第十話 希望
朝、ルナは九枚の紙を見た。
スノウベル。
夕飯、食べた?
約束、守れたよ。
分かりません。
雨の音が、少しうるさかった。
許さない。
あの子を、私に許させる理由にするな。
名前を、忘れたくなかった。
いい仕事だった。
死にたくない。
その横に、余り紙が一枚ある。
怖い。少し。
ルナはその紙だけを、少し長く見ていた。
昨日、自分で書いた言葉だ。
字は乱れていない。
けれど、書いたときの手の冷たさはまだ覚えている。
覚えている。
そう思ったあとで、ルナは自分の手を見る。
今朝は震えていない。
名前も書ける。
声も出る。
問題ありません。
そう言いかけて、やめた。
問題があるかどうかを、自分で決めることが難しくなっていた。
窓辺のスノウベルは、ほとんど枯れていた。
白は白ではなく、薄い灰色に近い。
ルナは水差しを持ち上げる。
水は濁っていなかった。
花瓶の底に、細かな白いものが沈んでいる。
花弁の欠片だろう。
捨てるべきだ。
そう思った。
けれど、手は動かなかった。
ギルドへ向かう道で、空は曇っていた。
昨日、時計塔の鐘が鳴った時間を、身体が覚えている。
広場を通ると、塔の針は正しく動いていた。
誰かが歯車を巻いたのだろう。
セイではない誰かが。
時間は止まらない。
その言葉は正しい。
けれど、正しさだけでは人は息ができないのだと、昨日少しだけ知った。
受付の前で、アリュが名札を触っていた。
今日は曲がっていない。
それでも、何度も指で確かめている。
「おはようございます」
「おはようございます」
アリュはルナの顔を見て、少しだけ目を細めた。
「眠れましたか」
「はい」
「本当に?」
「目は閉じました」
「それは眠れたとは少し違います」
ルナは答えられなかった。
アリュは責めるわけではなく、ただ水差しを差し出した。
「朝の水です」
「なぜ」
「昨日、冷たかったって言っていたので」
ルナは水を受け取る。
冷たい。
でも、昨日の記録書の冷たさとは違った。
喉を通ると、少しだけ体の内側が戻る感じがした。
「ありがとうございます」
「はい」
受付の女性が依頼書を出した。
「ルナさん、午前の依頼です」
「はい」
依頼人の名前は、フィオ・クレイ。
二十六歳。
職業、硝子温室の管理人。
呪いの種類は、未来希求性残留。
緊急度は中。
「未来希求性」
「本人の意識が、まだ来ていない明日に強く残っている状態です」
「未練とは違うのですか」
「近いですが、後悔よりも、これから先への執着が強いとされています」
受付の女性は、資料の端を指で押さえた。
「本人は長く病を患っています。ただ、錯乱はありません」
「立ち会いは」
「妹さんが一人。ただし、最初の聞き取りは本人のみ希望です」
「承知しました」
ルナは依頼書を受け取る。
未来。
明日。
まだ来ていないもの。
昨日のセイは、それを恐れていた。
今日の依頼人は、それを望んでいるらしい。
同じ明日でも、向きが違う。
硝子温室は、南門の近くにあった。
街の薬草園に隣接した大きな建物で、壁と屋根の多くが透明な硝子でできている。
曇り空でも、内部は淡く明るい。
外から見ると、植物の影がぼんやり揺れていた。
入口の前に、少女が立っていた。
年は十六、七ほど。
薄茶色の髪を後ろで結び、両手に小さな鉢を抱えている。
鉢には、まだ芽の出ていない土だけが入っていた。
「記録士さんですか」
「はい。ルナです」
「リアです。フィオの妹です」
リアは鉢を抱え直した。
その手には土がついている。
「姉は奥にいます。温室から出たがらなくて」
「体調は」
「悪いです。でも、本人は悪いって言われると怒ります」
リアは少しだけ笑った。
無理に作った笑いではない。
慣れてしまった笑いだった。
「聞き取りは本人のみですね」
「はい。私は外で待っています」
「この鉢は」
「姉が、持っていろって」
「何の種ですか」
「分かりません。まだ教えてくれません」
リアは鉢の土を見た。
「芽が出たら分かるって言われました」
「そうですか」
芽が出たら分かる。
それは、まだ来ていない答えだった。
温室の中は、湿っていた。
土の匂い。
葉の匂い。
水の匂い。
外の曇り空とは違い、中には薄い緑の光が満ちている。
天井の硝子に水滴がつき、時々、細く流れた。
奥の長椅子に、若い女性が座っていた。
肩に薄い布をかけ、膝には帳面を置いている。
顔色は悪い。
けれど、目はよく動いた。
眠るより、見ていたいという目だった。
「記録士さん」
「はい。ルナです」
「フィオです。ごめんなさい、立てなくて」
「問題ありません」
「問題はありますよ。立てないんですから」
フィオは笑った。
軽い笑いだったが、息が少し引っかかった。
「聞き取りを始めてもよろしいですか」
「ええ。でも、最初に一つだけ確認していいですか」
「はい」
「最後の言葉って、必ず過去のことじゃないとだめですか」
ルナは万年筆を持つ手を止めた。
「過去」
「ありがとうとか、ごめんねとか、楽しかったとか、そういうものが多いでしょう」
「多いです」
「でも、未来のことを言ってもいいですか」
「本人の言葉であれば」
「便利な答えですね」
「よく言われます」
フィオは笑った。
今度は少し長く笑って、途中で咳をした。
ルナは水差しを取ろうとしたが、フィオが手で制した。
「慣れています」
「はい」
温室の奥には、たくさんの札が立っていた。
日付、種の名前、水やりの回数、発芽予定。
細かな字で書かれている。
一つ一つに、まだ起きていないことが記されていた。
「ここは薬草園ですか」
「半分はそうです。半分は、私のわがまま」
「わがまま」
「薬草にならない花も育てています。役に立たないって怒られます」
フィオは指で近くの鉢を指した。
そこには青い小さな花が咲いている。
「その花は」
「名前はあります。でも、今は言いません」
「なぜ」
「名前を聞くと、記録士さんは覚えてしまうでしょう」
「はい」
「今日は、別のものを覚えてほしいんです」
ルナは記録書を見る。
覚えてほしいもの。
記録してほしいもの。
それは同じではないのだろうか。
「妹さんのことですか」
「それもあります」
フィオは温室の入口の方を見た。
リアの影は硝子越しにぼんやり見える。
鉢を抱えたまま、動かない。
「あの子は、私が死んだら泣きます」
「はい」
「たくさん泣きます。たぶん、水やりを忘れます」
「はい」
「それで、ここにある苗をいくつか枯らします」
「それは」
「仕方ないです」
フィオの声は穏やかだった。
「人は、泣くと水やりを忘れるものです。私も母が死んだとき、三鉢枯らしました」
「そうなのですか」
「はい。今でも申し訳ないと思っています。でも、あのときの私は水やりより、息をする方が難しかった」
ルナは第九話を思い出す。
死にたくない。
怖い。少し。
息をする方が難しい。
その言葉は、少し分かる気がした。
「妹さんに伝えたいことは」
「たくさんあります」
「はい」
「水は朝。日が強い日は昼にも少し。硝子の内側に水滴が多い日は、根腐れに気をつける。鉢はすぐに大きくしない。根が迷います」
「根が」
「ええ。広すぎる場所に急に置くと、植物も迷うんです」
フィオは帳面を開いた。
そこにはぎっしりと文字がある。
水やり。
日当たり。
土の配合。
病葉の取り方。
薬草ではない花の扱い。
「全部、書いてあります」
「では、妹さんは」
「読めば分かるでしょうね」
「なら、最後の言葉は」
「それとは別です」
フィオは帳面を閉じた。
「手順は紙に残せます。でも、明日のことは紙だけでは渡せない」
ルナはその言葉を記録しそうになって、止めた。
まだ最後の言葉ではない。
しかし、強い言葉だった。
「あなたは、明日を見たいのですか」
「見たいです」
即答だった。
「明日も、その先も。妹が失敗して、泣いて、怒って、また水をやるところを見たい。芽が出たときに騒ぐところも、咲いた花の名前を間違えるところも見たい」
フィオは笑った。
「ひどい姉でしょう」
「なぜですか」
「自分が見られないものを、見たいと言っている」
「それは、ひどいことですか」
「分かりません」
フィオは少し首を傾げた。
「でも、欲張りだとは思います」
ルナは黙っていた。
欲張り。
死にたくない。
明日を見たい。
怖い。
希望。
それらは、遠い言葉ではなかった。
近すぎるわけでもない。
でも、同じ方向を見ている気がした。
「記録士さんは、明日が楽しみですか」
フィオの問いは、温室の湿った空気の中に落ちた。
ルナは答えられなかった。
明日。
明日の依頼。
明日の記録。
明日の自分の名前。
明日の声。
明日のスノウベル。
楽しみ。
その言葉は、第一話のマリの声を連れてきた。
あなたも、楽しんで生きるのよ。
「分かりません」
ルナは答えた。
フィオは少しだけ笑った。
「正直ですね」
「よく言われます」
「では、今日のところは、曇りです」
「曇り」
「楽しみかどうか分からない日は、曇りでいいんです」
ルナは温室の天井を見る。
硝子の向こうに、灰色の空がある。
たしかに今日は曇りだった。
「最後の言葉は、決まっていますか」
「決まっています」
フィオは膝の帳面を、そっと撫でた。
「でも、妹を呼ぶ前に、記録士さんに聞いてほしかった」
「なぜですか」
「リアの前だと、私は姉の顔をしてしまうから」
「姉の顔」
「大丈夫だよ、と言ってしまう。嘘ではないけれど、全部でもない」
フィオは息を吸った。
少し苦しそうだった。
けれど、目は温室の奥を見ている。
「あの子には、私の最後をきれいにしすぎてほしくない」
「はい」
「でも、怖いだけで終わらせてもほしくない」
「はい」
「難しいですね」
「はい」
フィオは笑った。
「では、呼んでください」
ルナは入口へ向かい、リアを呼んだ。
リアは鉢を抱えたまま入ってきた。
足元に気をつけているのに、何度も小さな葉にぶつかりそうになる。
「姉さん」
「鉢、落としてない?」
「落としてない」
「えらい」
「子どもじゃない」
リアはそう言いながら、泣きそうな顔をした。
泣くのをこらえている顔だった。
「そこに座って」
「うん」
リアはフィオの隣に座る。
鉢を膝の上に乗せた。
「その種、何か教えて」
「まだ」
「まだって、いつまで」
「芽が出るまで」
「ずるい」
「姉だから」
フィオは得意げに言った。
その顔は少しだけ幼く見えた。
ルナは記録書を開く。
万年筆を構える。
「フィオ・クレイさん。最後の言葉を伺います」
リアが息を止めた。
フィオは、妹ではなく、鉢の土を見た。
まだ何も出ていない土。
そこに、未来だけが埋まっている。
「明日、晴れるといいね」
ルナの万年筆が動く。
明日、晴れるといいね。
記録書の端が温かくなった。
第八話の火のような温かさではない。
第七話の冷えた手へ息を吹きかける温かさとも違う。
もっと薄い。
でも、遠くまで伸びる温かさだった。
リアが泣き出した。
大きな声ではなかった。
鉢を落とさないように、両手で抱えたまま泣いている。
フィオは、その姿を見ていた。
泣き止ませようとはしなかった。
大丈夫とも言わなかった。
ただ、見ていた。
「水、忘れないで」
「忘れない」
「忘れてもいいよ」
「どっち」
「忘れたら、次の日あげて」
リアは泣きながら頷いた。
「姉さん」
「うん」
「明日、雨だったらどうするの」
「その次の日に期待する」
フィオは笑った。
その笑いの途中で、息が途切れた。
呼吸は、静かに遠くなった。
温室の水滴が、硝子を伝って落ちる。
葉の影が少し揺れる。
リアは鉢を抱えたまま、姉の名前を呼んだ。
「フィオ」
名前は温室の中に残った。
葉の間を通って、土の上に落ちたように聞こえた。
記録は完了した。
呪いは断たれた。
しかし、温室の中の明るさは変わらなかった。
誰かが死んでも、植物はすぐにはそれを知らない。
それでも、明日の水は必要になる。
ルナは記録書を閉じた。
リアはしばらく動かなかった。
やがて、鉢を見下ろす。
「これ、何の種だと思いますか」
「芽が出るまでは、見えません」
「ですよね」
リアは鼻をすすった。
「姉さん、意地悪なんです」
「はい」
「でも、芽が出たら分かるって言ってました」
「はい」
「じゃあ、出るまで待ちます」
ルナは頷いた。
「はい」
「水、朝でしたよね」
「そう伺いました」
「明日、晴れますかね」
「今は、まだ見えません」
リアは少しだけ笑った。
「姉さんと同じこと言いますね」
「そうでしょうか」
「はい。大事なところで、すぐ分からないって言うところ」
ルナは返せなかった。
けれど、不快ではなかった。
温室を出ると、曇り空のままだった。
晴れてはいない。
雨も降っていない。
どちらにも決まらない空だった。
ギルドへ戻る途中、ルナは花屋の前で足を止めた。
スノウベルはもうほとんど季節が終わりらしい。
店先には別の花が並んでいる。
黄色い花。
青い花。
名前を知らない花。
店主が声をかけた。
「何かお探しですか」
「今日は、見るだけにします」
店主は笑った。
「見るだけでもいいですよ。花は、見ているだけの日もありますから」
ルナは少しだけ花を見た。
買わなかった。
けれど、立ち止まった時間は、記録されないまま残った。
ギルドへ戻ると、アリュが受付のそばにいた。
名札はまだまっすぐだった。
「おかえりなさい」
「戻りました」
「今日は、どうでしたか」
ルナは答えを探した。
死にたくない。
怖い。
いい仕事だった。
名前を、忘れたくなかった。
それらの後に来る、今日の言葉。
「曇りでした」
「天気ですか」
「はい」
「でも、今は少し明るいです」
アリュは窓の外を見た。
たしかに、雲の端が薄くなっている。
「晴れますかね」
「まだ、決められません」
ルナはそう答えてから、少しだけ続けた。
「でも、晴れるといいと思います」
アリュは驚いたようにルナを見た。
それから、ゆっくり笑った。
「はい。私もそう思います」
夜、ルナは机の前に座った。
九枚の紙の横に、新しい紙を置く。
明日、晴れるといいね。
十枚目の紙だった。
書いたあと、ルナは窓の外を見る。
夜なので、晴れているかどうかはよく分からない。
雲があるのか、ないのかも見えない。
それでも、ルナはもう一枚の余り紙を取った。
晴れるといい。
そう書いた。
いい、という字の形が少しだけ幼く見えた。
けれど、ルナは消さなかった。
机の上は、さらに狭くなった。
それでも、今日は少しだけ、隙間に光が入る気がした。




