第2話
「急報! ランドール王国軍、およそ三万! 既に我が国の国境へ向けて進軍を開始しております!」
深夜のエスカマイン王城、円卓の間。
文官の悲鳴のような報告が響き渡っても、集まった王族たちの顔に狼狽の色は一切なかった。
ただ、ひたすらに重く、刺すような沈黙だけが場を支配している。
「……婚約破棄は、単なる口実に過ぎなかったというわけですね」
静寂を破ったのは、三女ルーベルだった。
彼女は冷たい手つきで一枚の羊皮紙を円卓に広げる。ランドール軍の進軍ルートが記されたその地図を、万年筆の先でコツンと叩いた。
「オスマン王は初めから、我が国を呑み込むつもりだったのです。マイヤお姉様を理不尽に追い詰め、一方的に罪を被せたのも、すべては開戦の大義名分を作るための三文芝居。……反吐が出ますわね」
理知的な眼鏡の奥で、ルーベルの瞳が絶対零度の怒りに細められる。
いつもは一歩引いて全体を俯瞰する彼女が、これほどまでに露骨な嫌悪を口にするのは珍しかった。
ミシッ
突如、分厚い黒檀の円卓に巨大な亀裂が走った。
「……我が愛娘をあのような卑劣な手で辱め、心の底から怯えさせたばかりか、この国まで貪ろうというのか」
地を這うような低い声。
声の主は、父ガフールだった。普段は妻の尻に敷かれ、娘たちにデレデレとだらしない笑顔を向けている男の姿は、そこにはない。
かつて『エスカマインの鬼神』と他国から恐れられた、筆頭近衛騎士の圧倒的な覇気。凄まじい握力だけで円卓を砕いたガフールの背には、今にも血の雨を降らせんばかりの巨大な闘気が渦巻いている。
「出陣する。私の剣で、あの薄汚い軍勢の先陣を物理的に粉砕してやる。マイヤの涙一滴につき、千の首を刎ねてもまだ足りん!」
「お待ちください、お父様。怒りに任せて正面からぶつかるなど愚策の極み。それよりも……」
ルーベルがすかさず万年筆を地図の側面へと滑らせる。
「オーデル殿下は己の武力と勇者の血を過信している、見栄張りの愚か者です。国境の側面防衛をあえて手薄に見せかけ、敵の主力部隊を『死地』へと誘い込みましょう。そこを我が国の魔導部隊で完全包囲し、一匹残らずすり潰します」
「……良い案だ。だが、それだけでは足りない」
静かに、しかし絶対的な威厳を持って紡がれた声。
その一言で、場を制圧していたガフールの闘気すらもがピタリと収まる。
上座に座る母、アマル女王。
かつての聖女であり、この国の頂点に立つ彼女は、静かに目を伏せていた。
「あの子は耐えたのです。恐ろしくて声も出せない中、たった一人で敵の悪意の只中に立ち、エスカマインの娘としての矜持を必死に守ろうとした」
アマルのぎゅっと組まれた両手が、微かに震えている。
女王としての顔の下で、愛する我が子を傷つけられた母親の心が、どれほど血を流して泣き叫んでいるか。
「ならば、次は私たちが親として、家族として応える番です」
アマルが顔を上げた瞬間、その場にいた全員が息を呑んだ。
慈愛に満ちた瞳には、苛烈な光が宿っていた。
「ランドールを迎え撃ちます。娘の尊厳を踏みにじり、国を奪おうとする愚か者たちに、我がエスカマイン王家の結束がいかなるものか、その身と魂に深く刻み込んでやりなさい」
「「「御意!!」」」
ガフールとルーベル、そして文官たちが一斉に頭を下げる。
家族の怒りが、熱い炎となって城を包み込もうとしていた。
その輪の中で、サーニャだけは一人、ふんわりと可憐な笑みを浮かべていた。
怒り狂う父や、冷徹に罠を張る妹、威厳に満ちた母の姿を見つめながら、彼女の胸の奥でドス黒い魔力が歓喜の声を上げる。
(ああ、なんて素敵な家族なのかしら。でもね……)
サーニャはこっそりと踵を返し、音もなく円卓の間を抜け出した。
(いくらお父様たちの罠が完璧でも、最後のトドメだけは絶対に譲らない。……オーデル王子は、私がこの手で直接、ぐちゃぐちゃのボロボロにしてあげるんだから)
最強の家族による迎撃戦が幕を開けようとする中、最凶のシスコン聖女は、自身の有り余る殺意を押し隠していた。










