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第018話 右手だけが知っていた

 翌朝、ミュリエを出たのはまだ町の店が半分も開いていない時間だった。

 今回は冒険者協会の荷車へ、調査用の道具と食料をまとめて載せた。俺たちも荷台の空いたところへ腰を下ろす。灰森へ着いてから歩く分の体力は、残しておきたかった。

 荷車が動き出すと、わたあめも後ろから付いてきた。

 太い脚で歩きながら、ときどき道端の草へ顔を向けている。荷台から見下ろしても、背中がすぐそこにあった。


 灰森までの道は、今回も何も起きなかった。

 前に休んだ水場を通り、畑が減っていく道を進む。最後に道が細くなる場所も同じだった。

 昼を少し過ぎた頃、灰白色の木々が前方へ見え始めた。

 入口の休憩所には、俺たちが帰った時より多くの杭が置かれていた。

 協会側では、朝から灰森の外縁を測り直していたという。北側の入口と、俺たちが脱出した南側の薪道。ほかにも外から確かめられる場所を測り、地図へ印を足していた。

 森の外では、測った距離に妙なところはなかった。

 入口同士の位置関係も以前の記録とほぼ一致し、灰森そのものが丸ごと伸び縮みしている形跡もないという。

 中へ入った途端、そのまともな地図が役に立たなくなるのだから面倒な話だ。


「境界痕は、この入口から見ると北西寄りです」


 協会員が地図の上へ定規を置き、外で取り直した二つの基準点を使って方角を示した。


「普段はこの採取路から入って、途中で西へ分かれる巡回路を使います。ただ、今回は道を信用しないという話でしたので、入口の外で方向だけ合わせます」

「そのつもり。中で曲がったら、曲がったことが分かるようにしたい」


 俺が持ってきた鉄杭を地面へ並べると、協会員は長さの違いを見て少し首を傾げた。


「全部わざとですか?」

「長さと刻みが違えば、見覚えがあるだけの杭とは取り違えにくいだろ」

「そこまで必要になる森じゃなかったんですがね」

「俺らもそう聞いて入ったんだけどな」


 男は杭を見比べ、一本ずつ手渡してくれた。

 外側の草地へ杭を二本打ち、長い縄で間隔を測った。

 そこから地図上の境界痕へ向く角度を取り、三本目を打つ。森の中へ入ってから方位を測る道具が狂っても、最初に向いていた方向そのものは外側の三本で残る。

 さらに最初の区間だけは、三本目から縄を森へ伸ばした。

 縄が届く間は、木を避ける必要があっても進んだ距離と横へずれた量を測れる。そこから先は新しい杭を二本ずつ視界へ残し、後ろの二本が一直線に見える位置へ次を置いていく。


「前もこうしとけば、もう少し早く出られたかな」


 縄の端を杭へ結びながら口にすると、アルは銀糸を結んだ木からこちらへ戻ってきた。


「帰る方角だけでは、途中に何があるか分かりませんでしたから。トルさんも運んでいましたし」

「それもそうか」

「でも、次は試せます。一度、藪を抜けて帰れましたから」


 俺は縄を引き、杭の間にたるみがないことを確かめた。


 森へ入ってしばらくは、俺たちが作った線に大きな乱れはなかった。

 採取路を外すので歩きにくいが、三日前にトルを運んでいた時よりは身軽だ。枝の密集した場所だけ迂回し、縄で横へずれた距離を測ってから元の線へ戻った。

 鉄杭を打つ間隔は、捜索の時より広くした。

 二本先まで見通せれば、並びがずれたことにも気付きやすい。


 最初に変化へ気付いたのはアルだった。

 境界痕までまだかなり距離があるはずのところで、周囲を確かめるために短く鳴らした弦の音が、右前方ではなく左側から薄く返ってきた。

 本人はすぐに二音目を出さず、少し位置を変えてから同じ高さの音をもう一度送った。

 今度はほぼ正面から戻る。


「もう音がおかしくなっていますか?」


 近くにいたゆうさんが足を止めると、アルは耳を澄ませたまま、最初に音が返った方向と現在地を見比べた。


「今は戻りました。ただ、こんなに外側で食い違った覚えはありません」


 境界痕の近くなら、音がおかしくなることもあると聞いていた。

 俺たちは位置を手控えへ残し、少し進んだところでもう一度確かめた。今度はゆうさんの方位を見る道具も、外で合わせた方向からわずかに外れている。

 杭を使って作ってきた直線そのものは変わっていない。

 後ろを振り返れば、最後の二本はきちんと重なって見える。

 それなのに、道具が指す北だけが少しずつ横へ逃げていた。


「前はどこから狂った?」


 俺が尋ねると、ゆうさんは道具を手のひらへ載せたまま、周囲の木々を見た。


「標石が近くなってからですね。こんなにはっきり針がずれるなら、僕も覚えていると思うんですが」


 ゆうさんは針が向いた方角を手控えに書き、道具をしまった。

 さらに進むと、白い境界花が見え始めた。

 岩壁で見つけた時とは違い、ゆうさんも驚かなかった。

 この辺りまで来れば本来生えている花らしく、木の根元や石の間へ数株ずつまとまり、灰色の土の中で白い花弁を開いている。


「同じ?」

「ええ。店へ持ち帰った花も、これと同じものです」


 ゆうさんは葉と茎を確かめ、一株だけを土ごと容器へ収めた。その脇の土も少し採り、別の小瓶へ入れる。


「ここの土も持って帰りますね。岩壁の方と比べてみたいので」


 ゆうさんは容器に札を付けてから鞄へしまった。

 境界痕の標石が見えたのは、それから一時間ほど歩いた頃だった。

 木々の間へ、人の腰より少し高い灰色の石が立っている。

 自然石ではなく、四面を粗く削った柱の形をしており、表面には風雨で薄くなった線がいくつも刻まれていた。少し離れたところにも同じものが見え、境界痕の周囲を囲むように置かれているらしい。

 ゆうさんは標石を見て、地図に記された位置と形が一致していることを確かめた。


「着いたな」

「ええ。この標石は覚えています」


 俺も地図と石を見比べた。森の中で現在地を指せるのは、ずいぶん久しぶりな気がする。

 振り返れば、藪の間に俺たちが並べた杭が見える。

 今回は、この線を辿って帰りたい。

 標石の向こうへ目を向けても、景色が急に別物になるわけではない。

 同じ灰白色の木が続き、地面には落ち葉と低い草がある。

 ただ、境界花の数は明らかに増え、木々の間隔も外側より少し広かった。風が止んでいるわけではないのに、葉の擦れる音が妙に遠く聞こえる。

 アルが小さく弦を鳴らすと、今度は正面へ送った音が一度右から戻り、少し遅れて左奥からもう一度聞こえた。


「これは昔から?」

「ええ。この辺りでは、前からあります」


 ゆうさんが標石の内側を見ながら頷いた。


「音も方位も、ここまで来るとあてになりません。地元の採取人も、標石より奥へは入らないようにしているんです」


 標石の外側と内側から土を採り、境界花の数を手控えへ残す。

 アルは音の返る方向を何度か変えて記録し、俺は外から並べてきた鉄杭の最後の一本を標石の手前へ打った。

 ここまで来る途中で、杭が別の場所へ移った形跡はない。

 距離は地図から予想したものより少し長かったが、藪を避けた分を足せば大きな差ではなかった。

 歩いた距離も、立ち止まっていた時間も、手控えで辿れる。今のところ、同じ杭の前へ戻されることはなかった。

 俺が最後の杭を打ち終えたところで、ゆうさんが少し離れた標石の根元へしゃがみ込んだ。

 境界花を見ているのかと思ったが、視線は花よりさらに下にある。


「サクさん。ここにあるの、金属でしょうか」


 呼ばれて近づくと、雨で土が少し流れたらしい窪みに、小さな銀灰色のものが覗いていた。

 指で輪を作ったくらいの大きさで、半分ほど土へ埋まっていた。

 何かの留め具か、道具の部品に見えた。


「掘る?」

「まず、周りの土を少し落としましょう。何かに繋がっていたら、そこで止めてください」


 ゆうさんが細いへらで周囲の土を崩し、俺は露出した部分だけを指で支えた。

 少し動かすと、抵抗はすぐになくなった。

 地中の設備に繋がっていたわけではない。

 土から出てきたのは、小さな金属の環だった。

 使い道を考えながら、手のひらへ載せた。

 右手の指がひとりでに環の縁をなぞり、向きを変えた。

 少し内側へ。親指と人差し指が位置を直すと、ぴたりと収まった。


「マスター?」


 アルに呼ばれ、ようやく自分が黙り込んでいたことに気付いた。


「ちょっと待って」


 環を持ったまま、右手を開く。

 目の前には標石も、二人もいる。それを見たまま、右手だけに細い軸を握ったような感触が残っていた。

 細い軸を握る形に指が閉じ、手首がほんの少し内側へ回る。そこへ環を合わせると、親指と人差し指が迷わず向きを直した。


 何かを思い出したわけではない。それでも、この手はこの部品の扱い方を知っている。

 指の動きが止まると、手の中には小さな金属環だけが残った。

 心臓が妙に強く打っている。

 もう一度環を指で回し、さっき右手が選んだ位置へ戻す。

 細い杖へ嵌める調整環だ。握った時に生じるわずかなずれを逃がす。その向きまで、指先で確かめられた。


「これ……杖の調整環だ」


 口にしてから、環をもう一度見る。

 頭に浮かんだのは、くーちゃんが使っていた月晶杖だった。


「月晶杖の部品ですか?」


 アルの表情から、普段の薄い余裕が消えた。


「たぶん。でも、俺がこれを見た覚えはない」


 ゲームの画面で、月晶杖そのものは何度も見ている。だが、こんな小さな部品まで映っていただろうか。


「形を覚えているのですか?」


 アルはすぐ環へ手を伸ばさず、俺の顔を見ていた。


「覚えてるって感じじゃない。細い杖を握るみたいに手が動いて、手首を少し内側へ回したら、この向きで収まった。何に使うかも、触ったら分かった」


 言いながら、もう一度同じように右手を動かしてみる。

 今度は、勝手に指が動くことはなかった。


「俺、何でこれ知ってんだ?」


 問い掛けた相手は二人だったが、答えを持っていないことは分かっていた。

 アルは少しの間黙ったあと、ようやく環へ視線を落とした。


「マスターが、くるみさんの装備を調整していたのは覚えています。ただ、この部品まで扱っていたかどうかは……」

「俺がやってた?」

「ええ。ですが、今の動きについて私が知っていることはありません」


 アルはそこで口を閉じた。

 俺も環へ目を落とし、もう一度指で向きを確かめた。

 やはり迷わなかった。

 ゆうさんは俺たちの話を聞きながら、環が出てきた土の状態を確認していた。


「しばらく、ここに埋まっていたみたいですね」


 根元に残った跡を細い棒で示す。


「下の土もしっかり固まっています。ただ、何年前のものかまでは、これでは分かりません」

「くーちゃんが最近ここへ来た証拠にはならない、ってことだな」

「……ええ。そこまでは、言えません」

「分かってる」


 いつ落ちたかは分からない。これを握ったところで、近くにくーちゃんが現れるわけでもない。

 それでも、指先が覚えている向きは変わらなかった。

 ゆうさんが用意した布へ環を置く前に、もう一度だけ指で触れた。

 今度は何も起きなかった。

 さっきのように右手が勝手に動くこともない。


「記録にはどう書く?」


 俺が聞くと、アルは手控えを開いたまま少し考えた。


「まずは見つけた場所と形を。月晶杖の調整環かもしれない、と添えておきます」

「俺の方は?」

「用途と向きが、触っただけで分かったこと。それから、右手が杖を扱うように動いたことを」

「その書き方、めちゃくちゃ怪しい人みたいだな」

「そうお話しになったのは、マスターですよ」

「ごもっとも」


 口元が少し緩み、詰めていた息が抜けた。

 ゆうさんが布包みを容器へしまうのを、俺は目で追っていた。

 俺たちは標石の周囲をもう少し調べた。

 金属環以外に人工物は見つからず、地面にも誰かが最近歩いたような跡はない。

 境界花の分布と土の反応を記録し、音と方位の異常が標石の外側まで広がっていた位置も地図へ落とした。


 帰る前に、俺は標石の向こうを見た。

 そこから先にも灰白色の木々が続いている。

 昔から地元の人間が避けてきた範囲で、今までならわざわざ入る理由のなかった場所だ。

 今日はそこへ踏み込まない。

 ここまで辿り着けたからといって、さらに奥まで試す気にはなれなかった。


 俺は標石の手前の杭を確かめ、来た方へ向き直った。

 最後に、自分の右手へ目を落とした。

 さっきまで環のあった手のひらには、土が少し付いている。

 環を収める向きだけは、まだ指が覚えていた。

 何も持っていない手を、一度握って開いた。


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