしゃげた白い殻の向こうで黒い亀裂が震え、わたあめより大きな身体が地面から浮く。
着地した敵は四脚を踏ん張り直し、こちらへ胸を向けた。亀裂の奥で白い光が膨らみ始める。
さっきの影とは違う。
光が強くなるほど、周囲の景色が胸へ向かって引き寄せられ、近くの境界花まで一斉に伏せた。
あれをゆうさんたちの方へ向けさせるわけにはいかない。
「アル、あれは止められるか?」
「少しなら。壊すのは、マスターのお仕事です」
「頼む」
弦の音が一瞬、途切れたように聞こえた。
《空白楽章》
その曲を知る俺には、次に何が起きるか分かる。白い生物は光を溜めたまま、こちらへ向けようとしていた胸の動きを一拍だけ失った。集まり続ける光に、狙いだけが追いつかない。
俺はその空白へ戦鎚を振り込んだ。
重さを逃がさず、真っ向から叩きつけた鎚頭が白い殻を突き破る。亀裂の奥で光が暴れ、巨体が地面へ叩き伏せられた。
土が跳ね上がり、近くの木の枝まで揺れる。相手が四脚を必死に突っ張って起き上がろうとするのが、柄を通して伝わってきた。
それでも、敵はまだ身体を起こそうとしていた。
ふと、口元が緩んだ。手強い相手へ全力で戦鎚を振るう感覚は、思いがけず懐かしい。
だが、胸の奥ではまだ危険な光が揺れている。あれを後ろへ通すわけにはいかなかった。
「マスター、まだ立ち上がります」
「見えてる。次で終わらせる」
「ええ。私も合わせます」
返事の代わりに戦鎚を引き抜き、俺はもう一度持ち上げた。半拍のずれは消えていない。だから、記憶にある振り始めを追いかけるのはやめた。今の身体が乗せられる力を、今の戦鎚が返す重さへそのまま繋げる。
最後の一撃を、胸の亀裂へ叩き込んだ。
轟音とともに、白い殻が内側から弾け飛んだ。黒い裂け目が潰れ、巨体を支えていた四脚が折れるように沈む。土煙が収まる頃には、白い生物は地面へ深くめり込んだまま、もう動かなかった。
戦鎚を引き抜き、肩へ担ぎ直す。腕にはまだ衝撃が残っている。脇腹はひりつくが、動くのに困る傷じゃない。
顔を上げると、アルはワイヤーを巻き取りながら、涼しい顔でこちらを見ていた。
「二人とも無事か?」
「ええ。わたあめも怪我はありません」
「ならよかった」
アルはワイヤーを巻き終えると、俺の脇腹へ視線を移した。そっちは見逃してくれそうにない。
「サクさん。傷を見せてください」
振り返ると、ゆうさんが俺の脇腹を見ていた。
「浅い」
「ええ。見てからなら、僕もそう言えるかもしれません」
「ですよね」
戦鎚を地面へ置き、傷を見せられるよう腰を下ろした。
傷は黒い影の先端が掠めただけで、深くはなかった。
ゆうさんが手早く洗って布を巻く間、わたあめは裂けた服へ鼻先を寄せていた。こちらも確かめてもらったが、怪我はないらしい。すぐに敵の残骸の方を向いてしまった。
「お前も大概だな」
首の辺りを叩くと、わたあめは気にした様子もなく鼻を鳴らした。
アルは少し離れたところから、倒れた白い生物と周囲の木々を交互に確認していた。
「距離は戻っています」
言われて見渡すと、確かにさっきまでゆうさんが遥か遠くに見えていた空間は消え、鉄杭も本来あるはずの距離に見えている。
「こいつ倒したから?」
「倒したあとに戻ったのは確かです。ただ、これが距離を狂わせていたのか、狂った場所へ現れたのかまでは分かりません」
ゆうさんは布を留め終えると、俺を座らせたまま残骸の近くへ移った。
胸を潰された白い生物は少しずつ形を失い始めていた。
白い殻の隙間から透明に近い液体が滲み出し、地面へ落ちていく。血のように土へ染み込まず、境界花の根元を伝いながら何本もの細い筋へ分かれていく様子を見て、ゆうさんが小さな容器を取り出した。
直接触れないよう一部だけ掬い、調べるための液を一滴落とす。
「境界痕の土に、似た反応が出ましたね。黒芯鋼とは違いますが……生き物の体液で、これは初めて見ました」
「境界生物って呼んでよさそう?」
「ひとまず、そう呼んでおきましょうか。名前がないと、話もしにくいですし」
そこまで確認したあとも、ゆうさんは地面を流れる液体から視線を離さなかった。
何本かに分かれた細い流れは、斜面の低い方へ素直に落ちるのではなく、白い花の根を拾いながら一方向へ集まっている。
俺たちが最初に見た時、風もないのに境界花が傾いていた方向と同じだった。
「西か」
俺は腰を上げ、地図を開いたアルの横へ寄った。
境界痕の西側には灰森を抜ける細い沢がいくつかあり、さらに外へ出ればミュリエ周辺の水路へ合流する。その先をゆうさんの指が辿っていくと、大きな河川へ繋がった。
「アーヴェル河へ入りますね。この辺りの水は、そこへ集まるんです」
川の名前には覚えがあった。
リュネールから西へ流れ、水運に使われている大きな河川だ。
「その先は?」
アルが地図を少し引き寄せ、太い川筋を西へ追った。
「レヴァンですね」
俺も川筋を辿った。ずいぶん遠い。
あの液が本当にそこまで流れるのか。目の前の細い筋と、地図の太い川は、まだ結び付けようがなかった。
試料と地図を片付け、俺は戦鎚を背負い直した。ゆうさんたちと一緒に、杭の並ぶ方へ戻る。
距離の異常はその後再発せず、鉄杭も銀糸も順番通りに見つかった。境界痕から離れるほど白い花は減り、やがて木々の向こうに森の外の光が見えてくる。
入口の休憩所へ戻る頃には日もかなり傾いていた。
境界生物の出現を聞いた協会員は、すぐに町へ連絡を入れた。今夜はここへ泊まり、俺たちも明朝の荷車でミュリエへ戻ることになった。
夕食を待つ間、俺は何度か西の空を見た。
長椅子へ腰を下ろすと、脇腹が少し痛む。
向かいではアルが地図を開き、ゆうさんと水路を確かめていた。
ゆうさんの指が川の合流点で止まり、そこから先をアルが追う。
その先に、水都レヴァンがある。
俺は脇腹を押さえながら、地図の西側に書かれたその名前をしばらく見ていた。




