第1話
「マイヤお姉さま!」
エスカマイン王城。息を切らして分厚いオークの扉を押し開けたサーニャの目に飛び込んできたのは、薄暗い豪奢な天蓋ベッドにうずくまる、小さな影だった。
社交界では『氷の令嬢』と恐れられ、視線を向けられただけで屈強な騎士すら震え上がらせるという長女、マイヤ。
だが、そこに世間が吹聴するような面影はない。シーツを頭から被り、毛玉のように丸まって、ガタガタと小刻みに震えるひとりの可憐な少女がいるだけだった。
「……っ、サーニャ……? サーニャなの……っ?」
掠れた、ひどく鼻声の震え声。
シーツの隙間から覗いたのは、赤く腫れ上がった目元と、涙でぐしゃぐしゃになった顔。サーニャの姿を認めた瞬間、マイヤは弾かれたようにベッドから転がり落ち、真っ直ぐに妹の胸へと飛び込んできた。
「サーニャぁ……っ! 怖かった、私、何も言えなくて……っ! 怖かったよぉ……っ!」
「お姉さま……っ」
華奢な身体を、力強く抱きしめ返す。
普段はピンと伸びている背筋は丸まり、マイヤはサーニャのドレスの胸元を細い指でギュッと掴んで離さない。ヒック、ヒックと幼子のようにしゃくりあげる背中を、サーニャはゆっくりと、何度も撫で下ろした。
「大丈夫、大丈夫よ。私がいます。世界で一番可愛くて、優しくて、私を愛してくれるお姉さまのサーニャはここにいます」
甘い香りのする銀髪に頬ずりしながら、サーニャは努めて優しく、甘い声を紡ぐ。
外では絶対に声を出さず、誰に対しても鉄仮面を貫くマイヤ。それは決して冷酷なのではなく、ただ極度の人見知りで、どう接していいか分からず完全にフリーズしているだけなのだ。
それを知っているのは、心を許したエスカマインの家族だけ。とりわけ、昔から付きっきりで彼女の世話を焼いてきたサーニャの前でだけ、マイヤはこうして本当の、脆くて不器用な自分を曝け出してくれる。
「……っ、喉が、きゅって締まって……っ。頭が真っ白になって、息をするのも、苦しくて……っ」
「ええ、ええ。よく頑張りましたね」
「でも、あの人……オーデル殿下、笑ったの……っ」
ビクッと、マイヤの肩が大きく跳ねた。
恐怖を思い出したように、彼女の指先が白くなるほどサーニャのドレスを握りしめる。
「『まるで不気味な人形だな』って……。『愛想のひとつもない、気味の悪い女』って……っ! 私、ごめんなさいって、言おうとしたのに、声が……っ!」
「…………」
「『こんな欠陥品を寄越すとは、エスカマインも落ちたものだ』『お前のような女、こちらから願い下げだ』って……っ! みんなの前で、笑って……っ!!」
わぁぁぁっ、と。
堪えきれなくなったように、マイヤは再び声を上げて泣き崩れた。
自分のせいで国に泥を塗ってしまったという罪悪感。大勢の前で存在を全否定された屈辱。そして何より、誰も助けてくれない異国の地で、たった一人で耐え抜かなければならなかった孤独。
どれほどの恐怖だっただろう。
どれほどの絶望だっただろう。
「……ごめんなさい、サーニャ……っ。私、ダメなお姉ちゃんで……っ。せっかくの婚約、台無しにして……っ」
「謝らないで、マイヤお姉さま」
サーニャは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった姉の顔を両手で優しく包み込み、その額にチュッと柔らかいキスを落とした。
「お姉さまは、何も悪くない。悪いのは、お姉さまのこの無上の愛らしさに気づけない、節穴の目玉を持った愚か者です」
「サーニャぁ……」
「今日はもう、ゆっくりおやすみなさい。私がずっと、手を握っていますから」
ふわりと、温かく優しい聖女の魔力がマイヤの身体を包み込む。
張り詰めていた糸が切れたように、マイヤの瞳がとろんとまどろみ、やがて規則正しい寝息へと変わっていった。
サーニャは、ベッドに姉を寝かせ、その涙の跡が残る頬をそっと撫でる。
……なんて可憐で、愛おしいのだろう。
自分のためにお茶を淹れてくれる時の、あのはにかんだ笑顔。
新しいドレスを着て「似合うかな?」とモジモジしていた時の、あの赤らめた頬。
そんな宝物のような姉の心を、見ず知らずの男が土足で踏みにじり、ズタズタに引き裂いた。
「…………」
サーニャは静かに立ち上がり、窓の外、遠くランドール王国の方角を見据えた。
その瞬間──部屋の空気が、凍りついたように重く沈んだ。
明るく元気な、エスカマインの誇る当代一の聖女。
その瞳から、一切の光が消え失せていた。
「──万死に値するわね」
ぽつりとこぼれ落ちた声は、絶対零度よりも冷たく、暗い。
彼女の体から立ち昇る魔力は、本来の癒やしや防御の光を帯びてはいなかった。どす黒く、重く、触れるものすべてを圧殺するような異常な密度の魔力が、バチバチと大気を震わせる。
「私の、私だけの、世界で一番大切なお姉さまをあんなに泣かせるなんて。……どうやってその罪を償わせようかしら」
ギリッ、と。
握りしめた拳から、血の気が引くほどの力がこもる。
「オーデル・ランドール。あの国ごと、消し炭にして差し上げましょうか」
氷の令嬢の仮面を被らされ、泣くことしかできなかった哀れな姉。
その背後には、姉の涙一滴につき一国を滅ぼしかねない、最凶の『シスコン聖女』が控えていることを、愚かな王子はまだ、知らない。










