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第016話 誰もいない森から

 森を出たあと、道は最後まで普通だった。

 薪運びに使うという作業道をセドの案内で進めば、森の南側を回るようにして太い街道へ合流し、そこから灰森の入口までは地図に描かれた通りの距離で繋がっている。途中で同じ木を二度見ることもなければ、歩いていた方向と違う場所へ出ることもなかった。

 地図で確かめた曲がり角へ着くと、その先にちゃんと別の道が見える。しばらく歩くうちに、後ろを振り返る回数も減っていた。

 

「外へ出るだけで、こんな安心する森だったっけ」

 

 わたあめの背中でトルがぼそりと漏らすと、少し前を歩いていたセドが肩越しに弟分を見た。

 

「普通は、中にいる時もこんなこと考えないんだよ」

「俺も昨日まではそうだったよ」

「お前にとっては今日だろ」

「そういうの今いらない」

 

 トルは膨れた顔で水筒を開け、残っていた乾燥果物を口へ放り込んだ。

 顔には疲れが出ているが、二日も食わずにいた人間のようには見えない。ゆうさんに勧められた水も、少しずつしか飲まなかった。

 灰森の入口が見えた頃には、陽がかなり西へ傾いていた。

 昨日泊まった休憩所の周囲には朝より荷物が増え、協会の腕章を付けた人間が何人か出入りしている。

 俺たち以外の捜索班の一つはすでに戻っているらしく、森の前に広げられた地図へ今日調べた範囲を書き込んでいるところだった。

 最初にこちらへ気付いたのは、昨日から拠点に残っていた男だった。

 俺たち六人を数えるより先に、わたあめの背中へ乗っているトルを見て足を止め、その後ろにいるミナとセドまで確認すると、持っていた鉛筆を地図の上へ置いた。

 

「三人ともか?」

「三人とも。怪我はあるけど、全員生きてる」

 

 それだけ伝えると、男の肩から目に見えて力が抜けた。

 すぐに救護用の敷物と水が用意され、トルはわたあめから下ろされて休憩所の中へ運ばれた。ゆうさんが森の中で処置した内容を説明している間にも、別の協会員がセドの腕を確認し、ミナにも怪我や体調不良がないか順番に聞いていく。

 地図を囲んでいた捜索班も手を止めた。遅れて戻ったもう一班にも三人の無事が伝わり、捜索中止が決まると、男はまだ森に残っている班がないか記録を確かめ始めた。

 トルたちの状態が落ち着いたあと、俺たちは休憩所の外にある長机へ集まった。

 上には協会の地図と、俺たちが残した簡単な手控え、セドが覚えている採取路を書き加えるための紙が並べられている。

 森の中で現在地を置けなくなった地図も、外へ出ればまた使えた。

 

「ここが入口です」

 

 セドは普段使う北側の採取路から指を滑らせ、途中で一度止めた。

 

「俺たちが最初に道がおかしいと気付いたのは、この辺りだったと思います。そこから先は自信がありません。川へ出た場所も、地図通りならもっと東のはずですが、実際にどの川を見ていたのかまでは……」

「最後に出てきた場所はここで間違いない?」

 

 俺が南側を指すと、セドは迷わず頷いた。

 

「薪道へ出た位置なら分かります。外からなら何度も通っていますから」

 

 入口と、最後に抜けた作業道。その二点を結ぼうとして、俺は指を止めた。

 途中には、外の消えた標柱も、歩いて戻された分岐もある。トルを見つけた道など、行きと帰りで景色が違っていた。

 最後はわたあめの向く方へ藪を抜けたが、それでこの二点の間をどう歩いたことになるのか。

 

「今日、ほかの班で道がおかしくなった人は?」

 

 アルは地図から顔を上げ、戻っていた二班の記録へ視線を移した。

 昨日、北の採取路から東側の目印へ出た班とは別の人間も混じっているらしく、協会の男が記録を確かめながら答えた。

 

「一班は特に何もなし。もう一班は同じ道を通ったはずなのに、帰りだけ予定より早く入口へ着いたと言ってる。ただ、距離を測りながら歩いたわけじゃないし、昨日みたいに別の目印へ出たわけでもない。今までは本人たちの感覚の問題として扱ってた」

「今は?」

「三人が二日消えて、あんたらまで入口を見失ったって話を聞いたあとで、同じ扱いにはできんだろ」

 

 男は地図の上で鉛筆を転がし、森の範囲へ目を落とした。

 

「少なくとも明日から、普段通りの採取地として開ける話じゃなくなった」

 

 そこには俺も異論がなかった。

 入口の印まで戻れたのに、外へ出られなかったのだ。

 人数や装備を増やしたところで、あの向こうへ街道が戻ってくるわけではない。

 ゆうさんは話が一段落したところで、森から持ち出した二つの容器を机へ置いた。

 一つには岩壁で採った白い境界花。

 もう一つには、布へ包んだ黒芯鋼の破片が入っている。

 

「境界花です。セドさんたちを見つけた岩壁に、まとまって咲いていました。セドさんが十日前に来た時には、なかったそうです。境界痕から離れた場所で、あんなに見ることはないんですが」

 

 男は花を覗き込み、セドにも岩壁の場所を確かめた。

 

「もう一つは?」

「そっちは俺から説明する」

 

 ゆうさんから包みを受け取り、机の上へ開く。

 指二本分ほどの黒い破片には、森で見た時と同じ白い筋が残っている。運んでいる間に崩れた様子はないが、欠けた端をよく見ると、黒い層の中へ細かな白いものが入り込んでいるのが分かった。

 

「黒芯鋼。少なくとも材料自体は間違いないと思う。ただ、俺が知ってる黒芯鋼はこんな崩れ方しない」

「何に使われてた物かは?」

「分からん。大部分は地面の中だった。板みたいな形だったけど、設備の一部か、昔捨てた部材かも判断できないから、場所だけ残してそのままにしてる」

 

 協会の男は、金属板が出ていた場所の特徴も書き留めた。

 

「その材料、調べられるか?」

「道具があればもう少しは。鍛冶場が欲しいな。割った断面と、熱を入れた時の反応は見たい」

 

 口に出してから、破片の断面へもう一度目を落とした。

 最初は自分の手が何を始めるのかさえ分からなかった。今は、炉と金床があれば何を試せるか、俺の方で考えている。

 破片を布へ包み直した。

 三人は今夜ここで休み、明朝の荷車でミュリエへ戻ることになった。トルの脚とセドの腕も、その前にもう一度診てもらう。協会員は通信器で町へ救助を報告し、そのまま家族への連絡と迎えの手配を頼んでいた。

 それを聞いたミナが、ようやく本当に力を抜いたように見えた。

 休憩所から出て半日のつもりでも、町の家族は二晩を過ごしている。ミナは弟のそばへ戻り、迎えが来ることを伝えていた。

 俺たち三人についても、今日はもう森へ入るなと釘を刺された。

 

「言われなくても入らんよ。さすがに」

 

 俺が答えると、向かいで地図を畳んでいたアルが手を止め、少しだけ意外そうにこちらを見た。

 

「何だよ」

「いえ。昔のマスターを基準にすると、少し意外でした」

「昔の俺、そんな無茶してた?」

「最前線の攻略へ出る前は、いつもそうでした。全員分の装備を確かめて、帰り道まで決めてしまうんです」

「それだけ聞くと優等生だな、俺」

 

 アルは畳みかけていた地図の端を揃えながら、こちらをちらりと見た。その目が少し笑っている。どうやら、褒め言葉だけで終わらせるつもりはないらしい。

 

「準備が済んだ途端、誰より先に敵へ向かうところまで含めれば、そうでもありません。止めようにも、文句をつける隙がありませんでしたから」

「前に出る役だったしな。クロも一緒によく走ってたっけ」

「はい。《月灯り》と《星の標》が一緒に攻略へ向かうとき、先頭で決めるのは大抵お二人でしたから」

 

 アステリオンの《夜航》。二つのギルドを母体に、当時の最前線を進んでいた連中だ。俺は《月灯り》のマスターとして、クロは《星の標》のマスターとして、その攻略を一緒に率いていた。

 そういえば、どこへ行くかを決める話では、俺とクロの意見が割れてずいぶん騒いだこともあった。

 

「なのに今は、森の入口を探して右往左往してんだからな」

「攻略する相手が違います。森そのものを戦鎚で倒すことはできませんよ」

「分かってる。できるならもうやってる」

 

 アルがほんの少し笑った。

 準備だけ先に済ませておくくらいなら、俺もやりそうだった。ただ、今日はもういい。試料も記録もあるし、次に入るにしても先に調べることがある。


 夕食は、昨日と同じ休憩所の前で取った。

 捜索が終わったことで人数は少し減り、森へ入っていた班も今日は早めに休むらしい。鍋から配られた簡単な汁物と固いパンを食べながら、俺はようやく朝から何もまともに食べていなかったことに気付いた。


 トルたちは休憩所の中にいる。

 ミナとセドはパンを分け、トルは配られた椀を見て「さっきも食ったのに」とぼやいていた。ゆうさんに食べられる分でいいと言われると、ほっとした顔で匙を取った。


 森の外では、夕方がちゃんと夜へ向かっている。

 空の色が落ち、木々の輪郭が暗くなり、休憩所の周りには明かりが一つずつ増えていく。

 トルたちにとっては、あれから初めての夜だ。

 同じ森を歩いた俺は、ちゃんと腹が減っている。空になった椀を重ねながら、どうにも落ち着かない気分になった。


 食事を終えたゆうさんは、明かりの近くで境界花の容器を見直していた。

 土ごと採った株は、花びらも閉じずにいる。アルはその隣で手控えを整理し、俺は少し離れた場所へ腰を下ろして戦鎚を膝に置いた。

 森の中で戦った時に付いた泥を布で拭きながら、鎚頭や柄の接合部に傷がないか確かめる。

 目立つ傷も、緩みもなかった。

 森の魔物を叩いた時の衝撃も、鎚頭にはほとんど残っていない。昔、強敵へ何度も振り下ろしたあの手応えを思えば、今日の戦いで武器を壊す心配はなさそうだった。


 柄を握ると、最初の一撃で感じた遅れが思い出された。

 二発目からは合わせられたが、そのたびに取り繕うのは危ない。

 身体の動かし方が昔と違うのか、それとも武器の重心にまだ俺が合わせ切れていないのか。鍛冶場を借りるなら、こいつも見ておこう。


 鎚頭を拭き終えたところで、森の方から音がした。

 硬いものを叩いたような、短い音だった。

 手控えを見ていたアルも顔を上げた。ゆうさんも、容器へ伸ばした手を止めている。

 音は森の奥から来たように聞こえた。

 木を割る音より高い。金属へ硬いものを当てた時の響きに近かった。

 俺たちが黙ったまま森へ耳を向けていると、少し間を置いてもう一度、同じ音が届いた。

 最初とほとんど同じ間隔で三度目が続き、さらにそのあと、もう一度だけ鳴った。

 カン、カン、カン、カン。

 四回とも、強さも高さもほとんど変わらなかった。

 休憩所の近くにいた協会員も何人か森を見ていた。

 

「今、中に誰か残ってる?」

 

 俺が尋ねると、昼から拠点にいた男は森へ視線を向けたまま首を振った。

 

「今日入った班は全部戻ってる。救助が終わった時点で、追加で入るのも止めた」

 

 男は周りの協会員にも目を向けたが、誰も心当たりはないらしい。

 アルは椅子から立ち上がり、森の入口へ近づきすぎない位置で耳を澄ませた。楽器には触れない。今こちらから音を出せば、次の音と重なるかもしれなかった。

 その場にいた全員が、しばらく森の音を待った。

 五回目は来なかった。

 

「距離、分かる?」

 

 声を落として尋ねると、アルはすぐには答えず、暗くなり始めた木々の間を見たまま考えた。

 

「正確には分かりません。近くはなさそうですが、今の森では、響きだけで距離を測るのは難しいです」

「だよな」

 

 ゆうさんも容器を閉じ、森の方へ視線を向けていた。

 

「昨日の晩は、こんな音はしませんでしたよね」

 

 声を出さずに頷き、膝の上の戦鎚へ目を落とした。

 似た音なら、鍛冶場で何度も聞く。

 誰かが叩いているのだろうか。だが、今日森へ入った人間は、全員戻っているという。

 ゆうさんが容器を鞄へしまう音に、思わず顔を上げた。

 森からは、それきり何も聞こえなかった。


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