第九話 恐怖
朝、机の上には八枚の紙があった。
スノウベル。
夕飯、食べた?
約束、守れたよ。
分かりません。
雨の音が、少しうるさかった。
許さない。
あの子を、私に許させる理由にするな。
名前を、忘れたくなかった。
いい仕事だった。
ルナは、その隣に置いた余り紙を見た。
昨日の夜、自分で書いたものだ。
記録士。
いい仕事。
二つの言葉の間には、まだ少し隙間がある。
一晩たっても、その隙間は埋まらなかった。
スノウベルは、もう花というより、白い影に近かった。
花弁は薄く、茎は傾いている。
水を替えても、元には戻らない。
それは分かる。
けれど、捨てるという動作を、ルナはまだ選べなかった。
ギルドへ向かう道で、空はよく晴れていた。
晴れているのに、風は冷たい。
通りの人々は明るい声で話している。
露店の布は乾き、石畳には雨の跡もない。
世界は、昨日の灰の匂いを引きずっていない。
それが少し不思議だった。
受付の前には、誰も並んでいなかった。
珍しい朝だった。
受付の女性はルナを見ると、すぐに一枚の依頼書を取り出した。
「ルナさん、午前の依頼です」
「はい」
依頼人の名前は、セイ・ラウ。
三十九歳。
職業、時計塔の管理人。
呪いの種類は、死恐怖性残留。
緊急度は高。
ルナは依頼書を読む手を止めた。
「死恐怖性」
「はい。死を拒む感情が強く残っている状態です」
「本人の意識は」
「あります。ただし、錯乱に近い発言が出ています」
「立ち会いは」
「姉が一人。ただし、本人が人を多く入れることを嫌がっています。記録士は一人のみ」
受付の女性は、少しだけ声を低くした。
「今回の依頼は、かなり難しいと思います」
「理由は」
「依頼人が、最後の言葉を決められる状態にない可能性があります」
「決められない」
「はい。死にたくない、と繰り返しているそうです」
その言葉だけで、周囲の音が少し遠くなった気がした。
死にたくない。
それは最後の言葉なのか。
それとも、最後の言葉を拒む声なのか。
「承知しました」
ルナは依頼書を受け取った。
廊下の曲がり角で、アリュが立っていた。
手には名札を持っている。
外れてしまったのか、針の部分を見つめていた。
「名札が」
「引っかけてしまって」
アリュは慌てて上着につけ直そうとする。
針がうまく通らない。
ルナは少しだけ手を伸ばした。
「貸してください」
「え、はい」
名札を受け取り、上着の左胸へつける。
アリュ。
細い字で書かれた名前が、まっすぐになった。
「ありがとうございます」
「はい」
「今日の依頼は、高ですか」
「はい」
「気をつけてください」
昨日も似たようなことを言われた。
その前にも。
アリュはいつから、ルナの帰りを気にするようになったのだろう。
「戻ります」
「はい」
アリュは頷いた。
そのあと、小さく付け加える。
「戻ってきてください」
ルナは答えようとして、少しだけ止まった。
「はい」
その一文字が、いつもより重かった。
時計塔は、中央広場の北に立っている。
古い石造りの塔で、街のどこからでも針が見える。
鐘は昼と夕方に鳴る。
子どもたちは鐘の数で帰る時間を知り、店の者は針の位置で店じまいを決める。
セイの住まいは、その時計塔の下にあった。
塔の管理人は、鐘と歯車の世話をするため、すぐそばに暮らす。
扉の前に、小柄な女が立っていた。
目元が赤い。
けれど、背筋は崩れていない。
「記録士さんですか」
「はい。ルナです」
「姉のミサです。弟をお願いします」
ミサは深く頭を下げた。
「本人は中に」
「はい。上の部屋です。階段を上がってすぐ」
彼女は扉へ手をかけたが、すぐには開けなかった。
「弟は、昔から時間に細かい人でした」
「時計塔の管理人なので」
「そうですね」
ミサは小さく笑おうとして、できなかった。
「何時に起きて、何時に食べて、何時に寝るか。全部決めていました。人より時間を守る人でした」
「はい」
「でも、死ぬ時間だけは守りたくないみたいです」
ルナは返事をしなかった。
ミサは自分の言葉に傷ついたように顔を伏せる。
「すみません」
「謝ることではありません」
「怖いんです。私も」
ミサは扉を開けた。
「でも、弟ほどではないと思う」
塔の中は、石と油の匂いがした。
壁の奥で、歯車がゆっくり動く音がする。
かちり。
かちり。
一定の間隔で、時間が刻まれている。
階段を上がるにつれ、その音は大きくなった。
二階の小部屋には、細い寝台と机がある。
壁には工具が並び、机には分解された小さな時計が置かれていた。
針のない時計だった。
寝台の上で、男が膝を抱えている。
年齢より若く見える顔だった。
額には汗が浮かび、目だけが落ち着きなく動いていた。
「記録士です」
ルナが名乗る前に、男が叫んだ。
「まだだ」
「はい」
「まだ死なない」
「セイ・ラウさんでよろしいですか」
「まだだと言っている」
セイは毛布を掴んだ。
指の関節が白い。
「鐘は鳴っていない。昼の鐘も、夕方の鐘も、まだ鳴っていない。だからまだだ」
「聞き取りを始めてもよろしいですか」
「聞くな」
「はい」
「いや、聞け。聞いてくれ。でも書くな」
セイの声は乱れていた。
怒りではない。
悲しみでもない。
恐怖だった。
形のないものが、喉から何度もこぼれている。
ルナは記録書を開いた。
だが、万年筆はまだ構えなかった。
「私は、最後の言葉を聞きに来ました」
「最後じゃない」
「はい」
「最後じゃない。最後じゃない。まだ歯車は動いている。時計も動いている。だから、まだ」
部屋の奥で、時計塔の歯車が鳴る。
かちり。
セイの肩が跳ねた。
「止めてくれ」
「何を」
「音を」
「時計の音ですか」
「あれが、減っていく音に聞こえる」
セイは両耳を塞いだ。
「一つ鳴るたびに、近づく。分かるんだ。近づいてくる。見えないのに、分かる」
ルナは、第五話の雨音を思い出した。
雨の音が、少しうるさかった。
あれは不快だったのだろうか。
恐怖ではなかった。
少なくとも、この部屋の音とは違う。
「お姉様を呼びますか」
「呼ぶな」
「はい」
「呼んでくれ」
セイはすぐに言い直した。
その目が扉の方へ動く。
「いや、呼ぶな。見られたくない。こんな顔を」
「はい」
ルナはただ聞いた。
選べない声。
相反する言葉。
それもまた、本人の中にあるものだった。
「死にたくない」
セイが言った。
ルナの指が、わずかに動いた。
万年筆を構えそうになり、止まる。
今の言葉は最後の言葉なのか。
繰り返しなのか。
叫びなのか。
「死にたくない。死にたくない。死にたくない」
セイは繰り返した。
そのたびに、声が少しずつ細くなる。
「怖い」
「はい」
「嫌だ」
「はい」
「なぜ、みんな平気な顔をするんだ」
ルナはすぐには答えを置けなかった。
「姉は泣いていた。医者は静かだった。近所のやつは、いい人だったと言った。まだ死んでないのに。まだここにいるのに」
セイは自分の胸を叩いた。
「ここにいるんだ。まだ」
ルナは、その手を見る。
胸を叩く手。
生きていることを確かめる手。
「記録士」
「はい」
「あんたは、怖くないのか」
「死が、ですか」
「ああ」
ルナはすぐに答えられなかった。
死。
何度も見てきた。
記録してきた。
けれど、自分の死を考えたことはあっただろうか。
「分かりません」
「ずるいな」
「はい」
「分からないなら、怖くないのと同じだ」
そうなのだろうか。
ルナには判断できなかった。
「私は、たくさんの最期を記録しました」
「だから慣れたのか」
「いいえ」
「じゃあ何だ」
「慣れたと思っていたのかもしれません」
言ってから、ルナは自分の声を聞いた。
それは業務の言葉ではなかった。
セイは少しだけ黙った。
時計の音が、その沈黙に入ってくる。
かちり。
かちり。
「慣れるものか」
「はい」
「慣れてたまるか」
セイは毛布を強く握った。
「僕は時計を直してきた。止まった針を動かしてきた。遅れた時間を合わせてきた。朝の鐘が鳴らなければ、街の店は開かない。夕方の鐘が鳴らなければ、子どもは帰らない」
声は震えていた。
それでも、少しだけ整っていく。
「時間を守ってきたんだ」
「はい」
「なのに、僕の時間だけ、誰も直せない」
ルナは記録書の白いページを見る。
セイの言葉は、どれも最後の言葉に見えた。
けれど、まだ決まっていない。
本人がまだ選べていない。
「最後の言葉を、立派にする必要はありません」
「立派?」
「はい」
「そんなもの、いらない」
セイは笑った。
泣き声のような笑いだった。
「立派なことを言える人間だけが死ぬわけじゃない」
「はい」
「怖いまま死ぬ人間もいる」
「はい」
「逃げたいまま、終わる人間もいる」
「はい」
セイはルナを見た。
目の奥に、まだ恐怖があった。
でも、言葉は少しだけこちらを向いていた。
「それでも、書くのか」
「書きます」
「情けなくても」
「はい」
「醜くても」
「はい」
「それしか言えなくても」
「本人の言葉であれば」
セイは目を閉じた。
唇が震えている。
時計の音が続く。
かちり。
かちり。
やがて、階下でミサが何かを落とした音がした。
金属の小さな音。
セイが目を開ける。
「姉さん」
「呼びますか」
「呼ばないで」
今度は、言い直さなかった。
「でも、言って」
「何を」
「違う。言わなくていい。いや」
セイは自分の言葉に追いつけないまま、息を吸った。
「姉さんの作ったスープ、熱すぎるんだ」
「はい」
「いつも熱い。猫舌だって何度も言ったのに、いつも熱い」
「はい」
「でも、冷めるまで待つと、姉さんが悲しそうな顔をする」
セイは小さく笑った。
今度は、少しだけ本当に笑っているように見えた。
「だから、いつも火傷しながら飲んだ」
ルナはその言葉を覚えた。
記録するべきではない。
けれど、消してはいけない言葉に思えた。
「最後の言葉を、話していただけますか」
セイは、時計の音を聞いていた。
しばらく、声は出なかった。
いや、声がなかったのではない。
言葉が、喉の奥で形を探していた。
そして、ようやく言った。
「死にたくない」
ルナの万年筆が動いた。
死にたくない。
紙に移った瞬間、記録書の端が温かくならなかった。
代わりに、冷たくなった。
指先から手首へ、細い冷えが上ってくる。
ルナの手が震えた。
ほんの少しだった。
けれど、確かに震えた。
文字の最後の線が、わずかに揺れた。
セイはそれを見ていた。
「怖いか」
「……はい」
声が出た。
短く、遅い声だった。
セイは目を細めた。
安心したようにも、悲しそうにも見えた。
「そっか」
それは最後の言葉ではなかった。
けれど、部屋の空気が少しだけ変わった。
セイは力を抜いた。
時計の音はまだ続いている。
かちり。
かちり。
けれど、彼の肩はもう跳ねなかった。
「姉さんのスープ」
小さな声だった。
「少し冷ましてから、飲めばよかったな」
その言葉を最後に、セイの呼吸は遠くなった。
時計の音だけが残った。
記録は完了した。
呪いは断たれた。
だが、記録書の端はしばらく冷たいままだった。
ルナは記録書を閉じる。
手の震えはもう止まっている。
けれど、止まったことがかえって怖かった。
震えた理由も、止まった理由も、どちらも自分の中にあるはずなのに、よく見えない。
階下へ降りると、ミサが立っていた。
手には布巾を持っている。
何かを拭いていたのだろう。
布巾の端が濡れていた。
「弟は」
「記録は完了しました」
ミサは目を閉じた。
その顔に、覚悟はあった。
でも、覚悟があっても人は崩れるのだと、ルナは思った。
「最後に、何と」
「死にたくない、と」
ミサの顔が歪んだ。
けれど、彼女は頷いた。
「そうですよね」
「はい」
「怖がりでしたから」
「はい」
「でも、時計塔には一人で上るんです。風が強い日でも、鐘のところまで」
ミサは濡れた布巾を握りしめた。
「怖がりなのに、時間だけは止めませんでした」
「はい」
ルナは少し迷った。
最後の言葉ではない。
けれど、伝えるべきだと思った。
「お姉様のスープの話をしていました」
「スープ」
「熱すぎる、と」
「……そうですか」
ミサは、そこで初めて涙をこぼした。
「いつも、冷ませって言ったのに」
「はい」
「飲むんです。熱いのに。顔をしかめて」
「はい」
ミサは布巾で目元を押さえた。
「馬鹿ですね」
「はい」
ルナは頷いた。
その返事が正しいのかは分からない。
でも、ミサは少しだけ笑った。
「本当に、馬鹿です」
時計塔の鐘が鳴った。
昼の鐘だった。
一つ。
二つ。
三つ。
音は広場へ広がり、街へ流れていく。
セイがいなくなっても、鐘は鳴る。
誰かが歯車を巻いたからだ。
おそらく、昨日のうちに。
あるいは、今朝、痛みをこらえながら。
ルナはその音を聞いていた。
怖い。
さっき自分が言った一文字が、まだ喉に残っている。
ギルドへ戻ると、アリュが廊下で待っていた。
今度は食堂ではなく、玄関の近くにいた。
名札はまっすぐついている。
「おかえりなさい」
「戻りました」
「顔色が悪いです」
ルナは答えようとして、手を見る。
震えてはいない。
でも、さっき震えた。
「手が震えました」
「え」
「記録中に」
アリュの顔が変わった。
驚きと不安が混じる。
「痛かったですか」
「冷たかったです」
「冷たい」
「はい」
アリュは何かを言おうとして、飲み込んだ。
それから、小さく聞いた。
「怖かったですか」
ルナは沈黙した。
怖い。
さっき、セイに対して言った。
はい、と答えた。
同じ言葉を、もう一度出せるだろうか。
「少し」
アリュは頷いた。
目は少し赤くなったが、涙は落とさなかった。
ルナの前から、動かなかった。
「水、持ってきます」
「はい」
ルナは玄関脇の椅子に座った。
アリュが走っていく音を聞く。
その音は、時計塔の歯車より不規則だった。
不規則なのに、少しだけ安心した。
夜、ルナは机の前に座った。
八枚の紙の横に、新しい紙を置く。
死にたくない。
九枚目の紙だった。
書いた瞬間、部屋の空気が少し冷えた気がした。
ルナはしばらく万年筆を置けなかった。
もう一枚、余り紙を取る。
今日、自分が言った言葉を書く。
怖い。
たった二文字だった。
その下に、少し迷ってからもう一行足した。
少し。
二枚の紙を並べる。
死にたくない。
怖い。少し。
ルナは、その二枚を近づけなかった。
でも、離しすぎることもできなかった。




