第6話
「おのれ……おのれぇぇぇっ!! 認めん、こんな屈辱、俺が受けていいはずがないっ!」
泥水に顔を押し付けられながら、オーデルは獣のような咆哮を上げた。
エスカマインの三女に見下ろされ、虫けらのように這いつくばる己の姿。勇者の末裔としての誇りも、次期国王としての威厳も、すべてが粉々に砕け散っていく。
その絶望的な屈辱が、彼の理性を完全に焼き切った。
「こうなれば、道連れだ……っ! 貴様ら全員、跡形もなく消し飛べ!!」
重圧の中で、オーデルは血の滲む指先を震わせ、懐から赤黒く脈打つ禍々しい宝玉を引きずり出した。
ランドール王家に伝わる『勇者の秘宝』──強大すぎるがゆえに厳重に封印されていた、命を食らう呪具。
オーデルがその宝玉を握り潰した瞬間、谷底の空間が悲鳴を上げた。
ドゥゥゥンッ!!
重力魔法を強引に引き裂き、ドス黒い瘴気の奔流が弾け飛ぶ。
その凶悪な魔力の矛先は、谷を包囲する魔導部隊ではなく、前線で巨大な魔法陣の維持に集中していたサーニャへと真っ直ぐに向けられていた。
「……っ! サーニャ、危ない!」
背後で魔力を調整していたユーリの切羽詰まった声。
しかし、サーニャは身動きが取れなかった。ルーベルの罠を維持するため、そしてオーデルを確実に仕留めるための術式構築に全神経を注いでいたのだ。
迫り来る、死の匂いを孕んだ漆黒の閃光。
(あ、これ、ちょっと不味いかも……)
サーニャが咄嗟に防御結界を張ろうとした、その刹那だった。
「──サーニャぁぁっ!!」
絶対に戦場にいるはずのない、掠れた悲鳴。
横から飛び出してきた華奢な影が、サーニャの前に覆い被さるように両手を広げた。
「マイヤ、お姉、さま……!?」
サーニャは自分の目を疑った。
そこには、極度の人見知りで、怖がりで、戦場へなど出られないはずのマイヤがいた。
ドレスの裾は泥に汚れ、膝はガクガクと小刻みに震えている。それでも、彼女は逃げ出さず、迫り来るドス黒い暴力の前に、身を挺して立ち塞がったのだ。
「私の、私の可愛いサーニャに……っ!」
マイヤの瞳から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちる。
恐怖で顔は蒼白になり、歯の根が合わないほど震えているのに。
「触れないでぇぇぇっ!!」
マイヤが泣き叫んだ瞬間、彼女の細い体から、太陽を凝縮したような眩い黄金の光が爆発的に弾け飛んだ。
普段は内側に閉じこもってばかりいるその力が、愛する妹を守りたいという一心で、奇跡のように現出した『絶対防壁』。
轟音が鳴り響く。
漆黒の閃光が黄金の壁に激突し、凄まじい衝撃波が戦場を吹き荒れる。
光の乱反射の中、サーニャの目に映ったのは、必死に歯を食いしばり、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながらも、絶対に後ろへは下がろうとしない姉の小さな背中だった。
(ああ……)
サーニャの胸の奥で、何かが熱く、激しく弾けた。
あの震える足で、どれほどの恐怖をねじ伏せて、ここまで走ってきてくれたのだろう。
言葉すらまともに発せないほど臆病な人が、自分のために、あんなに大きな声で叫んでくれている。
世界で一番弱くて、不器用で、誰よりも愛しい、私の自慢のお姉さま。
「……っ、サーニャ、大丈夫……!? 怪我、してないっ!?」
呪具の光が霧散した直後、マイヤはへなへなとその場にへたり込み、ボロボロ泣きながらサーニャの無事を確認しようと手を伸ばしてきた。
「はい。お姉さまが守ってくださったから、傷一つありません」
サーニャはマイヤをきつく抱きしめ、その震える背中を撫でた。
(ああ、私の愛しいお姉さま。なんて愛らしく、なんて尊いのでしょう)
へたり込んだマイヤを抱きしめながら、サーニャの頭の中は、完全に『お姉さまへの愛』でショートを起こしていた。
こうしていると、先程まで感じていたランドールに対する怒りすら、忘れてしまいそうだった。ただただ、震えながら自分を守ってくれた姉の勇気が嬉しくて、誇らしくて、世界中のすべてを花畑に変えてしまいたいほどの多幸感に包まれる。
「お姉さま。私、お姉さまの妹に生まれて本当に幸せです」
「さ、サーニャ……? 息、くるし……っ」
と同時に、マイヤの肩越しに力尽きて白目を剥いているオーデルを一瞥する。
(──よくも、私のお姉さまを、こんな危険な目に遭わせたわね)










